『クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん』死んだのは「野原ひろし」だったのか?

※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています


近年の劇場版『クレヨンしんちゃん』シリーズで最も感動できるのは『クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん』(以下『ロボとーちゃん』)ではないかと思う。
数年ぶりに観返してみたが、やはりその思いに間違いはなかった。

『クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん』

『クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん』は2014年に公開された劇場版『クレヨンしんちゃん』第22作となる映画だ。
『ロボとーちゃん』は恐らくは最も大人向けの『クレヨンしんちゃん』だ。
明らかにこの作品の目線は『ロボとーちゃん』を観に来た子供ではなく、その付き添いであろう親たちに合わせてきている。
一家の稼ぎを支える存在ながら、家族の誰よりも邪険に扱われるという父親ならではの悲哀。家に居場所がなく、公園の隅でタバコを吸うが、その場所さえ近所のママたちがマナーを盾に奪おうとしてくる(一応その公園は喫煙可能なスペースではあるが)。
そこで昭和のような家父長的な価値観で家族を支配しようとする「父ゆれ同盟」が暗躍するのが今回の物語だ。
例え父ゆれ同盟の主張には賛同できなくとも、父親の哀しさには多くの人が少なからず共感できたのではないか。
本作でキーワードとなるのは「存在意義」だ。
『ロボとーちゃん』のストーリーを見ていきながら「存在意義」というキーワードを交えて考察していこう。

ロボとーちゃんの「存在意義」

冒頭はしんのすけとひろしがカンタムロボの映画を観る場面から始まる。ここは本作がどういう作品かを暗示している。そしてここでしんのすけがロボットに夢中になっているのが後で大きく効いてくる。
ある日、美女の勧誘に釣られてメンズエステの施術を受けたひろしは知らぬ間にロボットに改造されてしまう。本人はそれに気づかず帰宅するのだが、みさえやひまわりが自身を見て怯える様子に違和感を感じ、しんのすけの差し出した手鏡によって自分がロボット(ロボとーちゃん)に改造されていることを知る。
ロボとーちゃんはこれまでのひろしの記憶も持つ、正真正銘のひろしだ。しんのすけは父がロボットになったことを驚きながらも受け入れるが、みさえからは警戒され、しばらく家の外で寝る生活が続く。ここは5歳のしんのすけの純粋さとみさえの大人としての良識の違いだろう。みさえは本物のひろしの捜索を警察に依頼する。
ロボとーちゃんは自身がひろしと認めてもらえない苦しみを抱えながらも、保護者と園児たちの修学旅行にこっそりとついていく。

園児たちが訪れた修学旅行先は建築現場。そこは全てがAIでコントロールされた無人の建設現場だった。だが、ガイド役のロボットに促され「大人の階段」と言われる階段を登っていったしんのすけ達はあわや建設中のビルから落下するかという危機を迎える(余談だが、「大人の階段」ときいてぼーちゃんが「H2O」と呟くのは1983年にヒットした『想い出がいっぱい』への目配せだ。こういうところからも本作はやはり親世代向けの作品なのだ)。
だが、絶体絶命の時にロボとーちゃんが子供達を救う。大人に気を遣って存在がバレないようにさっさとその場を後にするが、みさえには子供達を救ったのはロボとーちゃんだと見抜かれていた。

身を挺して子供達を救ったことでロボとーちゃんはにみさえにも家族と認められ、野原ひろしとして再び家に迎えられる。
「ロボットでもいい、あなたは立派な父親だわ」
ロボとーちゃんはようやく自己を認めてもらえ、自分の居場所を見つけることができた。
ここで一旦ロボとーちゃんの「存在意義」の問題は落ち着く。ロボとーちゃんには「ひろし」として家族から求められ、愛される場所がある。だが、世の中にはそうではない父親も多いだろう。父ゆれ同盟はしんのすけを利用し、ロボとーちゃんにつけ髭を付けさせる。
するとロボとーちゃんの性格は一変し、昭和親父に一変する。そして自身の扱われ方に不満をもつ父親達を従えて父ゆれ同盟として行動していく。

