『ミッドナイト・イン・パリ』老境のウディ・アレンが描く黄金時代と現在

※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています


1920年代のパリは「狂乱の時代」とも言われる。19世紀末から1914年までの時代は「よき時代」を意味するベルエポックと呼ばれるが、「狂乱の時代」はフォム・エポックと呼ばれている。
1920年代のパリには様々な芸術家が集っていた。アーネスト・ヘミングウェイ、パブロ・ピカソ、サルバドール・ダリ、スコット・フィッツジェラルド、そうそうたる顔ぶれが一つの都市に集まるとは、ああなんという豊潤な時代!

今回紹介する『ミッドナイト・イン・パリ』は2011年に公開されたウディ・アレンの42作目の監督作品だ。『アニーホール』、『マンハッタン』などアカデミー賞の最多ノミネート記録を持つウディ・アレンだが、個人的には2010年代の傑作と言えば今作だと思う。真夜中のパリには憧れていた時代へ連れていってくれる車が現れる。
「狂乱の時代」とはどんな時代だったのか。
そして今作の公開時、76歳だったウディ・アレンにとって過去とはどういう意味を持つのだろうか。

真夜中のパリ

小説家志望のギルは婚約者のイネズとその両親と共にパリに来ていた。
イネズは脚本で十分稼いでいるにも関わらず小説家に転身しようとしているギルに納得できない。
もっともギルは脚本家としての仕事に誇りが持てないでいる。
イネズの母が面白い映画を観たと言い出すが、その内容が思い出せない。そんな彼女にギルはこう言う。
「素晴らしいけれども、すぐに忘れてしまう。僕が見たことがある映画のようだ。多分、僕が脚本を書いた映画かも」

ギルが執筆している小説はアンティークショップの店員の話だ。イネズはその設定を「過去に生きる人たちが買う店よ」と言い、偶然パリで再会したイネスの友人のポールにも「ノスタルジーは拒絶だよ。苦悩する現代へのね。その誤った思考は”黄金時代思考”だ」と批判される。「イネズとは大体意見が一致する」と話すギルだが、二人はパリに来てからすれ違ってばかりだ。
ちなみにギルのファッションもいかにもクラシカル。幅広でベルトにも届いていないネクタイは戦前に流行した形のもの。1949年に公開された『オール・ザ・キングスメン』や1939年に公開された『スミス都に行く』などを観てもらえればそれがわかると思う。

この映画の冒頭は雨のパリから始まる。ギルは雨のパリは素敵だというが、イネズは「濡れるだけじゃない」と言い、ギルがパリに住みたいというと、イネズはマリブに住むと譲らない。パリの旅行にしても、ギルが散策するのは庶民的なエリアである5区だが、イネズが母と出かけるのは高級な店が立ち並ぶエリアだ。

ギルはいつもおどおどしていて早口で話す。そのキャラクターはウディ・アレン自身の投影でもあるのだろう。ウディ・アレンも放送作家として人気が出るが、次々に仕事が舞い込む毎日に心を病み、心療内科通いをしていた。
得意なこととやりたいことはしばしば噛み合わないものだ。

一人で夜の町を歩いていたギルの前に車が止まる。誘われるままに車に乗り込んだギルがたどり着いたのは1920年代のパリだった。
そこはスコット・フィッツジェラルド、アーネスト・ヘミングウェイなどギルの憧れの作家が目の前にいる夢のような空間!

狂乱の時代

1920年代のパリは多くの芸術家を惹き付ける魅力に溢れていた。
「良き時代」とよばれるベル・エポックを経て、第一次世界大戦の惨禍の中でも、パリは文化の中心としての役割を放棄していなかった。
そして、1920年代、束の間の平穏な時代においてパリは再び芸術の街として花開く。
その狂乱の時代の歴史的な背景を探ってみよう。

第一次世界大戦が終わった後にアメリカはイギリスに変わって世界一の強国となった。世界から富が集まってきたアメリカに対して、フランスは物価が安く、文化や芸術的な豊かさの面ではアメリカを凌いでいた。
こうしてその中心地、パリには世界中から芸術家を志す若者たちが集まってくる。例えばイタリアからはアメデオ・モディリアーニ、ロシアからはマルク・シャガール、スペインからはサルバドール・ダリ、日本からは藤田嗣治など、当時のパリには錚々たる面々が集っていた。
もちろん、アメリカからもだ。当時のアメリカでは禁酒法が施行されていたという背景もあるのだろう。

ヘミングウェイの長編第一作である『日はまた昇る』の高見浩氏の解説によれば、当時のパリは因習にとらわれることのない、いわば精神の解放区のような場所であったらしい。当時のアメリカのドルの勢いから言っても、まとまったドルがあればパリではアメリカよりもずっと余裕のある暮らしができたそうだ。
アメリカから芸術を求めてやってくる者たちには二つのタイプがあった。
一つはフィッツジェラルドやヘミングウェイのように自らもまた芸術家を目指そうとする者。もう一つはアメリカで手にした富を持ってパリの芸術家の作品を購入し、彼らを支援しようという者たちだ。こうした人々は当時「パリのアメリカ人」と呼ばれた。
その代表的な人物としてガートルード・スタインが挙げられる。

