『竜とそばかすの姫』なぜ鈴は一人で恵の元へ向かったのか?

※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています


あ、これ『レディ・プレイヤー1』だ。それが『竜とそばかすの姫』を観た時の正直な感想だ。
『竜とそばかすの姫』は2021年に公開された細田守監督のアニメ映画。声の出演は中村佳穂らが務めている。

『竜とそばかすの姫』

『レディ・プレイヤー1』も『竜とそばかすの姫』も現実世界ではイケてない若者が仮想現実のゲームの世界で大人気になるという筋書きがよく似ている。
『レディ・プレイヤー1』ではオアシス(OASIS)と呼ばれる仮想現実のゲーム内で、オアシスの創業者であるジェームズ・ハリデーが残した3つの鍵を手に入れた者にオアシスの運営権とハリデーの遺産が贈られるという「アノラック・ゲーム 」が開催されている。
主人公のウェイドはオハイオ州のスラムに住む少年で、現実世界では冴えない風貌と家庭環境に苦しんでいるが、オアシス内では仲間と協力して鍵を獲得していき、トッププレイヤーとして活躍していく。

最新の「異世界転生モノ」

最近の作品でもこのような仮想空間や仮想現実をテーマにした作品が増えてきたように思う。これらはいわば一種の「異世界転生モノ」だと言っていい。かつてはそれは全くのファンタジー作品でしか成り立たなかったが、今はネットの進化によって「仮想現実」という設定さえあれば何とか現実の枠内に収めてしまうことができるようになった(とは言えあれほどリアルな仮想空間はやはり今の技術からするとファンタジーとも言えるが)。
さて、こうした仮想現実モノの作品のメッセージと言えば「バーチャルも良いけど、現実世界も大切にしてね」というのが定番だ。
『レディ・プレイヤー1』ではオアシスの運営権を手に入れたウェイドにより、火曜と木曜はオアシスは休みになる。また仮想現実モノの先駆的な作品でもある『マトリックス』ではエンドロールでレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンが「目を覚ませ!」と叫び続ける。
果たして『竜とそばかすの姫』はどんなメッセージを秘めていたのだろうか。

Uとベル

「さあ、もう一人のあなたを生きよう」
「さあ、新しい人生を始めよう」
「さあ、世界を変えよう」
それが流行の仮想空間Uのキャッチコピー。Uは利用者50億人という巨大なプラットフォームだ。

高知県の片田舎に住む内藤鈴は、幼い頃に母親を水難事故で失ってから、父と二人で暮らしている。
母がいた頃は母とともに歌ったり、母の死がニュースになり、SNS上での心ない声を目にした鈴は大好きだった歌を歌うことができなくなり、父親とは微妙な溝が生まれている。
ある時、鈴は親友のヒロちゃん(別役弘香)から仮想空間であるUに誘われ、「belle(ベル)」というアカウント名でUに参加する。
Uの世界のアバターは本人の潜在能力を最大限に引き出す仕組みになっており、鈴もベルとしてなら歌うことができるようになっていた。
最初の頃は賛否両論のネガティブな意見に傷ついていた鈴だが、ベルの音楽と歌声は多くの人々の注目を集め、ベルは大人気の歌姫となっていく。

ネット世界と映画

さて、今のアニメ映画のヒットメイカーと言えば新海誠と細田守は共通して声が挙がるだろう。
そのどちらも今のデジタル世代を上手く描けている。このあたりはスタジオジブリの宮敷駿にはない部分だと思う。
細田守にとってこれほどデジタルやネットをフィーチャーした作品は2009年に公開された『サマーウォーズ』以来だろう。
『サマーウォーズ』に登場する仮想空間OZの利用者は10億人という設定だった。その後フェイスブックが2012年に利用者10億人を達成。映画の中の未来予想図に現実が追いついたと言える。
『サマーウォーズ』から11年経って公開された『竜とそばかすの姫』では仮想空間のU登録してあるアカウントの数が50億と設定されている。
そしてもうひとつ大きいのが2009年当時と比べると比較にならないほどのSNSの進歩と普及だ。
前述のように鈴の心の傷はSNSによって受けたものであり、今もって彼女を一喜一憂させるのはSNS上の他人の声なのだ。

