『ダークナイト』が映すアメリカの苦悩する正義

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※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています


以前、このサイトで『アイ・アム・レジェンド』『宇宙戦争』というSF映画を紹介した。
それはどちらもSF映画でありながら当時のアメリカの状況が作品に色濃く反映された作品だった。
『宇宙戦争』には9.11のテロがアメリカに与えた衝撃の大きさが、『アイ・アム・レジェンド』にはそれでもアメリカ国民が英雄としてのアメリカを求める気持ちがそれぞれの映画から伝わってくる。

『ダークナイト』

2008年の映画『ダークナイト』はクリストファー・ノーランによる『バットマン』の実写映画第2作目の作品だ。
ヒーロー映画という言葉からのイメージからは程遠い、暗くシリアスな内容の作品だが、アメリカでは『タイタニック』や『ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還』に並ぶほどの大ヒットになった。
今日のアメコミ映画の隆盛はこの『ダークナイト』の大ヒットがきっかけと言えるだろう。大人にこそ観てほしい、現実社会を巧みに切り取った作品だ。

犯罪都市ゴッサムシティに、新たにジョーカーという男が現れる。ゴッサムはバットマンの奮闘と新任検事のハービー・デントにより、マフィアが動きづらくなっており、「資金を半分よこす代わりにバットマンを生け捕りにできる」と言うジョーカーとマフィアは手を組むことにする。
バットマンとして自警行動をしていたブルース・ウェインだが、法に依らない自らの正義よりも、法のもとで堂々と悪に立ち向かうハービーに希望を感じ、バットマンからの引退を考え始める。

ポスト9.11

『ダークナイト』の主役はバットマンなのだが、ヒース・レジャー演じるジョーカーがバットマン以上に強烈な印象を残す。
犯罪都市のゴッサムシティにおいて、警察官であるゴードン警部補、検事のハービー・デント、そしてバットマンが正義を守ろうとする側として描かれるが、その正義も一枚岩ではない。
ゴードンが属する警察組織からすればバットマンは法を無視して私刑を行うならず者であるし(ゴードンはバットマンを認めているものの)、ハービーからすれば警察は警察でマフィアとの癒着や汚職の疑いもあり、全幅に信頼のおける存在ではない。だが、バットマンの正義は認めている。バットマンが法に依らず、また民衆からの信任を得ていないという指摘に対しても「古代ローマでは民主主義より一人の男に国を託した、英雄ではなく、公僕として」と答えている。
表立って悪と戦うゴードンとハービーは自身のモラルの他に法にも縛られる。ではバットマンの正義は何によって裏付けられた正義なのだろうか?それを突いて根底から揺さぶっていくのがジョーカーだ。そこには以降のアメリカの姿が見て取れる。

9.11は超大国のアメリカの威信がわずか数機の飛行機によって脆くも崩れ去った日だとも言える。この日を境にアメリカは「テロとの戦い」を訴え、アフガニスタン・イラクと戦争を広げていくわけだが、必ずしもアメリカ全体が戦争を支持したわけではなかった。
特にイラク戦争においては過去最大規模の反戦運動が盛り上がり、だがそれでも大量破壊兵器とサダムフセインの独裁制の打倒という名目でアメリカは戦争に突入していった。ポスト911とは言わば冷戦後の世界で圧倒的な勝者であり、リーダーであったアメリカのイメージが決定的に崩れた時代だと言えるだろう。

現代において、価値観は多様化の一途を辿っている。と同時にそれはこれまでの正義の在り方もまた問い直され、再構築されつづけているということに他ならない。9.11以前からそれは映画にも現れていた。1999年に公開されたサム・メンデス監督の『アメリカン・ビューティー』では典型的なアメリカの中流家族が崩壊していく様が描かれる。
「家族は宝」「家族は素晴らしい」そんなアメリカ的な家族の価値観や理想は粉々に崩れ去る。「でもこれが真実でしょう?」とでも言いたげに。

苦悩するアメリカ

1985年の映画『ランボー3/怒りのアフガン』はランボーがアフガニスタンに侵攻したソ連をアフガニスタンのゲリラ兵と協力して退けるという内容だ。
そのエンドロールには「この映画をすべてのアフガン戦士たちに捧げる」と記されているが、そのアフガン戦士のひとりが後にタリバンを創設し、アメリカへのテロ活動を繰り広げることになる。

『ダークナイト』の公開は2008年。この年に大統領に就任したバラク・オバマは後にイラクからのアメリカ軍の全面撤退を指示している。
イラク戦争はアメリカにおいてはベトナム戦争に次ぐ大きな挫折であり、それまで貫いてきた正義の在り方が大きく揺らいだ事件でもあった。イラク戦争は当初の開戦理由であった大量は開兵器も見つからず、アメリカが理想の政治システムだと信じていた民主主義も根付かない。それどころか秩序は崩壊の一途を辿る。2020年には掃討したはずのタリバン政権も復活し、中東情勢は混迷している。

