※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています
『ジョーカー』は紛れもない傑作であり、まさしく圧倒されたとしか言い様のない迫力を持った映画だった。「凄いものを観てしまった」そう思った。全身が何かに打ちのめされ、だがしかし同時に興奮もしていた。
今、このレビューを書いているのは2022年だ。『ジョーカー』が公開されたのは2018年だが、未だに『ジョーカー』の衝撃を越える映画には出会えていない。
今回は『ジョーカー』の衝撃はなぜ生まれたのか、その余波も踏まえて考察してみたい。
ゴッサム・シティのアーサー・フレック
アメコミの『バットマン』シリーズに初めてジョーカーが登場するのは1940年。その時は天才的な頭脳をもつサイコパスで、本名はおろか、過去すらも描かれなかった。その後ジョーカーはコミックスや映画で様々に描かれ、その都度設定が変わっているのだが、今作『ジョーカー』ではその中でも最も現実的な人間らしい描かれ方をしている。
治安が乱れ、荒廃しつつある町、ゴッサム・シティ。中年男性のアーサー・フレックはピエロの仮装で稼ぎ、母親の世話をしながらいつか人気コメディアンのマレー・フランクリンのようにコメディアンとして成功することを夢見ている。だが、その日常は成功とは程遠い。アーサーは貧しい暮らしの中で一日を懸命に生きる普通の男だ。
監督のトッド・フィリップスはスーパーヒーロー映画のヴィランではなく、あくまで等身大なリアルなキャラクターとしてアーサー・フレックを設定した。
アーサーを演じたホアキン・フェニックスはアーサー・フレックについてどういう人物であるか、定義するのは難しいと述べている。
「アーサーは苦しみだけでなく、喜びも感じているし、幸せになるために人との繋がりや温かさ、愛情を感じるために格闘している」
アーサーは気持ちが高ぶると笑い声が止まらなくなる発作を持っていた。精神病院に入院していた過去もあり、カウンセリングと投薬治療を続けているが、ゴッサムの福祉削減の方向により、カウンセリングも打ち切られることになった。
『ジョーカー』の時代設定は明言されていないが、ゴッサム・シティは1981年のニューヨークをモデルにしたという。
実際、1981年にアメリカ大統領だったロナルド・レーガンは「小さな政府」を唱え、社会福祉関係の予算を大幅削減した。このことは低所得者の負担を増加させた。一方でレーガンはキャピタルゲイン減税を行い、富裕層をより富ませるような政策も実行した。これには富裕層の所得の増大が国民全体の所得の増加を後押しするという考えがあったようだが、レーガン政権下で結果的に格差は拡大している。
ゴッサムシティもまた富裕層と貧困層の格差は拡大しており、アーサーも厳しい生活を送っている一人だ。
彼は老いた母と二人で暮らしているが、母の面倒も全てアーサーが一人でみなければならない。苦しい状況の中、母はかつて務めていた街の大富豪であるトーマス・ウェイン宛に陳情の手紙を出し付けているのだが、まったく返事はない。
トッド・フィリップスはアーサーについて「良い子ちゃんタイプ」だという。人々の期待に応えねばならないと無理に振る舞ってしまうタイプということだ。
だが、そんな彼を社会は冷たくあしらっていく。
ピエロとして看板を掲げて働いていると、若者の不良たちに襲われ、看板を壊され暴行を受ける。その上に雇い主はアーサーの若者に暴行されたという言い分を信じず、看板をなくしたとして、アーサーは契約不履行を責められる。
同僚のランドルからは半ば強引に護身用として拳銃をもらうが、この拳銃がアーサーを「良い子」から解放していくきっかけになる。何も持たなかったアーサーにとって、拳銃は「力」でもあった。
その夜、アーサーは自室で『踊らん哉』を観る。テレビからは劇中歌の『スラップ・ザット・ベース』が流れる。ここでは歌詞に注目しよう。
「政治と税金のせいで世の中はひどいことになっている/だから民衆は斧を研ぐ/幸せはどこにもない」
力を手にしてアーサーの気分はしばし高揚する。「いい子」だったアーサーの本当の思いがこの歌詞からは見え隠れしている。
だが、ピエロとして小児科を訪れているときに誤って拳銃を落としてしまう。アーサーはその事が原因でついに解雇されてしまう。