細田守はインターネットの黎明期からインターネットを作品に取り入れてきた。
『マトリックス』や『レディ・プレイヤー1』も仮想現実を物語の舞台とした作品だが、それらが結果として仮想現実を否定的に描いている(前述のように『マトリックス』ではマトリックスから人々を目覚めさせるのが目的であり、『レディ・プレイヤー1』では結果としてオアシスには定休日が設けられるようになる)。
それに対して、細田守は自身を「インターネットを肯定的に描いてきた唯一のクリエイター」と自認している。

現代版の『美女と野獣』

ベルの人気は留まることを知らず、2億人を集めたコンサートがUで開催されるが、そこに竜と呼ばれるアバターが乱入。竜を追う自警団との争いによってベルのコンサートは中止になってしまう。
竜はUの中で道場破りを繰り返していたアバターであり、再起不能なほど相手を痛めつけることから、Uの中でも評判は悪かったが、一部には竜をヒーロー視するアバターも存在した。竜は現実でいうところの迷惑系YouTuberみたいなものかもしれない。
ヒロちゃんはベルのコンサートを中止にされたことが悔しく、竜の正体を突き止めようとする。いくつかの竜の正体とおぼしき人物の候補は出るが、どれも決定打には至らなかった。
鈴もまた竜の行方を探していた。そして竜がある城の中にいることを突き止め、竜に会いに行くことにする。

個人的にはなぜそこまで竜に深入りしようとするのか、理解しかねるところもあるが、細田守は現代版の『美女と野獣』を描きたかったという。
ここでいう『美女と野獣』とはジャン・コクトーが監督した1948年の映画ではなく、1991年のディズニー映画の事だ。当時、細田守は仕事の辛さから入社したばかりの東映アニメーションを退社しようか悩んでいたという。そんな状態のなかで観た『美女と野獣』に細田守は「アニメでこんなにすごいことができるんだ」と感銘を受け、退社を思い留まったというエピソードもある。

『竜とそばかすの姫』でも『美女と野獣』にオマージュを捧げたシーンがいくつか見受けられる。
鈴のアカウント名のベルはそのまま『美女と野獣』のヒロインの名前と同じなのもその一つだろう。
しかし、なぜ鈴が竜に惹かれたのかの描写は説明不足だ。一応劇中では現実世界で若い頃は少し悪そうな人だったり、寂しそうな人に惹かれたということをオバチャンたちが鈴に話していたりはするのだが、例えそれが理由だったとしてももう少し丁寧に描かなければならなかっただろう(新海誠監督の『すずめの戸締まり』もなぜ鈴芽が出会ったばかりの奏太の後をコソコソついていくのか理解に苦しむ場面もある)。

竜が天使のアバターに優しく接する。これが龍の本当の内面なのか。であれば、なぜ竜は道場破りのような真似をしているのか?
竜の孤独に寄り添えるのは、鈴もまた孤独だからだ。

若い世代の絶望

2001年に公開された『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』は21世紀の希望を信じて野原一家がノスタルジーに溺れることよりも未来へ勇気をもって踏み出していく作品だが、21世紀を迎えて20年以上が経った今、子供たちを取り囲む環境はより厳しいものになっていると感じる。新世紀を迎えようとする当時の高揚感を冷笑するように日本の不況は「失われた10年」を超えて「失われた20年」、いや「失われた30年」にも達しようとしている。

2019年に公開された『天気の子』で主人公の森嶋帆高は田舎の実家を家出し、一人で東京に出てくる。彼はマクドナルドに店員として働いていた少女、天野陽菜に奢ってもらったビッグマックを「これまで食べた食事の中で一番美味しい」と形容する。もちろんそれは東京で初めて人の優しさに触れたからでもあるが、そうであるなら帆高は今までどれだけ侘びしく寂しい食卓を囲んできたのか。
『天気の子』は大都会東京の猥雑さをどこまでも細かくリアルに描写しているが、そこに暮らすに陽菜や帆高にとって、貧困はもはや当たり前のことなのだ。恐らく彼らは自分達が貧困であるということにも何の負い目も感じていないかもしれない。
2023年に公開された『世界の終わりから』も女子高生の鈴が主人公だが、鈴は両親を幼い頃に事故で失い、唯一の家族の祖母も病気で亡くし、天涯孤独の身だ。彼女はメイクアップ・アーティストへの夢を諦め、高校を卒業したら就職を希望している。

