『沈黙のパレード』蓮沼の完全黙秘は本当に無罪になるのか?

2018年に日産自動車の会長だったカルロス・ゴーンは金融商品取引法違反(有価証券報告書の虚偽記載)の容疑で逮捕された。それ自体が大きな事件でもあったが、その後ゴーンは保釈条件に違反し、日本を密出国。その際にゴーンが日本の司法制度を強く批判していたのも印象的だ。

日本の司法制度

ゴーンの事件はさておいても、確かに日本の司法制度には疑問を持たざるを得ない面が多いのは事実だ。
その一つが有罪率の高さだ。日本では起訴率こそ4割程度だが、刑事事件において起訴した被告人が一審で有罪になる確率は99.6%。いかに無罪判決が異例であるかがわかる。
法務省によると、この数字こそが検察が一つ一つの事件を見極めて慎重に起訴していることの証明であるとのことだったが、諸外国での有罪率を法務省記載の数字で見てみると、アメリカ0.4%、イタリア20%、イギリス2%、フランス6.4%となり、やはり日本の起訴有罪率は突出していると言わざるを得ない。
刑法において推定無罪は基本的な原則のひとつだと思うが、この有罪率の高さを見るとその原則はないがしろにされている部分もあるのではないか。
推定無罪は言い換えると「疑わしきは被告人の利益に」ということだ。
逆に「それで無罪がまかり通ってしまうのか?」と感じるようなケースもある。

『沈黙のパレード』

9年ぶりに劇場映画として公開された『ガリレオ』シリーズの最新作『沈黙のパレード』は正にこのような日本の司法制度に疑問を向けさせるような作品でもあった。今回は『沈黙のパレード』を通して日本の司法の歪さについて考察してみたい。
『沈黙のパレード』は2022年に公開された西谷弘監督、福山雅治主演のミステリー映画だ。原作は東野圭吾の同名小説。
変人だが天才的な頭脳を持つ物理学者、湯川学と刑事の内海薫、また湯川の大学の同期であり内海の上司に当たる草薙が難事件を解決していく人気シリーズだ。もともと連続ドラマからスタートした作品だが、映画版として2008年に『容疑者xの献身』、2013年に『真夏の方程式』が公開されている。

物語は2017年に東京都菊野市(この地名は架空だが、おそらく日野市をモデルにしている)で、ある女子高生が失踪したことから始まる。彼女の名前は並木佐織。定食屋「なみきや」の主人の娘で美人で歌が上手く、高校卒業後は歌手としてデビューする段取りまで決まっていた。みんなに愛され、明るい未来が広がっていた少女はどこへ消えたのか?
3年後の2022年に事件は新たな動きを見せる。
菊野市から遠く離れた静岡県で並木佐織の遺体が見つかったのだ。
容疑者の名前は蓮沼寛一。蓮沼の自宅からは佐織の白骨死体が発見され、そこに住んでいた蓮沼が容疑者として逮捕されるが、蓮沼は取り調べに黙秘を貫き、起訴を免れる。蓮沼の自宅からは佐織の血のついた蓮沼の作業服がみつかる。また、失踪事件の起きた3年前には蓮沼は佐織と同じ菊野市にいたことも判明している。その時になみきやで佐織の妹の夏美とちょっとしたトラブルも起こしていた。

完全黙秘は本当に無罪になるのか?

今回フォーカスしたいのはそれだけの証拠が揃っていながら、現実の司法でも本当に無罪になってしまうのかという点だ。
『沈黙のパレード』を観た人の感想がネットに並んでいたが「いくらなんでもあれだけ状況が揃っていたら、例え完全黙秘しても無罪はあり得ない」という声も散見された。果たして本当にそうだろうか。考察を試みてみたい。

実は『沈黙のパレード』には並木佐織の事件の前にもうひとつの事件が発生している。それは19年前に本橋優奈という女児が白骨死体で発見された事件だ。この事件が起きたのは23年前。当時12歳の本橋優奈が失踪。容疑者として挙げられたのが蓮沼だった。原作の内容も織り混ぜながらではあるが、失踪当日優菜が水色の作業着を着た男と一緒にいたとの目撃情報があった。それに該当する工場の従業員の一人が蓮沼だった。遺体の骨には焼かれた痕があったが、事件直後に蓮沼は「ペットの焼却を頼まれた」といい、勤めていた会社の焼却炉の使用を申し出ている。また、焼却まで遺体を保存してたであろう冷蔵庫からは優奈の血痕が残っていた。
警察は蓮沼を逮捕し、蓮沼は起訴され裁判にかけられる。
「冷蔵庫に残った証拠を突きつければ自白すると思った」と担当刑事だった草薙は語る。
しかし、蓮沼は裁判でも完全黙秘を貫く。そして蓮沼に告げられた判決は無罪。すでにについては公訴時効が成立していた。日本の法律では一審で無罪判決が出た場合には控訴できない。無罪判決が出された瞬間にそれは確定する。蓮沼は無罪になった途端に損害賠償を請求。という多額の賠償額を手にしている。
心情的にはなんともやりきれない結末だが、こんな事が本当に起こり得るのか?私自身の観賞後の感想もにわかに信じがたい設定だった。

