『THE BATMAN-ザ・バットマン-』正義と悪の連鎖

※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています


『バットマン』はエンターテイメントを根底にしつつも、時に現実社会の問題を巧みに作品の中に取り入れてきた。
映画でいうならば『ダークナイト』や『ジョーカー』がそうだろう。
いずれも高い人気を得て、『ジョーカー』はアメコミ映画として初めてヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、『ダークナイト』は「ダークナイト・シンドローム」という言葉が生まれるほどの社会現象になった。

『THE BATMAN-ザ・バットマン-』

さて、今回公開された『THE BATMAN-ザ・バットマン-』、予告編は「『ジョーカー』の衝撃は序章に過ぎなかった」とのナレーションから始まるが、果たして今回のバットマンは何を映しているのだろうか。
『THE BATMAN-ザ・バットマン-』は2022年に公開されたマット・リーヴス監督、ロバート・パティンソン主演のスーパーヒーロー映画だ。舞台のゴッサム・シティは治安の悪化と汚職が蔓延る堕落した街に設定されている。それ自体は今までのバットマン映画と何ら変わりないが、今作はほとんどの場面で雨が降っており、フィルム・ノワールの雰囲気が色濃い。おそらく最もダークなバットマン映画だと言えるだろう。

「混沌には悪が潜む」バットマンはそうゴッサムの街を表す。
今作のヴィランはリドラーだが、街にも多くのストリート・ギャングがひしめいている。彼らのメイクが『ダークナイト』のジョーカーと瓜二つなことに気付く。『THE BATMAN-ザ・バットマン-』においてはこのジョーカーペイントは「悪に染まった」という分かりやすい記号だ。
しかしこれはただのパロディなのか、それとも『ダークナイト』のジョーカーすらも超えようとするマット・リーヴスのメッセージなのだろうか。

今作のバットマンは自らを「復讐」だと紹介する。それは街の大富豪であった両親を何者かに殺された自分の過去への復讐だ。『THE BATMAN-ザ・バットマン-』で描かれるブルース・ウェインは過去シリーズのようなプレイボーイではなく、隠遁者のような生活を送り、ほとんど人前に姿を表さない。

ブルース・ウェインの新解釈

監督のマット・リーヴスは『THE BATMAN-ザ・バットマン-』の設定をブルースがバットマンになってまだ間もない頃とした。そのために今作のバットマンは「不安定な状態」なのだという。
ブルースウェインを演じたロバート・パティンソンはそのキャラクターについてこう説明している。
「ブルースは自分を犠牲にすることが正しいと信じているからこそ、あれほど孤独に生きられるのだと思う。それはつまり、両親を守れなかったことを償うためだ」
マットはブルース・ウェインのキャラクターを創造する際にカート・コバーンを参考にしたという。
カート・コバーンはニルヴァーナのボーカリストで、1994年に27歳の若さで自殺している。カートは両親の離婚によって心に大きな傷を負い、幼い頃から鬱病に苦しんでいたという。そんなカートにとっての救いはパンク・ロックだった。
今作のブルース・ウェインは両親の死が深いトラウマになっている。
マット・リーヴスはブルースにとってバットマンになることは中毒と同じだと述べている。カートにとってのロックがそうだったように。

『Something In The Way』

マットは予告編や本編中にもニルヴァーナの『Something In The Way』を使用している。本作の脚本もこの曲を流しながら書いていたという。
『Something In The Way』はカート自身がもしホームレスになったらという目線から書かれた曲だ。歌詞の内容を以下に紹介する。(※和訳はユニバーサル・ミュージックから引用)

橋の下、防水シートが水漏れしてきた/俺が罠にかけた動物たちはみんな俺のペットになった
草と天井から垂れてくる水で俺は生き繋いでいる/魚を食うのは問題ない/魚には感情がないからだ
何かが邪魔をしている/ 何かが行く手を塞いでいる

歌詞の内容はゴッサムをシティでの過酷な暮らしを連想させるようでもあり、自己中心的な正義を揶揄しているようにも受け取れる。
感情を持たなければ殺していいのか?懸命に生きている植物の命には価値はないのか?自分の主観で命の線引きを行うことは自己中心的な正義の最たるものだろう。
「魚を食うのは問題ない/魚には感情がないからだ」この歌詞はリドラーにもバットマンにも当てはまる。

二人の異常者

リドラーを演じたポール・ダノはリドラーとバットマンについて、この両者は驚くほど似ていると語っている。
リドラーにはリドラーの正義があり、バットマンにはバットマンの正義がある。だが、バットマンとリドラーどちらも正義のためならば法を無視する。ゴッサムの住民にしてみれば夜な夜なコスプレして自警行動をしている男は十分に異常者だ。
バットマンも狂人であることは『ダークナイト』においてもジョーカーのセリフにも表れている。