個人的に『ロボとーちゃん』は今後のAI技術の発展と人間との関わりを考える中でのお手本のような映画だと思う。
しんのすけ達が訪れたようなAIロボットだけで構成される人のいない建築現場は実際にその実現を目指して現実社会でも取り組みが進められている。この場合のAIとははっきりした目的を与え、所与の条件の中で最適な判断をし、行動していくというものだ。ロボとーちゃんのような自発的に意思を持ち行動するAIというのは人工知能の発展においてその次のフェーズとなるだろう。このようなAIは汎用型AIとされるもので、その高度さから実際には実現不可能とも言われているのだが、『ロボとーちゃん』はそこで起きうる問題までしっかり描いている。

映画におけるAIの描かれ方の変遷

その前に過去の映画がロボットや人工知能をどう描いてきたかを見ていこう。これによって『ロボとーちゃん』がAIをテーマにした作品としてもいかに誠実に作られているかがわかるはずだ。
人間とAIの関係がどのように変わってきたのか、時代ごとの映画作品から見ていきたい。

1970~80年代の映画におけるAI

まずは1970~80年代から。ここではまだAIは人類の敵として登場することが多いようだ。
1979年に公開された『エイリアン』に登場したアンドロイドのアッシュは宇宙船のクルーとして完璧な任務をこなしつつも、その目的はエイリアンの生体捕獲であり、そのためには他のクルーを犠牲しても構わないという目的を持っていた。1970年代の少し前にはなるが、1968年に公開された『2001年宇宙の旅』のHAL 9000もそうだろう。

1980年代には『ターミネーター』や『ブレードランナー』がその代表的な映画と言える。1984年に公開された『ターミネーター』は機械(AI)を敵として描いてはいるが、1982年には『ブレードランナー』ではAI(正確にはレプリカント)側の哀しみが描かれる。当時はこの視点は斬新だっただろう。1986年に公開された『エイリアン2』では前作の『エイリアン』では敵だったアンドロイドが一転して主人公側の味方として描かれる。今作では大きくフィーチャーされてはいないが、アンドロイドのビショップが「アンドロイドにも恐怖はある」という台詞は印象的だ。
また、AIとは少し違うものの、1987年に公開された『ロボコップ』ではギャングに殺され、ロボット(ロボコップ)としてよみがえったマーフィーが自身のアイデンティティに悩む様子が描かれている。ここには今回の『ロボとーちゃん』と通じる部分もある。

1990年代の映画におけるAI

1990年代になるとAI=悪という図式は幾分薄れていく。
まずは1991年の『ターミネーター2』。ここでは前作で敵だったターミネーターが味方として登場する。そして物語が進むにつれて生命の価値を学べるようになる。
他には1999年の『マトリックス』。『ターミネーター』シリーズと同じく機械(AI)との戦いを描いてはいるものの、機械側のプログラムであるエージェント・スミスには自由意思が宿っており、自らの任務を放棄したがっているなどその構造は単純なものではない。

2000年代の映画におけるAI

2000年代に入るとAIの描かれ方は一気に多様化する。これまでのAI=敵というのはあまりに一面的な見方だということを現実世界の技術の進歩に突きつけられたのかもしれない。
2001年に公開された『A.I.』は人間の母親を愛することをプログラムされたロボットが主人公だ。ロボットが人を愛することはできるのか?ロボット自身の尊厳としても哲学的なテーマを含んだ作品だ。
2004年には『アイ,ロボット』が公開された。ロボット三原則が施行され、ロボットの安全性を誰も疑わない未来世界で、ロボット三原則そのものが人類の破滅という結果を生むというブラックユーモアみたいな内容だ。今作では三原則に縛られず、自由意思で行動できるロボット、「サニー」の存在がストーリーのカギになっていく。

