『トランセンデンス』

※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています


2022年10月14日、ロンドンのナショナル・ギャラリーで環境活動家がファン・ゴッホの『ひまわり』にスープをかけるという事件が起きた。彼らのような過激な行動も辞さない環境活動家エコ・テロリストとも呼ばれる。
ファン・ゴッホの絵はガラスケースに覆われており、絵画そのものには何の影響もなかったという。エコテロリストと言えども最低限の分別はあるということだろうか。彼らの主張は「絵画と人の命とどちらが大切なのか」ということらしいが、絵画が環境破壊を推し進めたわけでもないだろう。

さて、このニュースを耳にしたときにある映画を思い出した。2013年に公開された『トランセンデンス』だ。監督はウォリー・フィスター、主演はジョニー・デップが務めている。タイトルのトランセンデンスとは「超越」を意味する。

ジョニー・デップが演じるのは人工知能を研究する科学者のウィル・キャスターだ。ウィルは妻のエヴリンとともに世界初の人工知能PINNを研究開発している。
ある日ウィルは講演の帰りに反テクノロジー組織RIFTに銃撃される。研究室も爆破され、ウィルは毒物の入った銃弾により、日に日に衰弱していく。
夫の死が避けられないことを悟ったエヴリンはウィルの意識を人工知能であるPINNにアップロードする。
PINNにアップロードされたウィルは人工知能として復活し、急激に進化を遂げる。ナノ・テクノロジーを使用し、怪我をした人や病人を治療していく。
だが、ウィルが治療した人々はナノマシンを通じてウィルの望むままに自由に体と精神を乗っ取られてしまう。
そんな人工知能のウィルにかつての同僚の科学者のマックスは危機感を募らせ、RIFTのメンバーと手を組み、ウィルの暴走を止めようとする。

以上が『トランセンデンス』の大まかなあらすじだが、この展開には失笑してしまう。いくらウィルがAIとなって暴走したとしても、同僚を殺したテロリストと仲間にはなれないだろう。
一方的なイデオロギーのために殺人も辞さない人間を普通の人なら狂っていると思うはずだ。まして反テクノロジーを標榜する彼らが高性能のAIを倒すための技術を持っているとは到底思えない。

『トランセンデンス』の監督であるウォーリー・フィスターはクリストファー・ノーランの映画で撮影監督を努めてきた人物で、今作が映画監督デビューとなる。
クリストファー・ノーランはCG嫌いでも有名だが、それでも『インセプション』や『ダークナイト』の映像の素晴らしさは圧巻だ。特に『インセプション』の「夢の世界」ならではの物理法則を無視した世界を視覚的に表現したことは、もはや『マトリックス』と並ぶ映像革命とすら言えるのではないか(ちなみにウォーリー・フィスターは『インセプション』でアカデミー撮影を受賞している。)。
そんなフォスターが監督を務めた『トランセンデンス』は素晴らしい映像を持つSF映画ではあるものの、残念ながらストーリーがそこに追い付いていない。申し訳ないが、映画として私個人の評価は決して高くはない作品だ。

しかし、AIを考えたときに観るべき部分はある。一つはコミュニケーション手段のひとつとしてのAIの可能性だ。
『her』では人間とAIの恋愛は本当に成立するのかをみていったが、今回は「故人とのコミュニケーション手段」としてのAI活用を見てみよう。
先に見たようにエヴリンはウィルの脳を人工知能であるPINNにアップロードする。
当初は成功かに思われたが、マックスはアップロードされてからのウィルの行動はウィルの希望というよりもエヴリンが望んでいたものを実現させるために近く、もはやウィルは生前のウィルとは別物の「何か」になってしまったのではないかと危惧する。マックスはPINNへのアップロードにも慎重だった。エヴリンにも「一部分でもアップロードに不足があれば別の人間になってしまう」と警告している。

果たしてウィルは本人なのか、別の何かなのか?その答えは後述するが、ここでマックスが感じる不安は今の現実社会でも故人(の一部)をAIで再生させるときに度々指摘されるポイントでもある。
当たり前だが、亡くなった者と再び触れ合うことはできない。そこでその代替行為としてAIが使われることがある。
2020年、韓国では2016年に亡くなった7歳の少女をAI技術とCGで再現、家族とVR上で再会させるという試みが放送された。
また、日本でも亡くなった美空ひばりが2019年の紅白歌合戦にAI美空ひばりとして新曲を引っ提げて出場した。限りなく本人に近い歌唱に感動したという声の一方で死者への冒涜ではないかという声もあった。
どちらも人間の感情としては当然のものだろう。
だが、彼らはあくまでAIであり、本人ではないことには留意しておきたい。
AI美空ひばりで言えば歌という技術は素晴らしい精度で再現していると思うが、美空ひばりの人格を有しているわけではない。

