日経新聞によると2021年5月の菅政権の支持率は40%だったそうだ。
世論の流れに反するようにオリンピックの開催を推し進める姿勢や、コロナ対策の内容が評価されていない面もあるのだろう。
日本人の政治家への信頼度は先進諸国の中でも最低の水準である。
国際共同意識調査であるISSP調査において世界40ヵ国の国民に「政治家は正しいことをしていると信頼しているか」というアンケートをしたところ、日本は8.75%として最低ランクの数字だった。2010年調査と2004年調査では、それぞれ、7.3%、8.4%となっている。
政治がテーマの作品は当たらない
そんな日本では政治をテーマにした作品は当たらないと言われる。
しかし、記憶をなくした総理大臣を描いて大ヒットとなった映画が2019年に公開された三谷幸喜監督の『記憶にございません!』だ。
『記憶にございません!』は映画としては良い出来の作品だった。前作の『ギャラクシー街道』で低滞するかと思われた三谷映画だが、そんな予想を一蹴するには十分な良質なコメディ映画だ。
今回はこの映画から日本人と政治の側面について見ていこう。
内閣総理大臣の黒田啓介は粗暴な言動や権力志向、我が儘な振る舞いから支持率は憲政史上最低の2.3%だった。ある時演説していた黒田は聴衆から頭に石を投げつけられる。病院で目覚めた黒田は一切の記憶を無くしていた。一国の総理大臣の記憶喪失は総理側近のみが知るトップシークレットとなった。慣れない公務と重圧から当初は自分に総理は務まらないと考えていた黒田だったが、事務秘書官や恩師の励ましにより、1人の人間として正しい政治を行おうと、総理としてなすべきことを自覚していく。
ちなみに余談ではあるが、三谷幸喜は97年に出版された対談本『気まずい二人』の中で、子供のころに非社交的な自らの性格を変えるきっかけとして頭にサッカーボールがぶつからないか願っていたというエピソードを語っており、もしかしたらそれが今回の着想の断片になったのではないかとも推測できる。
三谷幸喜は97年にも政治と内閣総理大臣をテーマにしたドラマ『総理と呼ばないで』の脚本を書いている。
田村正和演じる総理大臣は支持率の総理大臣と彼の家族や側近たちが政権をどうにか延命させようとするコメディだ。
どちらの作品にも共通するのは国民の総理大臣への根深い不信と失望が根底にあることだ。
前述の政治への信頼度の低さの原因として政治との距離もあるように思う。
日本は総理大臣の選出は議員投票で行われ、国民によって直接的に選ばれるわけではない。
大統領というヒーロー
アメリカも名目上は国民は大統領に投票するのではなく、大統領を選ぶ「選挙人」に投票する形式をとる間接民主主義だが、選挙人は事前にどの大統領候補者に投票するのかを明言しているわけで、実質的には直接民主制ともいえるだろう。だからこそアメリカの大統領選挙は国民全体が熱狂する。
アメリカには格差や人種差別など、日本以上に深刻な社会問題になっている事案も少なくない。だからこそ彼らは自身の手で政治を変えようとする。ヒップホップミュージシャンのZEEBRAは若いころアメリカに渡っていた。アメリカでは老若男女あらゆる人々が日常的に政治について意見を交わす光景に驚いたという。アメリカにとって政治は身近な位置にあり、リーダーは自分たちの手で選ぶ本当の指導者だ。
映画もそのような大統領像を映し出している。1997年に公開された『エアフォース・ワン』ではハリソン・フォード演じる大統領のジェームズ・マーシャルが飛行機の中でただ一人でテロリストに立ち向かう。タイトルのエア・フォース・ワンとは大統領専用機のことだ。
また1996年に公開された 『インデペンデンス・デイ』ではビル・プルマンが支持率が40%台まで落ちてしまったトーマス・ホイットモア大統領を演じているが、ホイットモアは宇宙人からの侵略という危機においては元パイロットという経歴を活かして自ら先頭に立ち、敵に立ち向かっていく。
「今日は奇しくも7月4日、これも何かの運命だ。
君らは再び自由のために戦う。圧政や弾圧から逃れるためではなく、生き延びるためだ。地球に存在する権利を守るために。
勝利を手にしたら7月4日はアメリカの祝日だけでなく、人類が確固たる決意を示した日として記憶されるだろう。
我々は戦わずして絶滅はしない!我々は生き残り存在し続ける!
