だが、ノスタルジーがしばしそうであるように、これらの作品もその時代の良い部分、上澄みの部分しか描いていないと言えばそうかもしれない。
今回紹介したいのは1971年に公開された『ゴジラ対ヘドラ』だ。
『ゴジラ対ヘドラ』
監督は坂野義光、主演は山内明が務めている。『ゴジラ対ヘドラ』はゴジラ映画としては11作目の作品だが、特筆すべきは第1作目の『ゴジラ』以来の社会への強いメッセージを込めた作品ということだろう。
1954年に公開された『ゴジラ』はそのまま核兵器のメタファーだった。
その年の3月には日本のマグロ漁船である第五福竜丸がアメリカの核実験に巻き込まれ被爆するという事件も起きた。
戦後10年近く経って、再び日本に核の脅威が襲いかかってきた。それを怪獣映画として表現したのが『ゴジラ』だったのだ。
その後1955年から1973年までは一般的に高度経済成長期と呼ばれる。この間にゴジラは核兵器の脅威を投影した恐ろしい存在というよりも、だんだん子供向け映画のヒーロー怪獣という存在になっていく。
『ゴジラ』を監督した本多猪四郎は核の象徴だったゴジラが子供向けのキャラクターになっていくことに忸怩たる思いを抱いていたという。
ゴジラを凌ぐほどの恐怖
だが、『ゴジラ対ヘドラ』は違った。ゴジラがまた恐怖の存在になったのではない。ヘドラがゴジラを凌ぐほどの恐怖の怪獣として登場したのだ。
『ゴジラ対ヘドラ』は冒頭から衝撃的だ。ヘドロに汚染された黒い海(これはセットで撮影されたそうだが)から始まり、続けて麻里圭子の『かえせ!太陽を』で強烈にアジテーションしながらのオープニングクレジットは一度観たら忘れられない。他にもゴーゴー喫茶の場面で登場する魚人間など、初めて『ゴジラ対ヘドラ』を観たときは「大人になってもトラウマ映画って増えていくんだな」とつくづく感じた。だが、逆に考えればこの映画に刻まれたメッセージはそれほど強いものでもあったのだ。
ゴジラの原点回帰
今作で監督を務めた坂野義光は元々は円谷英二の元で補佐を行っていたが、ゴジラに対しては本多猪四郎と同じように、ゴジラを原点回帰させたいという思いがあったという。一作目の『ゴジラ』のように強いメッセージを打ち出す作品にしたい。そこで坂野は当時もっともポピュラーだった悪である公害をゴジラの敵として設定したのだった。
『ゴジラ対ヘドラ』に影響を与えたのが四日市コンビナートの公害問題と、田子の浦港ヘドロ公害だった。四日市コンビナートの公害は「日本四大公害病」のひとつである四日市ぜんそくを引き起こした。工場からの煙のなかに大量の硫黄酸化物が含まれていたことが原因で、四日市市の大気中の硫黄酸化物の量は名古屋市の4倍もあったという。
ヘドラはそのような深刻な公害から生まれた。ヘドラという怪獣のキャラクターを見ていくことでまた違った観点から公害の根深さや恐ろしさを実感できるのではと思う。
実際『ゴジラ』シリーズに登場した多くの怪獣の中でもヘドラはトップクラスの強さを誇る。なにしろ、ヘドラの体は大量のヘドロでできているために触れるだけでも皮膚は焼けただれてしまう。またヘドラは多数の幼生の集合体でもあるため、砲撃や打撃も効かない。バラバラにしてもそれぞれがまた集まってヘドラとして再生してしまう。
『ゴジラ』 シリーズ最強の怪獣
第1作目『ゴジラ』のゴジラは歩くだけで破壊と放射能を撒き散らす恐怖の存在であったが、ヘドラも同様に飛行しながら硫酸ミストや光化学スモッグを撒き散らす。そのため、ヘドラの下にいる生物は骨だけの姿になってしまい、また周囲の生物にも目や喉に異常が出るなどの健康被害を及ぼす。硫酸ミストも光化学スモッグもヘドラの独自の必殺技ではなく、当時実際に公害として工場などから発生した物質だ。
光化学スモッグの被害が日本で初めて明らかになったのは1970年の東京立正中学校・高等学校で43名の生徒が健康被害を訴えたことがきっかけだった。