『トランセンデンス』のウィルもそうではないか?
AIとなったウィルに恩師でもあるジョセフ・タガーは「魂があることを証明できるか?」と問いかける。
それはタガーが序盤でPINNに問いかけたことでもある。その時PINNは「あなたは証明できるか?」と言って答えをはぐらかす。ウィルもまたPINNと同じように「あなたは証明できるか?」と答える。
エヴリンはウィルの返事に「ユーモアもあるのよ」と笑っているが、この問いは今作のように故人をAI化して生き延びさせようとする場合においては最も根源的かつ重要な問いのはずである。
そもそも魂とは何かという問題があるが、仮にそれを感情だとしよう。
嬉しさ、悲しさ、怒りなど、感情は時に論理を無視して心に表れ、時には行動を支配する。論理に従うこともそうでないこともできる。果たしてAIになったウィルは生前同様にそれを感じているだろうか?
『トランセンデンス』はあえてここをクライマックスまでぼかしている。

ウィルは人間なのか、プログラムにコントロールされた別の何かなのか、明言しないことによって相対的に観客が人類サイドへ共感しやすくなるようにしたのだろう。
が、その試みは失敗している。
理由はシンプルで、共感しようにも人類側があまりに愚かであるからだ。

マックスらはウィルをコンピューターウイルスに感染させようとする。そしてウィルを破壊しようとするのだが、そんな短期間でウイルスが作成できるものなのかという疑問もある。加えて、圧倒的な知識量を持つウィルがそんなウイルスへのセキュリティ対策を行っていないわけがない(映画の中では当然行っていないわけだが)。
また、ウィルは劇中で確かに人類をコントロールしようとするが、「殺す気はない」と明言している。しかし、マックスらがウィルを破壊するためにネットワークを止め、世界を停電にしてしまったことで少なくとも数百万人単位の犠牲者が出ただろう。
一方でもし、ウィルがナノ・テクノロジーによって水源を浄化し、森を豊かにできるのであれば、数億人の人々を救える可能性もあった。もちろんウィルのように個人の肉体や精神をハッキングすることは許されることではないが、全世界の電力を止めるというのは流石に極端すぎる。

「人は未知のものに恐怖を覚える」とは劇中のウィルの台詞だが、恐怖は時に冷静さを剥ぎ取ってしまうようだ。現実においてまずこのような判断はしないだろう。
主人公のウィルを演じたジョニー・デップは「RIFTの側にも、科学者の側にもそれぞれの言い分がある」と言っていたが、この結末を見れば、ただRIFTの望む世界が実現しただけではないのか。

『トランセンデンス』が酷評された理由がよくわかる。ケイト・マーラは優れた映画の条件として「観た人が考えさせられるような作品であり、そういった意味では『トランセンデンス』は間違いなく観た人に何かを考えさせる作品だ」と述べている。確かに技術とどう向き合うのかということに対しては考えるきっかけになり得る作品だが、技術の進化を全否定するようなストーリーは制作者側が考えることを放棄したようにしか思えない。

ちなみに、ウィルは世界を席巻して支配しようとしてる人工知能だが、現実にGoogleなどはそれに近い部分があると思う。膨大な数の個人の検索データを保有し、国籍、性別、年齢、住んでいる地域から興味関心まであらゆるデータを分析することができる。恐らく十数億人のデータは確実に持っているはずだ。

検索した覚えのない、しかし興味深い内容の広告が出てきた覚えはないだろうか?
特にインスタグラムは(こちらはメタ社だが)かなり自分の年齢にピンポイントの広告が表示されたりしていないだろうか?これはFacebookの個人のデータを利用しているためで、そういった意味では母数はGoogleに及ばないまでもGoogleに比べてターゲットへの精度がかなり高い広告を表示させることができる。
まだこうした分野は広告へのアプローチが主だが、自分のデータが収集され、利用されているという意味では『トランセンデンス』の世界にも近いと思う。

ただ、そうしたネットの閲覧データなどを利用することの可否はあくまでユーザーに委ねられており、ネット上の行動データを個人情報として保護する動きも広がっている。
前者においてはCookieの利用の同意に関しての文言で表示されていることが多い。Cookieとは何かよく分からず、「はい」か「いいえ」を押した人もいるかもしれないが、要はこのサイトを見たデータを提供してもいいですか、ということだ。もちろんそれによって個人は特定されないが。匿名の人がこのサイトを見たというデータは共有される。

後者に関しては2015年にGoogleではユーザーが自分のサイトに辿り着いた検索キーワードがサイト解析ツール上で個人情報として開示されなくなった。さらにユーザーがどういうサイトを見たかというデータも個人を特定しない範囲で広告配信などに利用できたが、今は個人情報として収集しない流れが強まっている。
そんな現実の流れを見ていると、例えウィルのように脳を完璧に人工知能にアップロードできたとしても、それ以前に何らかの規制が入ると考えるのが自然だろう。

また根本的に未だに脳のシステム自体もすべて解明されているわけではないのに、その完璧なシミュレーションは不可能に近い。
IBMとスイス工科大学は2005年から共同で脳の電気回路をコンピューターシミュレーション するブルーブレインプロジェクトを行っているが、このプロジェクトの創設者であるヘンリー・マークラムは人間の脳の正確なシミュレーションは不可能だと述べている。

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映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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