『007/カジノ・ロワイヤル』ヴェスパーが完成させた「007」

2005年10月、新しいジェームズ・ボンド役としてダニエル・クレイグが発表されたとき、『007』のファンからは一斉に批判が巻き起こった。
それまでのジェームズ・ボンドのイメージと反する、金髪のボンドだったからだ。
その頃を振り返ってダニエル・クレイグはこう述べている。「批判は子供の罵りのような言葉だったけど、実際に言われると傷ついたよ。でも、そういう人たちを納得させるための唯一の方法は、この役を上手くやりこなすことだった」
そんな中で公開を迎えたのが『007/カジノ・ロワイヤル』だ。
果たして結果は大成功を収め、ダニエル・クレイグの演じたジェームズ・ボンドは「史上最高のボンド」とまで言われた。
なぜ『007/カジノ・ロワイヤル』は高い評価を得たのか、考察していこう。

『007/カジノ・ロワイヤル』

『007/カジノ・ロワイヤル』は2006年に公開された『007』シリーズ第21作目の作品だ。監督は『007/ゴールデンアイ』も手掛けたマーティン・キャンベルが担当している。
『007/ゴールデンアイ』もピアーズ・ブロスナン演じる4代目ボンドの第一作目ではあったが、『007/ゴールデンアイ』のボンドはすでに完成されたジェームズ・ボンドだった。
一方の『007/カジノ・ロワイヤル』はまだジェームズ・ボンドが007のライセンスを得る前の時点から物語が始まる。『007/カジノ・ロワイヤル』の脚本を担当した一人であるポール・ハギスは今作を「ジェームズ・ボンドが完成するまでに迫った作品」と評している。
そう、『007/カジノ・ロワイヤル』で描かれるのはジェームズ・ボンドが名実ともに007にふさわしいボンドになるまでの物語だ。
しかし、なぜここまで強くシリーズを仕切り直そうとするのか。キャラクターの継承ではなく、新しいボンドであることを強烈に打ち出す必要があったからではないか。

ジェームズ・ボンドという遺物

ファッショナブルでスマートで、女性に人気で華やか、かつ任務は派手に遂行する。それが世間の思うジェームズ・ボンドのイメージだろう。
しかし、すでにピアーズ・ブロスナン時代のジェームズ・ボンドですら時代遅れの部分はあった。すでに1995年の『007/ゴールデンアイ』の時点でボンドは「女性軽視の恐竜で冷戦の遺物」とまで言われている(実際にそのセリフを述べたのはМ)。
ましてや、9.11でアメリカの日常がテロに晒され、「テロとの戦い」が世界を覆うようになると、それまでのジェームズ・ボンドのようなスパイは求められなくなる。
その代わりにヒットした新たなスパイアクション映画が2002年に公開された『ボーン・アイデンティティー』だ。監督はタグ・リーマン、主演はマット・デイモンが務めている。それまでアクション映画の経験がほとんどなかったマット・デイモンだったが、タグ・リーマンはマット・デイモンとの最初のミーティングで次のように語ったという。
「僕はジェームズ・ボンドに共感が持てない。ボンドは1960年代の価値観を持っていると思う。僕はアメリカのスパイでその現代とのギャップを埋めたい。われわれにも理解や共感ができる行動をするアメリカの男を描きたい」

同じ2002年には『007』シリーズの『007ダイ・アナザー・デイ』も公開されたが、その興行収入4億3000万ドルに対して『ポーン・アイデンティティー』は16億7000万ドルの興行収入を記録する。
この結果を受けてスパイアクション映画のレガシーともいえる『007』も路線変更を余儀なくされる。『007』シリーズのプロデューサーであるバーバラ・ブロッコリは「世界はより深刻になった」と言う。
「戦いに臨むヒーローにはより正確な判断や責任感、慎重さが求められている」