ガートルード・スタイン

『ミッドナイト・イン・パリ』では『ミザリー』などで知られるキャシー・ベイツがガードルード・スタインを演じている。
「自分の小説を批評してほしい」
1920年代にタイムスリップしたギルはヘミングウェイにそう懇願するも、ヘミングウェイは「君の小説は不快だ。下手でも文章に不快、上手なら嫉妬で不快。作家に意見など聞くな」と断る。そしてガードルード・スタインをその適役として推薦する。
ギルもガードルード・スタインならと大喜び。

ガードルード・スタインは1874年にペンシルベニア州で生まれた。兄のマイケルの投資によって手にした富を持ってパリへ生活の場を移した。
ガードルード・スタインはパリに集う様々な芸術家の作品を購入し、彼女の家は様々な芸術家の集うサロンとしても有名になっていった。彼女はマティス、アンドレ・ドラン、ジョルジュ・ブラック、フアン・グリスなど若い画家達の初期の絵画を所有し、彼らの才能をいち早く見抜いた。
ピカソもまたその中の一人だ。ガードルードはピカソの作品も早くから購入し、彼の画のモデルにもなっている。またガートルードは無名時代のヘミングウェイへ物心両面の支援をし、若き日の彼を支えたことでも知られる。ヘミングウェイは当時トロント・スター紙のフリー記者特派員としてパリを訪れていた。

移動祝祭日

ヘミングウェイは後に若い頃にパリで過ごした日々を『移動祝祭日』にまとめている。
『ミッドナイト・イン・パリ』では一般的にイメージされる男らしさというイメージそのもので描かれているヘミングウェイだが、『移動祝祭日』にはつつましくも穏やかなパリの日常を愛するヘミングウェイの若き日が綴られている。ガードルード・スタインとヘミングウェイの交流もそこでは描かれている。「1920年代から30年代に活躍したアメリカの作家たちを指す「ロスト・ジェネレーション(自堕落の世代。失われた世代という言葉で日本では定着しているが、これは語訳である)」という言葉もガードルードからヘミングウェイに投げかけられたものだ。
ただ、ヘミングウェイ自体はそのことには納得しておらず、パリ滞在中に発表した長編第一作の『日はまた昇る』の中で皮肉をもってエピグラフに使用している。

『ミッドナイト・イン・パリ』でギルは5区にあるシェイクスピア・アンド・カンパニー書店をしばしば訪れている。へミングウェイに心酔しているギルなら当然のことではあるのだが、シェイクスピア・アンド・カンパニー書店もヘミングウェイが愛してやまなかった場所だ。『移動祝祭日』にもそのことが描かれている。余談だが1944年パルチザンとともにパリに入ったヘミングウェイが最初に目指したのもシェイクスピア・アンド・カンパニー書店をナチスの手から解放することだったという。

ベル・エポック

『ミッドナイト・イン・パリ』で、ギルはヘミングウェイに続きピカソとも出会う。だがギル自身はピカソの愛人であるアドリアナに惹かれていく。
「本当に愛する女を抱くときは真の情熱を感じ、死の恐怖を忘れる、真実の愛は一時死を遠ざける。小心は愛のなさゆえに起こるのだ」
ヘミングウェイはギルに力強く話す。
アドリアナとキスを交わしたとき、ギルはヘミングウェイの言う永遠を実感する。アドリアナと1920年代のパリで生きていこうと考えるギルだったが、アドリアナはフォム・エポックを「スピードが速すぎるし、毎日が騒々しくてややこしい」と言い、彼女自身はベル・エポックに憧れていたのだった。

ベル・エポックはパリが近代化を果たした時代で19世紀末から1914年までを指す。道路が整備され、鉄道が開通し、世界初の映画が誕生したのもこのベル・エポック時代のパリだ。
産業革命によって地方から都市部への人口の流入が続いた結果、19世紀初頭から19世紀半ばまでのパリの人口約2倍にまで増加した。だが、まだパリはその人口増加に対応できず不衛生で汚れた町になった。その結果、コレラの蔓延を招き、当時の首相であるカジミール・ペリエを含む1万8千人が命を落とした。
「パリはフランスの心臓だ。この大都市を美化し、その住人の境遇を改善し、そして住人の真の利益に住人自身が気づくように努力しようではないか。新しい街路を開き空気が通らず光の射さない人口の多い地区を清潔にしようではないか。太陽の恵み多い光が我らの壁の中などいたるところにまで射すようにしようではないか。」
1852年に即位したナポレオン三世はこう言ってパリの美化を目指した。そしてナポレオン三世の全面委任を受けたジョルジュ・オスマンによってパリ改造計画が実施される。その結果、パリは「花の都」と呼ばれる美しい都市へと発達する。この下地があってこそ、「ベル・エポック」の時代は到来したのだ。
ナポレオン三世の即位直後に開催された第1回目のパリ万国博覧会の来場者は516万人だったが、ベル・エポック期の1899年の第4回パリ万国博覧会では3225万人の来場者を記録している。