現実社会での殺人事件と完全黙秘

おそらく『沈黙のパレード』は実際に1984年に札幌で起きた小4男児殺害事件に着想を得ている。
事件のあらましはこうだ。1984年の1月に小学4年生の男児(以下A)が失踪する。失踪当日の男児の足取りを追うと、元ホステスの女性(以下X)のアパートへ向かったという目撃証言が得られた。この時点で警察はXを事情聴取したが、何の情報も得られずに終わっている。

それから約3年後、Xの嫁ぎ先の家が全焼する火事が起きる(ちなみにXの嫁ぎ先新十津川町は札幌から約100㎞離れている)。この火事によってXの夫は死亡し、焼け跡からはAと見られる人骨が見つかったが、当時のDNA鑑定技術ではそれがAのものとは特定できなかった。
それから10年後の1998年に技術の進歩もあり、人骨がAのものであることが判明し、Xは殺人罪で逮捕・起訴される。殺人罪の公訴時効の一ヶ月前というタイミングだった。なお、傷害致死、死体遺棄、死体損壊の公訴時効はこの時点でいずれも成立していたため、これらの罪状で立件することはできなかった。
裁判でXは検察官の400にもわたる質問に対して全て黙秘を貫く。殺人罪の成立には明確な「殺意」が必要であるために、結局Xは無罪を勝ち取り、そればかりか札幌地裁に1160万円の損害賠償請求を行っている。実際にその80%である930万円がXに支払われたという。

司法への問題提起

ここにあるのは法律と国民感情の不一致だ。もちろん、法律が感情に引っ張られてはならないが、不条理を生み出してもいけない。そのバランスの取り方は非常に困難だろうが、『沈黙のパレード』で描かれる法律と感情のバランスの歪さは司法への真っ当な問題提起でもあるだろう。

結局、本橋優奈の事件での苦い経験から、検察は並木佐織の事件では蓮沼を不起訴とする。
起訴か不起訴かを決めるのは検察官だけに許された独占的な権利だが、これもまた日本特有の司法制度の歪みだと言える。
例えば和歌山県で1998年に起きた毒入りカレー事件では容疑者と事件を結びつけたのは状況証拠のみであり、容疑者自信も否認を貫いていたが検察は起訴。裁判は最高裁までもつれ込み、容疑者は黙秘を貫いたが、死刑判決が確定している(この被告人は冤罪ではないかという疑惑が強くあり、2021年には第二次再審請求が受理されている)。
冒頭に述べたように日本の有罪率は99.6%であり、起訴=有罪と捉えても間違いではない。つまり、量刑は差し置いても、有罪か無罪かを決定するのは検察官に一任されている状態だと言える。

前述のカレー事件では担当検事がその事件の世間的な注目の大きさから何とかして逮捕した容疑者を有罪にしないといけないと思っていたこと、またそのために犯行のストーリーも検事自身の手で作り上げると述べたことが被告人の夫によって明らかにされている。

直接的な証拠がなくても死刑になる容疑者もいれば、無罪になる容疑者もいる。

2020年に出版された『暴走する検察 歪んだ正義と日本の劣化』の中でジャーナリストの神保哲夫氏はその状況を指して「検察が起訴するかどうかが事実上の裁判の第一審になっている」と指摘する。また社会学者の宮台真司氏も「本来疑わしいものほど(不起訴にするのではなく)裁判の中で真相を明らかにするべき」と述べている。

原作の中で湯川は草薙にこう言う。

「そこまでの状況証拠が揃っていて無罪か。不条理な気もするが、それが裁判というものなのだろうな」

この言葉は現実社会の私たちに問いかけられたようにも感じられる。
さて、私たちは湯川の言葉にこのまま沈黙するべきだろうか?

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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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