なぜファン・ゴッホの人生はこれほど人を惹き付けるのか。
ヴィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホ。日本人にとってはピカソと並んで有名な画家だろう。ちなみにゴッホではなく、ファン・ゴッホと書いているのは、本来ファン・ゴッホでひとつの姓であるからだ。
(従来の「ゴッホ」のみの呼称は厳密に言えば誤り)
私自身、子供の頃から芸術家の人生に強い憧れがあった。彼らの人生が報われないものであろうが、短いものであろうが、生涯を芸術に捧げた生き方に美しさを感じていた。
ファン・ゴッホもそんな人生を送った一人ではないだろうか。
ファン・ゴッホを描いた映画で代表的なものが1956年に公開された『炎の人 ゴッホ』だ。アーヴィング・ストーンの1934年の小説『Lust for Life』の映画化作品で、映画も原題は『Lust for Life』、日本語に訳せば「生への渇望」となる。監督をヴィンセント・ミネリ、主演はカーク・ダグラスが務めている。
同作は今日一般の人がイメージするファン・ゴッホ像に大きく影響を与えている。報われない天才画家、芸術のみに生きた狂人などがイメージされるファン・ゴッホの姿だろう。
今回は『炎の人 ゴッホ』をベースにファン・ゴッホの人生とその背景について見ていきたいと思う。
宗教家ファン・ゴッホ
ファン・ゴッホが本格的に画家を目指したのは27歳の時だ。それまでファン・ゴッホは画商として働いていたのだが、その道に挫折した後は神に仕える者としてキリスト教の伝道師を目指していた。
『炎の人 ゴッホ』はファン・ゴッホが伝道師の資格を得ようとする場面から始まる。ファン・ゴッホの父は牧師であり、ファン・ゴッホも間近でその姿を見ていたのだろう。
ベルギー伝道会から伝道師の資格を得ようとするも、説教すら覚えられないファン・ゴッホには伝道師の適性がないとしてその資格は与えられなかった。しかし、ベルギー伝道会はファン・ゴッホを見習いという形にして炭鉱地のボリナージュへ派遣する。
映画の中でも炭鉱から吹き出たガスによって爆発事故が起きる様子が描かれているが、実際にボリナージュでは頻繁にガス爆発事故が起きており、事故に巻き込まれれば生存の確率は低かった。また多くの子供も大人に混じって働いており、労働環境は劣悪であった。
ファン・ゴッホは彼らの理解を得るために、伝道師らしい身なりを捨て、彼らと同じ暮らしの中に身を置こうとした。
しかし、ファン・ゴッホの布教活動を確認しに来たベルギー伝道会の面々からボロボロの衣服を「伝道師は尊敬されなければならない」として叱責される。ファン・ゴッホは「私は真のクリスチャンとして生きたい」と叫び、「偽善者に用はない」として彼らを部屋から追い出す。
キリストのように貧しいもの、弱きものの輪に入って彼らと同化しながら布教を進めようとするファン・ゴッホと、布教者としての尊厳や礼節を求めるカトリック教会の方向の違いにより、ファン・ゴッホは聖職者への道を諦める。
もともとファン・ゴッホは画商として働いていたこともあり、次の目標を画家として成功することに定める(圀府寺司氏は著書『ファン・ゴッホ 日本の夢に懸けた画家』の中では学校にも画商にも教会にも馴染めず、生きる道はなかったと評している)。
ボリナージュからエッセンの実家へ身を寄せたファン・ゴッホはその一歩として線描を始める。この時期のファン・ゴッホの絵画はミレーに影響を受けた暗い色彩が特徴的だ。ファン・ゴッホが「オランダ時代」と呼ばれる。
先日美術館で開催されていたゴッホ展に行き、ファン・ゴッホの絵を直接見る機会に恵まれた。
オランダ期のファン・ゴッホの作品を見ると貧しい人、恵まれない人を積極的に描いているのがわかる。この時期の作品は『風景』『疲れ果てて』『ジャガイモを食べる人々』などだ。
ファン・ゴッホは聖職者への道を模索していた頃カトリック教会、ルター教会など、派閥を問わず多くの教会へ行っていたという。
ルター派のルターとは、マルティン・ルターのことだ。ルターが起こした宗教改革は、それまでの世俗的なキリスト教を否定し、本来のキリスト教の姿に立ち返ろうとする動きだ。日本ではルーテルの名で知られている。
ファン・ゴッホの目指した聖職者像もルターのものに近いのではないかと思う。どんな人でも神の前では平等なのだ。位の高い聖職者であろうと、貧しい者であろうと関係ない。それがファン・ゴッホが信じた神の道ではないだろうか。