パリ礼賛

実際はベル・エポックの時代も政治的には決して穏やかな時代とは言えなかった。
しかし、ウディ・アレンはあくまでパリの美しい部分のみを見せる。それは狂乱の時代においても同じことだ。
ウディ・アレンの映画はアメリカ本国よりもヨーロッパや日本で評価が高い。
2002年の映画『さよならさよならハリウッド』では、ウディ・アレンは盲目になった映画監督を演じている。彼の撮った新作映画はアメリカ国内では酷評されるもフランスでは絶賛されるという、ウディ・アレン自身を反映した自虐的なエンディングになっているが、『ミッドナイト・イン・パリ』もまたウディ・アレンなりのフランスへのお礼ではないだろうか。
『ミッドナイト・イン・パリ』のパリはただ美しく、礼賛されるべき存在なのだ。

生きるべき場所

アドリアナとギルがタイムスリップしたベル・エポック時代のパリには画家のゴーギャンやロートレック、ドガがいた。
アドリアナはベル・エポック時代を大いに喜ぶが、一方のゴーギャンらは「ルネサンス期こそ最高だ」と言う。
そんな彼らを見てギルは本当に自分が生きるべき場所に気づく。
「もしこの時代に残っても、いずれまた別の時代に憧れるようになる。他の時代が黄金時代だって考え始めるのさ。現在には不満を感じるものなんだ。なぜならそれが人生だから」
ベル・エポック時代で暮らそうとするとするアドリアナにギルが言うセリフだが、これは老境を迎えたウディ・アレン自身の言葉でもあるのだろう。小さな頃からジャズに傾倒してきたウディ・アレン。だとしたら彼の「黄金時代」は1920年代のアメリカ、ジャズ・エイジの頃だろうか。
若い頃ならノスタルジーを求めるのも悪くはない。だが、年を重ねると結局はノスタルジーを刺激にして今を生きるしかないのだという現実に気づくのだろう。それがウディ・アレンのたどり着いた人生の一つの答えではないだろうか。

『ミッドナイト・イン・パリ』と『星月夜』

余談だが『ミッドナイト・イン・パリ』のポスターはゴッホの作品である『星月夜』を背景にギルが歩いているというものだ。『ミッドナイト・イン・パリ』の舞台は1920年代のパリであり、ゴッホがパリに住んでいた年代ではない。
ではなぜ『星月夜』が『ミッドナイト・イン・パリ』に使われているのだろうか。
『星月夜』は1889年に描かれた作品だ。ゴッホの作品はその時期ごとにオランダ時代、パリ時代、アルル 時代、サン=レミ時代と分けることができるが、この『星月夜』は晩年のサン=レミの療養院時代に 描かれた作品であり、その風景もパリの星空ではない。
『星月夜』はポール・ゴーギャンからの「自分の空想したように描けばいい」という言葉に触発され、複数の地点をミックスして描かれた、どこにもない理想の風景が描かれている。
この映画もそうだ。『ミッドナイト・イン・パリ』ではギルが迷い込む1920年代のパリは彼が憧れるすべての芸術家が一堂に揃っている。それがギルの理想とするパリだからだ。
ゴッホの『星月夜』はそんなファンタジーの世界を象徴している。

だが今の時代でも、自分らしく生きていくことはできる。
ファンタジーの世界を経験して、ギルは一つの答えを見つける。

雨のパリ

現在に戻ったギルはイネズに別れを告げ、パリに残ることを宣言する。自分らしく生きることを選んだのだ。
夜の街を歩くギルの前にはシェイクスピア・アンド・カンパニー書店の店員の姿が。ギルは彼女との予期せぬ再会を喜ぶ。
「よかったらコーヒーでもどう?おごるよ」とギルは彼女に声をかけるも、ちょうどその時、雨が降り始める。
しかし彼女は「濡れても平気、パリは雨が一番美しいの」と言う。
「雨なんて濡れるだけじゃない」映画の幕開けのイネズの台詞と対称的な台詞で映画は終わりに向かう。

彼女はギルに自己紹介する。彼女の名はガブリエル。天使の名だ。
「いい名前だね」そうギルは言い、二人はパリの街並みを歩いていく。
ガブリエルはキリスト教において、死者をよみがえらせると言われる天使だ。
現代に居場所を見つけられずに過去に憧れていたギルも今の時代を生きることに絶望していた。そんな彼に居場所を与え、今の時代を輝かせる女性の名もまたガブリエルなのだ。

いつの時代もどこかに幸せは必ず待っているものだ。
真夜中のパリが連れていくのはそんな小さく美しい真実だ。

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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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