『ローマの休日』恋愛映画だけではない、本当のメッセージとは

※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています


オードリー・ヘプバーンと聞いて多くの人がイメージするのはこの『ローマの休日』のオードリーではないだろうか。
ショートヘアのオードリーがジェラートを食べていたり、バイクに乗っている姿を思い浮かべたのならば、それは『ローマの休日』のオードリーだ。
一方で『ローマの休日』というタイトルは知っていても、まともに観たことのある人は意外と少ないかもしれない。
そこには「恋愛映画の傑作」とはまた違った姿が浮かび上がってくる。
ここでは、『ローマの休日』のもうひとつの側面を時代と共に考察してみたい。

まず、簡単に内容をおさらいしておこう。
某国(初期の脚本ではルリテニア王国とされている)の王女であるアン王女は度重なる公務に嫌気が差し、訪問先のローマの城を抜け出してしまうが、直前に服用した睡眠薬のせいで、外のベンチで眠ってしまう。
たまたまそばを通りかかった新聞記者のジョーは眠りこけるアンを介抱し、自宅へ連れていく。
翌朝、新聞社に出社したジョーはそこでアンの素性に気づく。ジョーはスクープをもくろみ、新聞記者ということを隠してアンに近づく。ローマの地で市井の人に紛れたアン王女は普通の人と同じように美容室で髪を切り、スペイン広場でジェラートを食べるなどの日常を楽しむ。そこに偶然を装ってジョーはアンと再開する。ジョーの友人でカメラマンのもアンのスクープを撮影するために彼らのローマの一日に同行する。
真実の口や願いの壁、市中をスクーターで回ったりとアンはローマでの一日を楽しんでいく。そして、アンとジョーの距離も次第に縮まっていくことになるがー。

『ローマの休日』と『或る夜の出来事』

『ローマの休日』はフランク・キャプラの1935年の作品『或る夜の出来事』に代表されるスクリューボールコメディの骨子を引き継いでいる。市井に逃げ込んだ王女と彼女の素性を知りつつスクープ目当てに近づいていく男というストーリーは『或る夜の出来事』そっくりだ。

良家のお嬢様であるエリーは親の決めた結婚に反対し、旅行中のヨットから海に飛び降り、ニューヨーク行きのバスに乗り込む。
偶然同じバスに乗り合わせた新聞記者のピーターは些細なことからエリーと喧嘩になるが、その正体がニュースを賑わせている失踪した令嬢とわかるとスクープを目論んで、彼女に巧みに近づこうとする。
しかし、大雨のためにバスは立ち往生。車内にはエリーの正体を察するものも出てきたため、ピーターとエリーはバスを降りてヒッチハイクでニューヨークへむかう。

しかし『或る夜の出来事』がハッピーエンディングで終わるのに対し、『ローマの休日』はある意味では悲恋とも言える結末で終わる。

『ローマの休日』のもうひとつの側面

『ローマの休日』は単なる恋愛映画ではない。この映画を読み解いていくと、映画の内容以上に深い平和への祈りを感じられるはずだ。スタッフ・キャストの顔ぶれから見ていこう。

オードリー・ヘプバーン

まず、主演のオードリー・ヘプバーンから。
オードリー・ヘプバーンは1929年にイギリスで生まれた。彼女が6歳のとき両親は離婚。オードリーの思春期はそのまま戦争の時代と重なる。母親のエラはイギリスでの生活は危険だと考え、当時は中立国であったオランダに居を移すが、オランダはナチスに支配され、オードリーは過酷な日々を過ごす。10歳からバレエのレッスンをしていたオードリーは、反ナチスのレジスタンスの資金集めに協力するために彼らの前てバレエの公演を秘密裏に行っている。
また、オードリーの叔オットー・ファン・リンブルク=シュティルムが、反ドイツのレジスタンス運動に関係したとしてはナチスによって処刑されている。オードリー自身も極度の貧しさから栄養失調になり、体は痩せ、貧血、喘息、黄疸、水腫にかかっていたという。
『ローマの休日』のアン王女役にはオーディションで選ばれたと言われているが、一説によるとオードリーの反戦活動に従事した経験からワイラーがオードリーを選ぶことを前提に形式上オーディションを設けただけだという意見もある。
まだ新人女優だった彼女はこの作品でアカデミー賞主演女優賞を獲得し、その人気は世界へ広まっていく。