『ダークナイト』で描かれるバットマンは苦悩するアメリカそのものだ。
バットマンも自身の自警行為のせいでジョーカーが台頭し、市民が犠牲になっていることに心を痛めていく。ジョーカーはバットマンに「仮面を脱いで正体を晒せ」と迫る。その日までに一人ずつ市民が殺されていく。

表裏一体の善悪

バットマンも同様に悪がいないと成り立たない存在ではないか。クリストファー・ノーランはこの大きな矛盾をジョーカーを使って問う。
劇中でジョーカーは自身とバットマンは表裏一体の存在であるという。バットマンがいるからジョーカーが存在し、ジョーカーがいるからバットマンが存在する。
ジョーカーは自らを「混沌の使者」だと紹介する。一方でバットマンは平和を求め続ける存在だ。平和の対義語は戦争ではなく混沌でもある。
正義の味方であろうとするバットマンの姿はジョーカーにしてみればモラルに縛られている男でしかない。バットマン自身、高潔な人間であろうとするためにジョーカーを殺せない。ジョーカーはそんなバットマンを「最高のオモチャ」だと表現する。
バットマンとジョーカーのように、正義だと思って動いた結果がが新たな悪を生んだとしたら、その行動は果たして正義と言えるのか?

2022年に公開された『THE BATMAN-ザ・バットマン-』でもこのテーマは示されている。『THE BATMAN-ザ・バットマン-』でブルース・ウェインは自身がバットマンとして行動した結果、新しい悪が誕生していたことを知る。このバットマンの正義は復讐だった。両親を殺された復讐としてゴッサムの悪人たちを夜な夜な成敗しているのが『THE BATMAN-ザ・バットマン-』で描かれるバットマンだ。

『ダークナイト』でジョーカーはモラルや倫理を「善人のたわ言」だと切り捨てている。「必要なときはが、必要がなくなればすぐに捨てられる」ジョーカーはバットマンの正義という仮面を剥ぎ取ろうとする。
バットマンにとっては自身の正義という信念がすべて。それが崩壊することは自分自身を否定することに他ならない。
偽善的な理想を剥ぎ取り、醜い現実こそ真実と認めろ、そうジョーカーはバットマンに迫る。

人間の本性とは何か

果たして、人の本性とは何なのか。
ジョーカーはバットマンにあるゲームを仕掛ける。ジョーカーは囚人達が乗る船と、一般人が乗る船、二つの船にそれぞれ爆弾と相手の船を爆発させるスイッチを設定していた。時間までに相手の船を爆発させれば自分の船は助かる、時間までにどちらもスイッチを押さなければ、二つの船がどちらも爆発する。
果たしてその時間が来てもどちらもスイッチを押さず船の人々は無事に助かる。バットマンはこの結果に人の中の「善」の存在を確信するが、ジョーカーはある「切り札」を持っていた。それがハービーだった。

正しいことをしても救えないものがあると知ったハービーはツーフェイスに変貌し、悪人を殺すか殺さないかをコイントスで決めていた。愛するものを失ったハービー、彼がそれまで持っていた正義が勝つという信念は脆くも崩れ去った。正義を尽くしても救えないものがある、正義は公平ではなかったのだ。
では何が公平なのか?ハービーは「運」しかないと気づく。そしてジョーカーの手引きによってハービーはツーフェイスとなり、恋人の死に関わった人々の前に現れ、コイントスでその生死を決めるようになる。

人間の本質は何なのか。『ダークナイト』はそこに対して答えを出さずに終わる。
ゴッサムの人々のように極限状態でも善でありつづける人もいるだろう。一方、ツーフェイスのようにモラルが剥ぎ取られ、正義が暴走することもあるだろう。
現実では2016年にアメリカ・ファーストを打ち出した共和党のドナルド・トランプが大統領選において勝利を収めた。彼の奔放で時に差別的ともされる発言にセレブリティの多くはノーを示し、しかし低所得者層はトランプが発言する「アメリカの本音」に熱狂し彼を支持した。
だが、あれから4年が経ち大統領は民主党のジョー・バイデンに代わった。分断から協調を訴えたバイデンだが、その政治手法には疑問の声も根強い。バイデン政権下のアメリカが再び世界のリーダーを目指すのかは不明だが、社会の分断を埋めるという理想を掲げたバイデン政権には「弱腰」「優柔不断」という声も上がっている。『ダークナイト』同様、現実もまた揺れ続けるのだろう。逆に言えばそれほどまでに『ダークナイト』はリアルであり、深みを持った作品だということだ。

一方で『ダークナイト』から10年以上たった今、差別や偏見と今なおハリウッドは戦っている。
同じDCコミックスの原作を映画化した『ワンダーウーマン』では女性監督のパティ・ジェンキンスが13年ぶりにメガホンを取り、「強い女性像」を描き出した。
2016年にはほぼ黒人出演者のみの映画『ムーンライト』が アカデミー作品賞を受賞するなど高い評価を得た。

『ダークナイト』があぶりだした矛盾や闇を現実は再び乗り越えようとしている。ちなみにアメリカほど『ダークナイト』がヒットしなかったのが日本だ。
それは日本がアメリカほど国家としての理想も正義も持ち合わせていないということの表れではないだろうか。

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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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