『竜とそばかすの姫』で描かれるのは経済的な生きづらさより、孤独の部分が大きい。
最近の映画たちで描かれる若い世代の絶望を観ていると、つくづく便利さと豊かさ、幸せは比例しないのだなと感じる。
スマホやYouTubeがあって、確かに便利で楽しみは格段に増えた。昔はCDショップで1000円払ってしか聴けなかった曲たちも、そもそもどこにも売ってないようなCDもYouTubeやストリーミングサービスで聴ける。
だが、それだけだ。確かに便利になったし、有り難いと思うこともある。だが、それが人としての幸福につながっているかといえばそうではない。
便利であることの全てが幸せに直結するのではない。

SNSと時代の変化

SNSができて、誰もが自由に声を上げられるようになった。ある程度の承認欲求なら簡単に満たせるようになった。ネット上に「気持ち」をアップロードすることが当たり前になった一方で、全て可視化され、無意識に他人と自分を比較するようになった。嫌でも他人の本音が目に入るようになった。
いつからか、ケータイの電源を切ること=自由の象徴として歌詞に取り入れた曲が出てきた。Dragon Ashが2000年に発表した『静かな日々の階段を』もその一つだ。便利なツールがいつの間にか自分自身を縛りつけるものになっているのではないか。今の時代だと、もはやケータイの電源を切ること自体を咎められそうな気もするが。
もちろん、悪いことだけではなく、ウェブの世界で成功するという新しい価値観も生まれたことも付け加えておこう。閲覧数、再生数、クリック数、フォロワー数、このような数をどれだけ増やしていけるが今の時代の新しい成功の条件になった。その意味ではベルはその究極形だ(あの目まぐるしくフォロワーが増えていく場面は羨ましく思う)。

細田守はネットの世界も私たちが生きている世界も、どちらも現実なのだと語っている。
鈴は実世界ではクラス内の立ち位置や人間関係から気になる男子である忍と仲良くできないが(実際に表立って仲良くしたら鈴のアカウントが炎上するという事態に陥っている)、仮装現実の世界であれば、そうしたしがらみからも自由になれる。ベルが竜と会おうとしたのもそこが何のしがらみもない世界だからだ。匿名性だからこそ、成り立つ自由だ。
細田守はネットは嘘で現実の世界こそが本当なのだという考えは旧態依然だと言い切る。ネットの世界が現実世界での行動を変えることもあるとも言う。どちらの世界にいる自分も真実なのだ。

竜の正体

ベルの動きを不審に思った自警団のリーダー、ジャスティンはベルに竜の居場所を問いただす。もし答えなければベルをアンベイル(Uの中で現実世界での姿を晒すこと。つまり匿名性が無くなる)と脅すジャスティンだったが、竜の優しさを知っていたベルはジャスティンの要求を拒否。「あなたは正義じゃない」そう言い切る。恐らくジャスティンという名前はジャスティス(=正義)のもじりだろう。
ベルは窮地に陥るが、そこで竜が現れ危機から救い出す。
しかし、それからしばらく経ったある日、竜の居場所はジャスティスによって突き止められ、城は火をつけられ燃やされてしまう。

竜は誰だ?

無数のアカウントの中で一人、ベルの歌を口ずさむ子供のライブ配信動画が見つかる。それはベルが竜だけに歌った歌だった。その子供は竜の事をヒーローだと言っていた少年だった。
この子供が竜なのか?だが、竜の持つ攻撃性とは似ても似つかない。そしてライブ配信は信じられない動画を流していく。その子供が父親に虐待を受けている様子だ。画面には兄の恵が登場し、少年を庇おうとしていた。
彼の孤独、誰も助けてくれないことから生まれた世の中への怒り、彼こそが竜だった。
弟はトモという名前だ。恐らく何らかの知的障害もあるのだろう。竜が優しく接していた天使のアバターもトモのアバターだったのだろう。

鈴は恵に自らがベルであることを伝えるが、恵には信用してもらえず、配信を切られてしまう。
鈴は恵にベルだと信じてもらうために、ある覚悟をする。多くのユーザーを集めたベルのコンサート。そこでジャスティンに自らをアンベイルさせて、素顔の鈴としての姿を晒すということだった。周囲の反対を押しきり、鈴はUの中で本当の姿をさらけ出し、歌を歌う。鈴の脳裏に浮かぶのは幼い子供を救おうとした母の姿だった。
コンサートは大盛況に終わり、その様子を見ていたトモが恵に声をかけ、恵もまた鈴がベルだと信用するようになる。だが、ライブ配信に気づいた恵の父親が配信を切ってしまう。
彼らの住む児童相談所に連絡するも、対応できるのは48時間後だという。それでは間に合わないかもしれない。鈴は一人で恵とトモの家に向かうことにする。

ここは『竜とそばかすの姫』で最も賛否両論となった部分だ。
映画的には最終的に鈴はUだけではなくて、現実世界でもヒーローにならなければならない。
だからこそ、一人で恵の家に向かったのか?しかしそこにはこれまで大切にしてきたリアリティが無くなってしまっている。これは一体なぜだろう?