ウィリアム・ワイラー

赤狩りへの抵抗

次に監督のウィリアム・ワイラー。ワイラー自身もドイツ出身のユダヤ人であり、彼は赤狩りに最後まで抵抗した映画監督としても知られている。
赤狩りは戦後のアメリカで起きた共産主義やそのシンパを排斥する運動のことだ。
もともとハリウッドにはリベラルな風土があり、共産主義に理解を示すものも少なくなかった。ワイラーも前述のフランク・キャプラとともに共産主義的な考えに理解があった。
赤狩りの背景には共産主義国家であるソ連との冷戦対立があった。人々が互いに疑い密告し合うという事態を含め、赤狩りは「現代の魔女裁判」とすら呼ばれた。

当時のハリウッドもまた、赤狩りによって自由に映画が作れる空気ではなかった。戦後、ワイラーは大手映画会社の力に左右されず監督の立場を強化するためにフランク・キャプラやジョージ・スティーヴンスと共にリバティ・ピクチャーズを創設したというエピソードにもそれは表れている。
『ローマの休日』も企画段階に置いてはフランク・キャプラが監督するという話もあった。実際にキャプラはエリザベス・テイラーとケリー・グラント主演で『ローマの休日』を撮るという構想を持っていたが、予算面からこの作品を降りてしまう。
何年か脚本は中に浮いた状態だったが、ウィリアム・ワイラーはローマでのロケ撮影を条件に『ローマの休日』の監督を引き受ける。当時のアメリカ国内では赤狩りによって制約が多く、のびのびした撮影ができないこともあったのだろう。(もっとも、ローマはローマでひどい猛暑と野次馬でアメリカとは別の意味で過酷な撮影にはなったのだが)

願いの壁

さて、ローマの休日でアンとジョーはある場所を訪れる。このシーンはワイラーが特にこだわった場面だとも言われる。
それは願いの壁だ。
ジョーはアンに願いの壁をこう解説する。「戦争中、ここで子どもを連れた男が空襲にあった。この壁の後ろに避難して祈ったら、爆弾はすぐ側に落ちたが怪我はしなかった。だから後でここにお礼の札をかけたんだ」
『ローマの休日の撮影は1952年に行われた。戦後間もない時代、願いの壁に掲げられていたメッセージは決して明るいものだけではなかったはずだ。

「願いは何て書いたの?」そう問うジョーにアンは悲しげにこう言う。
「どうせ叶わないことよ」
もし、アンが城を抜け出したままのアンであったなら、身分を隠して二人でずっと暮らすという夢も叶ったかもしれない。
だが、愛を知るということは、それを失う痛みもまた知ることに他ならない。それを知った今、自分の個人的な想いは諦めるしかないことも悟ったのだろう。

願いの壁には戦争で引き裂かれた人々の悲痛なメッセージもあっただろう。王女としての使命はもう二度このような悲劇を繰り返さないことではないのか。
実際にアメリカ空軍の一員として、戦場を見てきたワイラーはその悲惨さを肌で知った。ワイラーが1946年に発表した『我等の生涯の最良の年』は復員兵のPTSDをテーマにしている。

ちなみにキャプラは『我等の生涯の最良の年』と同じ年に『素晴らしき哉、人生!』を発表している。今でこそ『ローマの休日』に負けるとも劣らない傑作と評価の高い作品ではあるが、公開当時は興行的に惨敗している。
『素晴らしき哉、人生!』は負債を抱えて保険金のために自殺しようとする男の話だ。だが、実際に戦争によって熾烈な命のやり取りを目の当たりにした時代にあってはいささか生ぬるいテーマだったのかもしれない。(第19回アカデミー賞において『素晴らしき哉、人生!』と『我等の生涯の最良の年』は作品賞、監督賞、主演男優賞を争うが、いずれも『我等の生涯の最良の年』が受賞し、『素晴らしき哉、人生!』は無冠に終わっている。)