正統な『007』作品としての『カジノ・ロワイヤル』

そこで仕切り直しの作品として『カジノ・ロワイヤル』が選ばれたのは実に象徴的だと思う。
というのは原作者のイアン・フレミングが一番最初に書き上げた007小説が『カジノ・ロワイヤル』だったからだ。
『カジノ・ロワイヤル』については1954年に『climax!』のタイトルでテレビの放送ドラマとして初めて実写化された(この時ジェームズ・ボンドを演じたのはバリー・ネルソン)。このテレビ版に関してはアメリカのイギリスの諜報部員設定がアメリカ人になっているなど、アメリカのテレビ局で映像化されたがゆえの改変が行われている。次は1967年に『007/カジノ・ロワイヤル』として映画化されているが、本作は紆余曲折を経て本家『007』のパロディとして制作され、本家『007』シリーズには受け入れられず、逆にカルト映画として人気を得たという怪作でもある。つまり、2006年に公開されたダニエル・クレイグの『カジノロワイヤル』に至るまで、正統な『007』作品としての『カジノ・ロワイヤル』映像化は未だになされていなかったのである。

だが、本家(イオン・プロ)で『カジノロワイヤル』の映画化を実現させるのは決して簡単な道のりではなかった。
そもそもの話は1955年にまでさかのぼる。当時まだ無名だった小説『カジノ・ロワイヤル』の映画化権をグレゴリー・ラトフが購入する。その後1960年にラトフは亡くなり、映画化権はハリウッドの重役のチャールズKフェルドマンの手に渡るが、実際の)映画化はキャスティングなどの問題から難航していた。一方、『007』シリーズの映画化権を獲得していたイオン・プロが発表した007映画第一弾となる『007 ドクター・ノオ』が大ヒット。それを見て『カジノ・ロワイヤル』もイオン・プロと共同制作かつ、主演もショーン・コネリーでの映画化を企画するも、イオン・プロ、コネリーのどちらとも交渉は決裂。これが元で独自路線のパロディ作として制作されたのが1967年版の『007/カジノ・ロワイヤル』だ。
その時、『カジノ・ロワイヤル』の権利を取得していたのはコロンビアピクチャーズだったが、コロンビアは後にソニーに買収された。そして、『007』の権利はMGMが保有していた。そんな中で、MGMが保有していた『スパイダーマン』の権利と、ソニーが保有していた『カジノ・ロワイヤル』の権利は交換されることになり、ソニーでは2002年に『スパイダーマン』が公開され、『カジノ・ロワイヤル』はイオンプロで本家として再び映画化されることになった。

「カジノ・ロワイヤル」での任務

今作のジェームズ・ボンドは007に昇格してからの任務を描いている。
初の任務となる爆弾密造人の監視では、他国の大使館に侵入し、密造人を殺してしまうという事態を引き起こし、Mに叱責される。
しかし、その爆弾密造人が残した携帯電話のメッセージから、ボンドは航空機を墜落させるテロ計画を突き止め、その阻止に成功する。そして、そのテロ計画にル・シッフルという男が絡んでいることを知る。
ル・シッフルはテロ組織から金を預り運用している男だった。今回の航空機テロは、言わば9.11の再来とも言うべきもので、ル・シッフルは9.11の翌日に航空会社(おそらくユナイテッド航空だろう)の株価が暴落したことで大儲けしており、今回も航空機テロを仕組んで株価を暴落させて儲けるという計画だった。しかし、ボンドによってテロは失敗し、ル・シッフルは1億ドルの損失を出すことになった。
ボンドの次の任務はル・シッフルがテロ資金の穴埋めに行うカジノ「カジノ・ロワイヤル」でル・シッフルと勝負し、テロ資金を絶つことだった。
ボンド側の協力者として、元MI6のエージェントであるルネ・マティス、そして監視役として、金融活動部から美しい女性、ヴェスパー・リンドが派遣されてくる。

原作においてシリーズ一作目ということで、後のレギュラーキャラクターであるQやミス・マネーペニーも『007/カジノ・ロワイヤル』には登場しない。Qがいないので秘密道具でゲームに勝つわけでもなく、秘密情報部員らしく裏からディーラーに手を回すわけでもなく、ボンドは真っ向からゲームに挑んでいるわけである。そもそも原作の『カジノ・ロワイヤル』でのジェームズ・ボンドは後に見られるような凄腕のエージェントというわけではなく、フレミング自身の言葉を借りれば「一介の野暮な公務員」という位置付けだったのもあるだろう。