2010年代の映画におけるAI

2010年代はよりAIが登場する作品が増えたように思う。2014年に公開された『トランセンデンス』は死にゆく科学者の脳をマシンにアップデートしてAIとして再生させる物語だ。『トランセンデンス』は批評的には失敗したのだが、AIが圧倒的な力を手にした時に、人間らしい制御を徐々に失っていく様は興味深い。そこにはAIと人間が完全にイコールにはなれない、その限界を見た気がした。2013年に公開された『her/世界でひとつの彼女』は切り口はAIとの恋愛映画だが、AIとの恋愛が人間との恋愛に完全に置き換わらなかったという意味では『トランセンデンス』と同じだろう。往年のシリーズも2010年代はAIが物語でより大きな意味を持つようになる。
例えば2017年に公開された『エイリアン:コヴェナント』。ここではエイリアン誕生の秘密が明らかになるわけだが、そこにはアンドロイドが深く関わっている。そして、このアンドロイドのデイヴィッドは自らの創造主である人間と関わり、自らもまた神のように生命を作るという意志を持っている。
ディヴィッドは前作『プロメテウス』にも登場するが、そこでは味方のように見える。だが、『エイリアン:コヴェナント』では悪役だ。ほとんどの人が気づかないが、彼が暗唱する詩の場面でディヴイッドは詩の作者の名前を間違える。完璧なはずのAIにはあり得ないことで、ここでデイヴィッドが壊れていることがわかる。つまり『エイリアン:コヴェナント』はAIの暴走の危険性を描いているとも言える。誰も気づかないほどの小さな故障はいつ人々が気づくようになるのか。ちなみに監督のリドリー・スコットはエイリアンよりもAIを描きたいと明言している。
そして『ターミネーター』シリーズの『ターミネーター:ニュー・フェイト』だ。今作では目的を果たしたターミネーターが、自発的に自らの存在価値を人間社会の中に見い出している。基本は人間対AIなのは変わらないが第一作目と比較するとその描かれ方は格段に深みがあり、もはやそれは人間と同等の生命体と言ってもいいほどだ。

汎用型AIの課題

すっかり長くなってしまった。『ロボとーちゃん』に戻ろう。AIの描かれ方で言えば『ロボとーちゃん』は正に2010年代にふさわしい作品だと言えるだろう。
しんのすけはロボとーちゃんのつけ髭をがロボとーちゃんが暴走した原因だと考える。幼稚園の仲良しメンバーで構成される春日部防衛隊のサポートもあり、つけ髭をとることには成功するが、父ゆれ同盟のトップである鉄拳寺堂勝は元の穏やかな性格に戻ったロボとーちゃんを失敗作として破壊する。
かろうじて頭部だけでも廃棄から救いだしたしんのすけだったが、彼らが工場で見たのは量産された大量のロボとーちゃんと、ケーブルに繋がれた本物のひろしの姿だった。
ここにきて、ロボとーちゃんの存在意義は再び大きく揺らぐ。自分が大量生産物の一つであったということと、何よりオリジナルのひろしが存在したという点だ。二人はお互いが自分こそ本物のひろしだと言い張るが、再会したみさえはロボとーちゃんを素通りし、人間のひろしの方へ向かっていく。

感情を持ったロボットの哀しみは様々な映画で語られてきたが、この映画ではほとんどそれが完璧な形でできていたのではないかと思う。今まで必死に掴みとった家族からの信頼と愛情はあっけなく目の前で崩れ去っていく。
個人的にはこの作品のキーパーソンはひろしではなく、みさえだと思う。みさえの愛情がどちらを向くかが大きなポイントとなる。ひろしとしての存在意義を確立させるにはみさえからの愛情が不可欠だからだ。
ひろしとロボとーちゃんは野原一家の父親の座を賭けて腕相撲を行う。結果はロボとーちゃんの圧勝だったが、みさえは勝負の行方よりもひろしの腕に怪我がないかを心配する。
ロボとーちゃんはひろしとしての存在価値を失ってしまう。自身が代用品でしかなかったという事実に気づかされるからだ。

自分は誰なのか?

さて、ロボとーちゃんはAIをテーマにした映画であると同時に、クローンを描いた映画としても考えることができる。
ロボとーちゃんはAIのロボットであると同時にひろしのクローンでもある。
自分は誰なのか?その問いがクローンを描いた作品には顕著だ。
もし自己というのが自意識と他者から見た客観的な自分との二つのバランスの中で形成されるとしたら、ロボとーちゃんにとっての自己は著しく不安定な状態に陥っている。自分の自意識ではひろしなのだが、他者からみればひろしを名乗っているロボットに過ぎない。
何をもってモノと生き物の間に境界線を引くかはわからないが、AIが感情を持った場合、それを単純にモノとは言えなくなるだろう。だが、本当の哀しみはそれを理解せずにあくまでモノとしてAIを扱おうとする人間への絶望だろう。そこをどう救い上げるのか。『A.I.』でも示された倫理の問題がそこにはある。