弟のテオに宛てた手紙の中で、「僕にとって絵を描くことは信仰そのものだ」とファン・ゴッホは綴っている。映画の中には「絵を描くことで神に仕えたい」という台詞もある。
ファン・ゴッホは貧しくもひたむきに生きる人々の中に聖なるものを見出していたのだろう。
パリ時代
1886年2月にファン・ゴッホは弟のテオを頼ってパリへ渡る。パリ時代はそれまでになかった鮮やかな色彩が特徴だ。
当時のパリは芸術家たちの集う黄金時代でもあった。ウディ・アレン監督の映画『ミッドナイト・イン・パリ』でベル・エポック期のパリが登場する。
『ミッドナイト・イン・パリ』の解説の中で、パリが芸術の街として花開いたのはナポレオン三世の元でパリの大改造が行われたことが大きいと述べた。大通りが整備され、交通網も発達した。それまでの非衛生的な街から一気に「世界の首都」と呼ばれるほどの都へ変革を遂げたのだ。
芸術の都、パリ
そんなパリには多くの人が集まってくる。パリには多くのアパルトマン(今でいうマンション)が建てられた。だがアパルトマンの密集のために、住居の日当たりは悪くなり、 それを補うために壁に明るい絵画を飾った。 そして、家に人を招くサロン的なもてなしが流行し、絵画をはじめとする室内装飾の需要が高まっていく。
パリにはまた多くの新進気鋭の芸術家たちも集まっていた。ファン・ゴッホも多くの芸術家の作品に触れ、影響を受けていく。そんなパリでの刺激的な日々がファン・ゴッホの色彩にも影響を与えたのだろう。特に印象派の色彩の鮮やかさはゴッホの絵にそれまでになかった明るさをもたらしている。
ジャポニズムと芸術家たち
またパリの発展を語るときにパリ万国博覧会は外せない。
1855年に1回目のパリ万国博覧会が開催され、516万人が来場した。1867年に開催された2回目のパリ万国博覧会で日本は万博に初参加となった。このパリ万国博覧会には1500万人が来場したという。 万国博覧会では各国の産業のアピールがメインだったが、200年にわたって鎖国していた日本はこれといってアピールできる産業を持たなかったため、浮世絵などの美術工芸品を展示することにした。
これに当時のパリに集った芸術家は驚き、日本文化はジャポニズムとして多くの芸術家に影響を与えた。
もちろんファン・ゴッホも影響を受けた一人だ。浮世絵『亀戸梅屋舗』の模写やアルルの少女を描いた肖像画にラ・ムスメと名付けていることに日本からの影響が見てとれる。それどころかテオに宛てた手紙からは日本にユートピアとしての憧れすら抱いていたと言ってもいい。
だが、『炎の人 ゴッホ』ではジャポニズムの部分は全く描かれていない。
パリを離れたゴッホはアルルに次の居を写す。
アルルを訪れたゴッホはテオへの手紙の中で、「この土地が空気の透明さと色彩効果のために僕には日本のように美しく見える」とアルルについて書いているのだが、これも『炎の人 ゴッホ』では一切描かれない。
ゴーキャンと耳切り事件
アルルで新たに居を構えたファン・ゴッホはそこでポール・ゴーキャンと同居する。ファン・ゴッホの作品において『黄色い家』として知られる家だ。
ファン・ゴッホは芸術家同士の相互補助グループのを夢見ていたが、ゴーギャンとの同居はその第一歩とも言えただろう。
だが、ゴーギャンとの同居はわずか9ヶ月で破綻する。
『炎の人 ゴッホ』ではアンソニー・クインがゴーギャンを演じている。クインはこの演技によりアカデミー助演男優賞を受賞している。
ファン・ゴッホもゴーキャンも同じく「後期印象派」と呼ばれる画家なのだが、二人の芸術論は噛み合うことが少なく、次第に関係は悪化していく。
なぜゴッホは自分の耳を切ったのだろうか。そこにゴッホと世界とのズレがあるようにも思える。
ファン・ゴッホと顔
先に述べた通りゴッホ展で様々ななファン・ゴッホの絵を見ることができたのだが、それらの作品を通してあることに気づいた。
絵に描かれているどのような人物も顔が影になって曖昧に描かれていたり、極端に表情に乏しいのだ。
ファン・ゴッホはその生涯を通して、人と深く長きにわたって親交を結ぶことが出来なかった。ファン・ゴッホは自身への些細な批判であっても、それによって自分が全否定されたかのように受けとる傾向があった。逆に恋慕った人には一方的な感情をぶつけることも少なくなかった。未亡人の従姉ケーへの恋慕はその象徴的なエピソードだ。