匿名性を排除した現実性

細田守と新海誠に共通するものはもうひとつある。それは匿名性を排除しているということだ。『竜とそばかすの姫』の舞台は高知県だし、新海誠の『天気の子』では降り止まない雨に濡れる歌舞伎町が映し出される。
宮崎駿は逆に積極的に匿名性を求めた。例として『もののけ姫』は中世日本が舞台だが、主人公のアシタカの出身地も、タタラ場の場所もおぼろげに分かるのみであり、一切の具体性はない。『となりのトトロ』もそうだ。宮崎駿はファンタジーを紡いでいく。
だが、細田守や新海誠は現実世界をファンタジーにしていくのだ。
そう考えるとこの二人がアニメ映画界でスタジオ・ジブリ以来の高い評価を受けているのも納得できる。彼らは現実世界をとことん映し出す。だからこそ観客はキャラクターに共感できる。もちろん、エンターテインメントとしての作り込みの上手さもあるが、ここまで大きなヒットは観客の共感なくしてあり得ない。

話を『竜とそばかすの姫』に戻そう。女子高生の鈴が一人で大人の男が子供を虐待してい家へ行く、それを親も大人と友人も誰一人止めない(むしろ応援さえしている)のはやはり現実離れしている。その直前にの住む地域の児童相談所に連絡するという現実的な手順を踏んでいるからこそ余計にそう思う。
鈴は恵やトモと会うが、案の定、彼らの父親とも遭遇してしまう。
父親は恵たちを守ろうとする鈴を無理に引き剥がそうとする。鈴の顔に父の爪で傷がつく。頬を血が伝う。それでも鈴は凛として揺るがない。
父親にとって、それは自身を恐れない、唯一の子供だった。そして父親はその場を立ち去っていく。
恵は鈴に勇気をもらったことを感謝し、また鈴も竜と会えたことで変われたと言う。だが、この場面で誰も鈴の傷に触れないのは違和感がある。せめて「大丈夫?」の一言くらいはあってもいいだろうし、自分の父親が見ず知らずの女性の顔を傷つけたことに怒ってもいいはずだ。

母との和解

鈴は恵の生きる世界を見てきた。だが虐待に耐え、弟のケイを守るのに精一杯の恵にはまだ鈴のことまでは見えていないのだろう 。
ここで細田守はどのような意図で鈴を一人でのもとへ行かせたのだろうか。本当に鈴をヒーローにするためだけ?いや、それなら父と向かったとしてもその役割は果たせたであろうし、父娘の絆の回復にはむしろその方が良かっただろう。
鈴が一人で鈴を恵たちのもとへ向かう行為は見ず知らずの子供を救おうとして命を落とした母の姿と重なる。素顔で歌ったあの時に脳裏に浮かんだ母の姿。それまで鈴はなぜ母は見ず知らずの子供のために自分を置いていってしまったのか、理解できずに心の底で問い続けていたはずだ。だが、計らずも同じような状況に陥った時、理屈ではなく母の気持ちが理解できたのだろう。このとき既に鈴は大きな覚悟を決めていたのではないだろうか。

エンディングでは父との距離が少し埋まった様子が描かれる。
だが、最も大きい和解は母との和解なのだ。母の行動は確かに母親としては疑問符もある。だが、そこで見捨てることはそもそも人間としてどうなのかとの葛藤の末での母の行動だった。ただ、鈴はいくら理屈では納得できても感情では飲み込めないままだったのだろう。

細田守はネットの世界が現実世界での行動を変えることもあると言った。それがネット世界の一つの希望だ。
冒頭のナレーションが、最後にもう一度繰り返されるが、ここでは響き方が変わっているはずだ。

「さあ、もう一人のあなたを生きよう」
「さあ、新しい人生を始めよう」
「さあ、世界を変えよう」

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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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