『ゴジラ対ヘドラ』
坂野義光が純粋に映画監督としてクレジットされている映画は『ゴジラ対ヘドラ』のみにとどまり、その後はテレビのドキュメンタリー番組に軸足を移しているが、『ゴジラ対ヘドラ』における現実社会の問題をそのまま映画に転写したような作風はある意味でドキュメンタリーのようでもある。
そして『ゴジラ対ヘドラ』に転写されているのは公害問題のみならず、当時の流行や風俗までが色濃く刻まれている。
1971年といえば安保闘争に始まった学生運動が、その目的を見失なった頃でもある。『ゴジラ対ヘドラ』公開翌年の1972年にはあさま山荘事件が起き、こうした学生運動は急速に支持を失っていく。
学生運動はこの時期の世界の大きな潮流でもあった。フランスでは五月革命が起き、アメリカではベトナム戦争への反対からそれまでの価値観に反抗するヒッピーイズムが流行した。
それまでの価値観に反対したヒッピーは髪を伸ばし、働くことを拒否し、「ラブ&ピース」を掲げて自由な生活を実践した。彼らはドラッグを試し、その時に体験したものはサイケデリックとしてアートとして音楽や絵画によって表現された。『ゴジラ対ヘドラ』のアングラバーの描写もサイケデリックであり、こうしたヒッピー文化を感じることができる(日本ではヒッピーよりもフーテンと呼ばれる方が多かった)。
『ゴジラ対ヘドラ』を「きちんとした」映画として評価するならば、決して高い評価はできない。カットのテンポは悪く、劇映画としての粗もそこかしこに見られる。
だが、その粗を吹き飛ばすほどのアヴァンギャルドな面もある。説明なく挿入されるアニメーションや、クラブでのサイケデリックな演出だ。そこにはジャン=リュック・ゴダールなどの影響を伺わせる。
実際にゴダールをはじめとするヌーヴェルヴァーグの波は日本の映画界にも大きな影響を与えており、日本アート・シアター・ギルドや、松竹ヌーヴェルヴァーグはその象徴だろう。
東宝の危機と厳しい制作環境
『ゴジラ対ヘドラ』は東宝の分社化の影響によって極めて低予算での製作を余儀なくされた。
もともと東宝は戦後すぐの東宝争議によって組合の方が力を持った会社だった。そのおかげで他の映画会社より断トツで給料もよかったという。
だが、カラーテレビの普及によって映画業界は斜陽の時代を迎える。それまで製作や企画、配給まですべて自社の社員で行っていたが、経営のスリム化のために事業ごとに会社を分け、東宝のリストラもあり、予算・人員ともに極めて厳しい状態での撮影となった。
制作費は特撮映画の最盛期の三分の一か四分の一程度で、本編と特撮で班を分けるのではなく、どちらも一つにまとめた一班体制で制作された。
それでも『ゴジラ対ヘドラ』は何度も製作中止の危機があったという。
史上最悪の映画?
こうした逆境の中で完成した『ゴジラ対ヘドラ』だが、当時は駄作との評価が多かったという。特に劇中での「飛ぶゴジラ」の演出は賛否両論だった。この「飛ぶゴジラ」で監督の坂野義光はプロデューサーの田中友幸の逆鱗に触れ、二度と特撮映画の監督を任されなかったという逸話もある(坂野自身は『ゴジラ対ヘドラ2』のプロットを準備していたという)。『ゴジラ対ヘドラ』は海外でも「史上最悪の映画50」に邦画から選ばれた唯一の作品となった。
だが、何を差し置いてもそのメッセージ性をはじめとして『ゴジラ対ヘドラ』の存在感は強烈だ。
先日、福岡で開催されていた『特撮のDNAーゴジラ 特撮の科学展ー』に行った。
『ゴジラ』に登場した本物のオキシジェン・デストロイヤーの小道具や円谷英二が使った台本などには物凄く興奮した。
残念ながら『ゴジラ対ヘドラ』に登場するアイテムはなかったものの、物販コーナーではゴジラはもちろん、キングギドラやモスラなどの有名怪獣に並んでヘドラのグッズも多かったのが印象的だ。
今なおヘドラの毒は強烈なまま、人々を惹き付けているのだ。