その帰り道、アーサーは地下鉄で女性にしつこく絡む三人組の男と乗り合わせる。ここでもアーサーの発作が出てしまい、彼らは逆にアーサーに激しい暴行を加える。たまらずアーサーは三人を射殺するアーサーは自身の行為に激しく動揺するが、同時に気持ちは高揚していく。
その勢いのまま、アーサーはかねてより想いを寄せていた隣人のシングルマザーのソフィーにも迫り、二人は良い仲になっていく。
ある時アーサーは母がトーマス宛にしたためた手紙の内容から、自分はトーマスの隠し子ではないかと思うようになる。真偽を確かめるべくトーマス邸にむかったアーサーだが、執事のアルフレッドに冷たくあしらわれ、さらにトーマスの姿を見ると逃げるようにトーマス邸を去ってしまう。帰路についたアーサーだったが、自宅前は騒然としており、母親はストレッチャーで病院に搬送されようとしていた。
ソフィー共に病室で母親に付き添うアーサーが目にしたのは、マレー・フランクリンの番組で映し出されている自身の姿だった。驚きと幸せに包まれるアーサーだったが、マレーはアーサーをジョーカーと呼び、彼の稚拙なステージを笑い者にしていたのだった。
翌日、トーマスのいる映画館にボーイの変装で忍び込んだアーサーは、トーマスに直接真偽を確かめる。だが、トーマスから告げられたのはアーサーの母との肉体関係はなく、それどころかアーサーの母は逮捕され精神病院にも入れられていたという事実だった。
ちなみにトーマスが映画館で観ていた作品はチャップリンの『モダン・タイムズ』。
『モダン・タイムズ』は資本主義が労働者の人間性を奪っていくという風刺的な物語だ。それはゴッサムにも通じる。だが、映画と現実の繋がりに果たしてトーマスは気づいていたのだろうか?
アーサーは精神病院から無理矢理母親のカルテを奪い、真偽を確かめるが、その真実はアーサーは養子であり、母親との血縁関係もないこと、また母親の恋人がアーサーを虐待し、そのせいで発作が始まったということだった。
絶望したアーサーはソフィーの部屋へ向かうが、彼女はアーサーの姿にひどく怯えていた。実はソフィーが恋人というのは向精神薬の切れたアーサーの妄想だった。
翌日、母親のベッドの横に座りアーサーはこう呟く。
「僕の人生は悲劇だとずっと思っていた。でも本当は喜劇だった」
この台詞はチャップリンの「人生は悲劇だ。クローズアップで撮れば。でもロングショットで撮れば喜劇になる」という言葉からの着想だろう。アーサーにとってのロングショット、それはこれからの人生を過去を持たない男、ジョーカーとして生きることなのだろうか。
アーサーは自分の関わる全てのものから果てしなく裏切られる。そんな中で彼が唯一認められたのは「殺人」だった。
アーサーが撃ち殺した3人はいずれもトーマスの会社の社員だった。トーマスは3人への哀悼の意を述べ、犯人を「仮面なしでは人を殺せない卑怯者」だという。続けて「自分より恵まれた者を妬んでる(中略)彼らか改心しない限り、我々が築いたこの社会で彼らのような落伍者はただのピエロだ」と発言する。この発言が街の貧困層を刺激した。
ついに貧困層の不満はデモとなって噴出する。そんな中で三人を殺した正体不明のピエロは持たざるものの象徴として祭り上げられていく。
『ジョーカー』が描いた「時代」
トッド・フィリップスは今作について政治的な映画ではないし、そういったメッセージありきで作った作品ではないとは言うものの、結果としてはやはり時代を撃ち抜いた作品となった。
持つものと持たざるもの、富むものと貧しいものの分断が『ジョーカー』では描かれるが、現実社会の中では経済的な格差のみならず、肌の色、人種、国籍、性別、あらゆる要素で分断は起きている。
ゴッサム・シティでは富む者は貧しいものに見向きもしない。
トッド・フィリップスは『ジョーカー』を製作するに当たって1976年の映画『タクシードライバー』や1982年の映画『キング・オブ・コメディ』からも多くの影響を受けているという。
『タクシードライバー』は元海兵隊でベトナム戦争帰りの男、トラヴィスが社会に馴染めずに孤独と狂気に蝕まれていく物語だ。トラヴィスには偏執的な部分があり、一方的に思いを募らせ、それがやがて狂気へと発展していく。トラヴィスを形成したのは他でもないアメリカ社会だった。