聖職者への道を諦め、実家にに戻ったゴッホは従姉のケーと再会する。当初は従姉として接していたファン・ゴッホだが、未亡人となっていたケーへの同情心は次第に熱烈な愛へと変わっていった。しかし、「だめです!絶対にだめです!」その想いをケーは拒絶する。当時のファン・ゴッホには自身の情熱的な愛情は必ず相手も理解してくれるという思いこみがあった。ファン・ゴッホの執拗な求愛に対し、ケーはアムステルダムまで帰ってしまう。だが、ファン・ゴッホはアムステルダムまでケーを追いかけ、ケーはいないと言い張るケーの家族に対し、「僕がこうしている間にケーを連れてきてほしい」と言い、蝋燭の炎に手をかざそうとした。
『炎の人 ゴッホ』では、ゴッホは火傷するまで蝋燭に手をかざし続けるが、これはいささか誇張されたエピソードだ。
実際には手をかざそうとしたファン・ゴッホに対してケーの家族はあわてて蝋燭を消し、改めてケーはいないことをファン・ゴッホに伝えたという。
このストーカーにも近いエピソードは、世界とファン・ゴッホのズレを端的に示している。
ファン・ゴッホにとって「人間」とは何だったのか。
その答えが顔の見えないファン・ゴッホの絵に表れているのではないか。
芸術という麻薬
映画監督でタレントの北野武氏は著書の中で「芸術は麻薬」だと述べている。
北野監督自身、全くの趣味で絵を描くことは知られているが、それを売るつもりは全くないという。売るということは売れるように描かねばならなくなり、そうなると絵がつまらなくなると述べている。
何かを作ることそのものが経済的な成功とは全く異なる快感を持ち合わせていることを改めて押さえておこう。
北野監督の作品で2008年に公開された『アキレスと亀』はまさにファン・ゴッホのような報われない画家の話だ。
娘の死に顔すら芸術の素材として観てししまう主人公に妻は愛想をつかして出ていってしまう。
それでも描くことを止められない。それが芸術家の生きざまであり、業ではないか。
北野監督も「ゴッホも絵を描いているときだけは幸せだったはずだ」と語っている。
私個人の話になるが、同じ描くにしても商業デザイナーと芸術家は全く異なる。商業デザインは極端に言えば売れるか売れないかが全てだ。
もちろん個人的な表現欲求とビジネスを両立させることは不可能ではない。不可能ではないが、100%自分の表現欲求を満たすことは不可能だ。
芸術家とアーティスト
真の芸術家とは何だろうか。ファン・ゴッホの人生を追っていくと、その事が頭をもたげてくる。
今やミュージシャンやミュージシャンと呼べないような人たちも曲を出せばアーティストと呼ばれる。使い古されたフレーズをただ組み合わせたような歌詞を恥ずかしげもなく歌う。いや、マトモに歌えるならまだいい。刮目するほど上手い歌手なんてほとんどいない。
ただの呼び名に過ぎないことは重々承知ではあるが、しかし彼らのようなものまで含めてアーティスト(=芸術家)と呼んでしまう今の時代は何だろうかとふと思ってしまう。10年も経てば過半数が忘れ去られてしまうアーティストのどこが芸術家なのか?
ファン・ゴッホの絵は100年後も評価され続けるだろう。
名作への理解
ただ、ファン・ゴッホの絵の芸術性を初見で感じとるのは難しい人もいるだろう。私もそうだったからだ。フェルメールなどの精巧かつ美しい作品からはなんの説明もなく芸術性を感じとることができる。
ピカソとゴッホは共に日本で最も名の知れた画家ではあるが、ではその作品の素晴らしさをどれ程の人が理解しているのだろうか。
名作がなぜ名作なのか。ファン・ゴッホやピカソとは違う時代に生きている私たちが彼らの芸術を理解するためには学ぶしかない。理解できないからと切り捨てるのではなく、理解できるようになるまでその作品に食らいつくことだ。「理解できなくてごめんなさい」と言うくらいの謙虚さも今の私たちには必要なのではないか。
ファン・ゴッホの生きた時代から現代まで、芸術の価値はどう変わっていったのだろうか。もちろん、ファン・ゴッホの絵画は彼が生きていたうちには想像もできないほど値上がりしたが、芸術そのものの価値とは金銭的なものではない。
ファン・ゴッホの人生を通して、芸術とは何か、ファン・ゴッホは何を作品に込めたのかを見てきた。
「本当の芸術とは何か?」
情報やエンターテイメントが氾濫し、消費されていく現代において、私たちはファン・ゴッホから何を感じ取れるだろうか。