原作の『カジノ・ロワイヤル』と映画版の違い

しかし、映画版の『007/カジノ・ロワイヤル』だが、原作をベースにしていながらも、設定は現代に合わせてアップデートしてあるのもポイントだ。
たとえば敵のル・シッフル。映画版ではマッツ・ミケルセンが演じているが、原作ではソ連のエージェントとされているのに対して、映画版ではどこの国にも属さず、各国のテロ組織の資金を運用する役割を負った男に設定されている。

「カジノ・ロワイヤル」でのポーカーゲームに勝ったボンドだが、シッフルの一味に拉致され、ボンドは全裸で金的を潰される拷問を受ける。 だが、そこにミスターホワイトという男が現れる。ホワイトはシッフルに金を預けていたのだった。ホワイトは賭けに負けたシッフルを射殺する。余談だが、カジノに参加する役割のキャストはみな撮影に備えてポーカーの特訓を受けており、撮影の合間には頻繁にポーカーゲームを開催していたという(やはりそこでもダニエル・クレイグは強かったそうだ)。

ヴェスパーへの愛

自由になったボンドとヴェスパーは愛し合うようになり、ボンドはMI6を辞めて、ヴェスパーと暮らしていくことを決める。しかし、Mからカジノで得た金が財務相に入金されていないと連絡があった。
ここでヴェスパーの裏切りが判明する。ヴェスパーはカジノの金をすべて引き出し、犯罪組織に渡していたのだった。この時にヴェスパーが赤いドレスを着ているのが興味深い。
昔から赤いドレスの女は「裏切り」を表すからだ。禁酒法時代に「公共の敵No.1」と言われたギャングのジョン・デリンジャー。彼を裏切り、FBIに渡した恋人のアナ・カンパナスのファッションに由来していると言われる。
ヴェスパーを追うボンドは犯罪組織との銃撃戦になる。その余波で建物が壊れ、水が溢れだし、ヴェスパーはエレベーターに閉じ込められたまま水没する。なんとかヴェスパーを助けようとするボンドだが、ヴェスパーはエレベーターの扉に鍵をかけ、罪悪感から自ら死を選ぶ。
ヴェスパーはミスターホワイトの恋人でもあり、恋人の命と引き換えに別の犯罪組織に協力していた。しかし、ボンドを愛するようになっていたヴェスパーはカジノの金でボンドの命を救うようにしたのだ。

ヴェスパー・リンドがスパイで裏切り者であるのは映画も原作も変わらないが、彼女に対するボンドの愛はやや違う。
原作では彼女の死とともにスパイであった事実も知ることになるが、それと同時に彼女に対する愛情も急激に冷めてゆく。ボンドと言えば女好きであると同時に女性軽視とも言われる軽薄さがある。もともとはイアン・フレミングの読者サービスの一環として女性との情事は描かれてきたのだが、あくまで『007』シリーズをジェームズ・ボンドのストーリーとして考えるならば、ヴェスパーの裏切りがボンドに傷を与え、彼を女性軽視へと走らせたのではないかとも思う。
しかし、映画版では確かにその後も複数の女性と関係はするのだが、ダニエル・クレイグ版の『007』最終作である『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』まで一貫してヴェスパーは特別な女性であり続ける。『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』ではマドレーヌ・スワンと結婚するため、その別れとしてヴェスパーの墓を訪れるシーンがある。

『007/カジノ・ロワイヤル』でボンドはヴェスパーと食事しながらマティーニに口をつけ、こう言う。
「これをヴェスパーと呼ぶことにしよう」
「後味が苦いから?」
「 いいや。一度味を知ると、これしか飲みたくない。いいセリフだと思ったんだが」

ジェームズ・ボンドにとってそうであったように、今日ではヴェスパーは映画を超えてカクテルのスタンダードの一つとしても愛されている。

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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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