ロボとーちゃんと野原一家は管轄の警察署の署長である黒岩仁太郎に連れ去られてしまう。実は父ゆれ同盟の黒幕は彼だったのだ。
ロボとーちゃんは回路を改造され、しんのすけを拷問にかける。それはしんのすけの嫌いなピーマンを無理やり食べさせること。しんのすけはロボとーちゃんに元の状態に戻ってほしいとの思いから大量のピーマンを自ら食べる。その姿にロボとーちゃんの回路は無効化され、元のロボとーちゃんに戻る。
しんのすけの行動によって回路が無効化されるというのはロジックとしては不明で都合のいい展開だが、このことを回路が元に戻るというよりも、ロボとーちゃん自身に本当の自我が芽生えたと見ることもできるだろう。
思えばロボとーちゃんはひろしとしては完璧すぎる部分がある。そうなっている理由として、まずは野原一家に入り込み、信頼させるという最初の段階のためだと推測することも可能だ。

「あなた勝って!」

父ゆれ同盟は五木ひろしロボを起動させ、ひろし達を追い詰めるが、ロボとーちゃんは建設現場の機材を総動員し巨大ロボを作成、最終的には五木ひろしロボを壊滅させるが、自らのロボもまた爆発してしまう。
大爆発に巻き込まれ、ロボとーちゃんは機能停止寸前の大ダメージを負う。自らの「死」が迫っている中で、ロボとーちゃんはひろしと再度腕相撲で勝負しようとする。
二人の勝負は均衡するが
「あなた勝って!」
みさえの声を聞いたロボとーちゃんは何かに気づいたような顔をして、そのままひろしとの腕ずもうに負けてしまう。
みさえの言葉がどちらに向けられたとのかはわからないが、それを人間のひろしへ向けられたものだと受け取った瞬間にもうひろしとしての役割は終わったことも悟ったのだろう。

野原ひろしは死んだのか?

『ロボとーちゃん』のレビューを見ると、実は否定的なものも少なくない。ロボとーちゃんにとっては本作の結末は救いようのないものであり、子供向け作品としては重すぎるのではないかという声もある。
果たしてそうだろうか。確かにストーリーは軽くはない。ただ、子供向け映画の中でも誰かが死ぬような作品は今までにも多くあっただろう。
『クレヨンしんちゃん』シリーズの中でも『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦』では味方である主要キャラクターの死が描かれ、『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』では野望を断念した敵キャラクターが自死を図る。
ロボとーちゃんの本来の目的を考えると、ロボとーちゃんの死は避けられないとも思う。そもそもひろしのいなくなった世界でひろしの代わりとして機能するように作られた存在だ。本来であれば、人間のひろしと出会うこともなく、また「父ゆれ同盟」の野望を叶えるべく行動していたことだろう。ひろしと出会った時点で、どちらかは消えなければならなかったのだ。

ロボとーちゃんの死は野原ひろしの死であるという声もある。だが、これは永遠に検証できない問題ではないかとも思う。
個人的には前述のようにロボとーちゃんはひろしとしてはあまりに完璧すぎると思う。これは単純にロボット技術からくる効率性や手際のよさだけではない。いじけたり、怠けたり、嫉妬したり、そんな人間らしい、大人げない部分がほとんどない点は本当にロボとーちゃんを野原ひろしとしていいのか疑問に残る。もちろん本物の野原ひろしとの争いはロボとーちゃんの存在意義を証明する上で負けられない部分なので言い争うのは当然だ。
一方で、自我が芽生えてたとしても、それはもはやひろし同一とは言えないだろう。

だが、それでもしんのすけはロボとーちゃんをもう一人の本当の父親として受け入れた。みさえもロボとーちゃんが機能停止しようかという時には泣き崩れた。
フランケンシュタインの怪物は純粋な性格を持っていたが、その容貌のために最後まで創造主に顧みられることはなく、絶望と憎しみの中で死ぬことを選んだ。
ロボとーちゃんもその形態ゆえに人間に受け入れられなかったという意味ではフランケンシュタインの怪物と同じだ。
もし、フランケンシュタインの怪物が人間の優しさのなかで死ぬことができたら、『フランケンシュタイン』の物語に私たちは一つの救いを見ることができるだろう。
ロボとーちゃんは最後の最後で、ひろしの代替物ではない、ロボとーちゃんそのものとして家族に愛されながら死んでいった。それこそがロボとーちゃんにとっての救いなのだろう。

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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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