ダルトン・トランボ

そして、脚本を担当したダルトン・トランボ。
じつは『ローマの休公開時の脚本家はイアン・マクレラン・ハンターという名前でクレジットされている。それはトランボは赤狩りによってハリウッドを追放されていたからだ。トランボは友人の脚本家であるイアン・マクレラン・ハンターの名義を借りている。当時このように赤狩りの追放者に自分の名義を貸す仕事は「フロント」と呼ばれていた。赤狩りによってハリウッドは二分され、ダストン・トランボをはじめとする「ハリウッド・テン」や喜劇王として有名なチャールズ・チャップリンらがハリウッドから追放されることになった。
トランボの手によって『ローマの休日』の脚本は1940年半ばに書かれていた。
また、トランボは第二次世界大戦中の1939年に小説『ジョニーは戦場に行った』を発表した。戦争で顔も四肢も意識以外のほとんどを失った男が主人公だ。この衝撃的な反戦小説はアメリカが戦争に突入する旅に発禁処分がされるほどの内容になっている。トランボは自身の唯一の監督作として1973年にこの小説の映画化を果たしている。本作は第二次世界大戦勃発の1939年に発表されたが、反戦的な内容が「反政府文学」と判断され、戦争の激化した1945年、ついに絶版(事実上の発禁処分)となる。戦後になって復刊されたものの、朝鮮戦争時には再び絶版とされ、休戦後に復刊されるなど、戦争のたびに絶版と復刊を繰り返す。

2015年の映画『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』はこのダルトン・トランボがハリウッドを追われて名誉回復するまでの物語だ。
映画のクライマックス、1970年の全米脚本家組合功労賞授与式でのスピーチで名誉回復を果たしたトランボは赤狩りを振り返ってこう言う。

「あの暗黒の時代をふりかえる時、英雄や悪者を探しても何の意味もありません。
いないのですから。いたのは被害者だけ。
なぜなら誰もが追い込まれ意に反したことを言わされ、やらされたからです。
ただ傷つけあっただけ、お互い望んでもいないのに。」

『ローマの休日』に込められたメッセージ

『或る夜の出来事』の公開公開は1934年。まだアメリカが第二次世界大戦に参戦する前であるのに対して、『ローマの休日』は戦争から10年とたっていない1953年だ。

そう思うと如何に戦争が『ローマの休日』に大きな影響を与えたかがわかる。
『或る夜の出来事』は史上初めてアカデミー賞主要五部門を完全制覇した紛れもない名作だが、『ローマの休日』に知名度では圧倒的に劣る。
もちろんオードリー・ヘプバーンの時代を超越した美しさもあったろう。だが、それだけではない。
『ローマの休日』を名作たらしめているのはそのメッセージ性だ。もしジョーと逃避行を続けたとしたら、二人の恋愛はハッピーエンドだが、そこには何のメッセージもない。
ジョーと別れたあと、城に戻ったアンはこう言う。
「自分の義務を忘れていたら、私は今夜戻らなかったでしょう…ずっと」
個人的な愛をそのまま結婚など個人としての幸せという結末に進めるのではなく、隣人愛とも言うべき大きな博愛の物語に昇華させてゆく。
もちろん、アンの大人への成長物語としても観ることができるし、恋愛映画としても素晴らしいのは今さら言うまでもない。

二つの意味

ジョーとアンの二人は翌日に王女と新聞記者というそれぞれの真実の姿で再会する。
とある記者がアン王女は国家間の友好関係について今後の見通しをどう思っているのか質問する。
「守られると信じます。 個人の関係が守られるのと同様に」
アンのその言葉に、ジョーはこう添える。「わが通信社の見解を申しますと、王女様の信頼は裏切られないでしょう」
ここには二つの意味が隠されている。一つはジョーがアンと過ごした時間は口外されないという意味だ。ジョーの職業は新聞記者。だが記者だからと言ってアンと過ごした時間を掲載したりはしないということだ。

もう一つは国際協調と友好だ。ローマを擁するイタリアは戦時中ファシスト国家でもあった。そんな国家ともまた友好関係を結べるのか。いや、その架け橋となるのが王女たる自分の役割ではないか。ローマの地でアンは自分の言葉でそのメッセージを伝える。
赤狩りが吹き荒れていた当時、ワイラーは協調のメッセージをこのラストシーンに込めたと言う。その願いは今なお決して色褪せない。
だからこそ『ローマの休日』はいつの日も時代を超えた名作として輝き続けるのだ。

 

 

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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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