ちなみにトラヴィスを演じたのは今作でマレー・フランクリンを演じているロバート・デ・ニーロだ。
マレーはアーサーをさんざん貶めたが、この回は視聴者からの反響もあり、アーサーはマレー・フランクリンの番組への出演を承諾する。
出演の日、アーサーの元に元同僚のランドルと小男のゲイリーが訪ねてくる。ライドンはアーサーの母親の死の追悼という名目だったが、その実はアーサーの拳銃の出所について自身に罪の及ばないように口裏合わせを望んでいたのだった。
アーサーはランドルを殺害、怯えるゲイリーに優しく接してくれたことへの感謝を述べ、外へ帰す。 恋人にも家族にも憧れの人にも全てのものから裏切られたアーサーだが、彼は残された唯一の繋がりを自ら絶ち切っている。
ちなみにコミックス版でのジョーカーの最初の相棒は小男であり、ゲイリーもまたそれをオマージュしたキャラクターになっている。
「僕を『ジョーカー』として紹介してくれ」スタジオ入りしたアーサーはマレーにそう依頼する。
そして、本番中に自殺しようと考える。「この人生以上に硬貨な死を望む」そのジョークをジョーカーとして自ら体現しようとしたのだ。
アーサーは本番で地下鉄で三人を射殺したことを告白する。だが、それに対する観客の反応はブーイングだった。
世間ではその事件をきっかけにデモや暴動が起きていた。自分の行いが少しは理解されると思っていたアーサーは落胆し、心の奥の思いをぶつける。
「なぜ彼らに同情する?道で僕が死んでいても踏みつけるだろう?みんな僕なんて気にもしない。あの3人はトーマス・ウェインが悲しんでくれた」「ウェインみたいな奴に僕の気持ちがわかるか?」
だが、その思いもことごとくマレーは否定していく。
「君は自分を憐れんで殺人の正当化をしているだけだ。」
激昂したアーサーは「心を病んだ孤独な男を欺くとどうなるか、報いを受けろ、クソ野郎!」と言い放ちマレーを射殺する。本来は自分に向けるはずだった拳銃で。
「おやすみ、これが人生!(ザッツ・ライフ)」マーレイの決め台詞を言いかけたところで放送は中断される。
匿名と虚構の世界
ホアキン・フェニックスはアーサーのそのやり方には共感できないが、アーサーの痛みは理解できるという。
マレーを射殺したアーサーは逮捕されパトカーに乗せられる。移送中のアーサーがみたゴッサムの街は暴動によって無法地帯と化していた。
やがてアーサーを乗せたパトカーも襲撃され、気絶したアーサーは車内から引きずり出される。目覚めたアーサーが目にしたものはまるでキリストの復活のように自身を称える無数のピエロマスクの群衆の姿だった。立ち上がった彼は口内の血でジョーカーのメイクをする。
ここでアーサーは完全にジョーカーとして覚醒したように見えるが、彼を取り囲んでいるのは誰もがマスク姿の匿名の世界でもある。その中には冒頭でアーサーを襲った不良達もいるだろう。群衆同様、アーサーも「ジョーカー」という虚構でなければ存在できないのだ。
アーサーは自分が関わる社会からことごとく拒絶され裏切られているが、アーサーもまた、自分自身と関わるものをことごとく絶ち切ってきている。
『ジョーカー』の衝撃の正体
『ジョーカー』を観ると私たち自身の中にもアーサーへ共感する部分があることに気づく。誰もが社会の中で生きている。生まれた時代や国は選べない。変えようのない理不尽さに社会を憎むこともあるだろう。
『ジョーカー』にカタルシスを感じてしまうのはアーサー・フレックは私たちの一部だからだ。そしてその直後に気づく。「私はジョーカーのような『悪』を礼賛してしまったのか?」と。知らずのうちにモラルをひとつ剥ぎ取られたような感覚になるだろう。それが『ジョーカー』が人々に与えた衝撃の正体かもしれない。だが、ほとんどの人は『ジョーカー』は虚構だから成り立つということはわかっている。
残念なことに現実でジョーカーを模倣した犯罪が起きてしまった(犯人は『ダークナイト』のジョーカーのコスプレだったが)が映画とは違い、ほとんど犯人への共感の声はなかった。それが映画と現実の違いだろう。アーサーもこの犯人も何も守るものがないという、いわゆる「無敵の人」という共通点はあるが。
『ダークナイト』との違い