それが今日我々が称える人類の独立記念日だ!」
このセリフを覚えている人も多いだろう。ホイットマンが戦闘機での宇宙人への最後の総攻撃の前に、集ったパイロット達に呼びかける名演説だ。彼らはこの言葉に熱狂し、士気が爆発する。
そこに見えるのは国家のトップに対する期待やイメージの違いだ。紹介した2本の作品の大統領はいずれも架空の大統領だが、国民にとってアメリカ大統領は政治屋ではなくヒーローなのだ。少なくともそう言えるだけのリアリティや説得力がアメリカにはある。
ハリウッドには大統領をテーマにした映画も多い。リンカーンやケネディはもちろん、ジョンソン、ブッシュ、ニクソン、実在の大統領たちをテーマにした映画はもはやひとつのジャンルと呼べるほど枚挙に暇がない。
もちろんこの中には大統領を揶揄するような作品もある。特にウォーターゲート事件で失脚したニクソンにはその傾向が顕著だ。2008年に公開された『フロスト×ニクソン』ではニクソンが自身の違法行為をテレビの前で認めるという決定的な敗北の瞬間が描かれている。
それでもアメリカ大統領は英雄でもある。それは映画のストーリーの中だけではない。
リンカーンは奴隷解放宣言を出し、人種差別を撤廃しようとした。ケネディはキューバ危機で世界を核戦争の危機から救った。ジョンソンはケネディの意思を継ぎ、公民権法を成立させた。
リンカーンが人種差別の撤廃を向けて奮闘する姿は2012年に『リンカーン』としてスティーブン・スピルバーグが映画化しているし、キューバ危機は2000年に『13デイズ』という映画になった。『グローリー/明日への行進』や『大統領の執事の涙』ではジョンソンが公民権法を成立させた姿が描かれている。
1939年に公開された映画に『スミス都へ行く』という作品がある。監督はフランク・キャプラ。キャプラは5歳のときに家族でイタリアからアメリカへ移住している。イタリアでは貧しい小作人だったキャプラ一家だったが、アメリカへ渡ったキャプラはアメリカの精神である自由と平等を存分に享受し、1934年の『或る夜の出来事』ではアカデミー賞の作品賞、監督賞、主演男優賞、主演女優賞、脚本賞と主要部門すべてを制覇するという史上初の偉業を成し遂げている。まさにアメリカン・ドリームの体現だと言える。
三谷幸喜は2011年の映画『ステキな金縛り』の中で『スミス都へ行く』に言及している。
『ステキな金縛り』はダメ弁護士の宝生エミが妻殺害の容疑をかけられた男の嫌疑を晴らすために証人として幽霊を法廷に引っ張り出すコメディだ。
その中で優秀な弁護士だったエミの父親の好きなだった映画として『スミス都へ行く』が紹介される。
『スミス都へ行く』は純朴だが政治的には無学な男、ジェファーソン・スミスが上院議員となり、ワシントンの不正に立ち向かっていく話で、利権にまみれたエリートよりも無学でも純粋な普通の人こそリーダーになるべきという民主主義の形を描いている。
日本の総理大臣描写の限界
この「普通の人」は『記憶にごさいません!』でも記憶喪失の総理という形で登場している。記憶を失くしたことであらゆるしがらみから解放された黒田は『スミス都へ行く』のスミスと同じように純粋な正義感を持って政界に立ち向かっていく。
それは三谷幸喜が思うひとつの政治の理想像でもあるのだろう。(『総理と呼ばないで』でも純朴な大学生がいきなり官房長官へ抜擢されるという設定がある。)
では『記憶にございません!』で黒田総理は何をしたのか。
・アメリカに対してはっきりとNOの姿勢を示した。
・関係業者からの裏金を断った。
その程度である。そしてこれが「あるべき総理像」として描かれることにどうしても日本の政治のスケールの小ささが透けて見える気がするのだ。
アメリカのようなヒーロー性を日本の総理大臣に求めるとしたら、総理としてのリアリティは無くなってしまうだろう。
それは理想を実現していくダイナミズムが戦後の政治から失われているからだ。
日本でも数少ないが実在の総理を描いている映画はある。
東京裁判において東条英機を描いた『プライド・運命の瞬間』、『日本のいちばん長い日』などがそうだ。 『プライド・運命の瞬間』では津川雅彦が東条英機を、『日本のいちばん長い日』は1967年に公開された岡本喜八監督版では笠智衆が、2015年に公開された 原田眞人監督版では山﨑努が鈴木貫太郎内閣総理大臣をそれぞれ演じている。
そのいずれもが日本が主体的に自国の行く末を左右する選択を迫られた時代を描いている。戦後の日本においてはこのような選択を迫られるほとんどないと言ってもいい。
『記憶にごさいません!』ではアメリカ大統領のスーザン・セントジェームス・ナリカワに対して自分の正直な気持ちを貫こうとする黒田を官房長官がこう諌める。
「今アメリカを怒らせて何の得があるんだ」
「アメリカと友好関係を続けることで多くの大企業が潤うんだ。そしてそれが国益となり、結果的に多くの国民が潤う。」
ちなみに結果としてアメリカに対してはっきりとNOの姿勢を示した黒田にナリカワは好意的なコメントを寄せる。
だがこれもファンタジーだからこそだろう。もちろん『記憶にございません!』はコメディ映画なのでそれでもいいのだが。
三谷幸喜監督は映画を通して現実の政治を風刺する異図は無いという。だがそこには強国に対してどう振舞うのか?ということが国際社会における駆け引きの大部分となっている今の日本のリーダーシップの情けなさが垣間見えるようだ。