2008年に公開された『ダークナイト』もまた今作同様、時代を撃ち抜いた映画だった。しかしながら『ダークナイト』に描かれるジョーカーは今作のジョーカーとは真逆に近い。
その10年間でアメリカはどう変わっていったのか、2つの「バットマン映画」から見てみよう。
『ダークナイト』が描いたのは国家としての弱いアメリカだ。
911をきっかけに世界の警察としてテロとの戦いや民主化を建前にアフガニスタンやイラクに戦争を仕掛けたアメリカだったが、それは結果として終わらないテロとの戦いを誘発しただけだった。
当初の開戦理由だった中東の民主化は実現せずに、2020年にはアフガニスタンで再びタリバンが実権を握るようになっている。
『ダークナイト』の公開は2008年だが、その時点でアメリカ国民の国家への信頼には疑念が生まれていた。『ダークナイト』はそんなアメリカの姿がバットマンに重ねられている。
バットマンは日夜自警活動として悪人を成敗している。それが治安の悪化したゴッサムを救う手段だと信じているからだ。だが、そんなバットマンの目の前に現れたのがジョーカーだ。ジョーカーは世界を支配するだとか、金持ちなるだとか、世俗的な目的は何もない。ジョーカーの理由なき犯罪はゴッサムに無秩序をもたらす。バットマンの信念を揺るがすことがジョーカーの楽しみのひとつなのだ。バットマンはそこで、自分自身が存在するからジョーカーもまた存在するという矛盾に直面する。アメリカの中東での戦争がイスラム過激派を生んだように。
『ダークナイト』のバットマンはアメリカの化身だ。強さを求めて悪を挫く、だが、実際はその正義のために数えきれない無秩序と犠牲を生み出し続けている。これはアメリカ国外だけに対してではない。世界一の経済大国である一方でその格差は拡大を続けている。
『ダークナイト』は国家としてのアメリカを描いたが、『ジョーカー』はアメリカの中の個人を描いている。
自由と平等を標榜しながら、差別や格差の問題も未だに根深いアメリカの社会。そこで生きる人々の閉塞感や絶望が『ジョーカー』には投影されている。
信頼できない語り部
エンディングで、アーサーは精神病院にいる。そこはかつてアーサーが収監されていた場所だ。
カウンセラーから「なぜ笑っているの?」と聞かれたアーサーは「新しいジョークを思い付いた」と返す。
『ジョーカー』の劇中に登場する時計はどれもが11時10分を指している。 このことは『ジョーカー』で描かれる物語そのものがアーサーの空想であるかもしれないことを示唆している。
果たして『ジョーカー』で描かれるアーサーがジョーカーへ変貌するこの物語そのものがアーサーが思い付いたジョークだったのか、それとも両親を暴徒に殺された幼いブルース・ウェインの将来を想像したのか、それはわからない。
トッド・フィリップスは1982年の映画『キング・オブ・コメディ』も『ジョーカー』のストーリーの下敷きにしている。誇大妄想狂の売れないコメディアンという設定はアーサーと似通った部分がある。また、主人公の狂気が最終的に大衆に受け入れられるという点もそうだろう。
『キング・オブ・コメディ』では売れないコメディアンであるルパート・パプキンが妄想を悪化させ、人気コメディアンを誘拐、番組を乗っ取ってしまう。だが、番組は大成功。逮捕されたルパートも出版した自伝がヒットし、本当にコメディの王(キング・オブ・コメディ)として成功するという物語だ。
だが、『キング・オブ・コメディ』ではこの結末自体も現実か空想という論争があり、監督のマーティン・スコセッシもそれについては明言を避けている。だとすれば『ジョーカー』の物語自体がアーサーの空想だという説も十分に成り立つ。
カウンセラーはアーサーにジョークの内容を聞かせてと言うが、 「あんたには理解できないさ」そう言って、フランク・シナトラの『ザッツ・ライフ』を口ずさむ。
「これが人生/冗談みたいだけれど/夢を踏みつけて小躍りする人もいる/だけどくじけたりしない/この古き良き世界は・・・」
トッド・フィリップスは『ジョーカー』についてこう語っている。
「映画の始まる時点ではアーサーは有名な犯罪者ではなく、アスファルトに咲いた小さな花。その花にあなたは水をあげるのか、光を当ててあげるのか、それとも無視するのか。どれくらいの間、その花を好きでいられるのか。」