「お前はバケモノだ。俺と同じさ。 今は必要でも不要になったらたちまち世間のつまはじき者」「世間のモラルや倫理は善人のたわ言だ」

それは現実社会におけるスーパーヒーローはどういう存在であるかということだ。
社会から弾かれているという意味でもバットマンはリドラーと何ら変わらない。

リドラーのキャラクターには実在の連続殺人犯であるゾディアックからも着想を得たという。
ゾディアック事件は今なお未解決のアメリカで最も有名な事件のひとつだ。
ゾディアックもまた複雑な暗号文を送り付け、殺人をゲームとして楽しんでいた。ゾディアックについてはデヴィッド・フィンチャーが2007年に『ゾディアック』という映画にしている。

ゴッサム・シティの腐敗

今作の『THE BATMAN-ザ・バットマン-』はいわゆる探偵ものの要素が強い。正体のわからない連続殺人犯のリドラーをバットマンとゴードン警部補が追いかけていくのだが、リドラーは犯行のヒントをナゾナゾで小出しにしていく。ゴードンを演じたジェフリー・ライトはリドリーのおかけで『バットマン』を本来の形に戻すことができたという。DCコミックスのDCとは、「Detective Comics」つまり、探偵漫画ということだ。

リドラーによって政治家・裁判所・警察まで絡んだゴッサムの腐敗の構造が明らかになってくる。その腐敗の構造に父のトーマス・ウェインも関係していたことで、父のためにと信じていたブルースの「復讐」の意義が大きく揺らいでいく。トーマス・ウェインは過ちを犯し、マフィアに殺され、トーマスの残した基金はマフィアや汚職警官などが貪った。

ついに街の不正に関与した最後の一人で犯罪王のカーマイン・ファルコーネがリドラー自身の手によって射殺される。狙撃地点からリドラーの部屋が割り出され、近くのカフェへ逃げていたリドラーは大人しく逮捕される。リドラーと面会した仮面によって真の自分になれる。リドラーの素顔は孤児として育った会計士の男だった。ブルースも同じ孤児ではあったが、ゴッサムの大富豪の息子と、そうでない者では育ってきた環境に天地ほどの差がある。リドラーをその環境に突き落としたのはゴッサムの汚職と不正だった。

リドラーにはまだ果たされていない計画があった。バットマンはリドラーが残した動画のパスワードを見つけ出し、リドラーの最終計画を知る。
それは防波堤を爆破させ、洪水を起こし、市長選挙会場に避難した人々の前で次期市長候補を暗殺させるというものだった。
その中でリドラーはフォロワーに爆破の方法を教えてもらった感謝を述べる。そして、最後の暗殺はリドラーのフォロワー達の手に委ねられている。

社会が作り出すダークヒーロー

リドラーが社会の中で生まれ、社会の後押しによってダークヒーローとして祭り上げられていくこのあたりは『ジョーカー』との繋がりも感じる。ただ、冒頭で紹介した「ジョーカー』の衝撃は序章に過ぎなかった」は無理がある。『ジョーカー』はアーサー・フレックという男がいかにしてジョーカーへ変貌していったのかをテーマにしたのに対して、『THE BATMAN-ザ・バットマン-』は謎解きや犯人を追うことに焦点を当てている。そのために深いテーマがあったとしてもそれを十分に提示できているとは言い難い。その分、エンターテイメントという意味では成功しているが、『ジョーカー』の持つ迫力には残念ながら及んではいないのが正直な感想だ。

リドラーの計画通りに洪水はゴッサムを飲み込み、人々は選挙会場に殺到する。新人の市長候補のベラ・リアルはゴードンの制止も聞かず群衆の前に姿を見せるが、リドラーのフォロワーのテロリストに銃撃される。
会場に着いたバットマンはテロリスト達と対峙するが、逆に追い詰められ絶体絶命の事態に陥る。キャットウーマンの助けで九死に一生を得たバットマンだが、次はキャットウーマンがテロリストに襲われる。
バットマンはテロリストを倒し、その名を問う。「お前は誰だ?」男はこう答える。「俺は『復讐』だ」
ブルースは自身の復讐という正義は歪んだ形で社会に影響を与えてしまったことを知る。

殺された両親の復讐として悪を倒すことがブルースの正義だった。だが、テロリストにとっては悪に染まった権力者を倒すことこそが正義だった。
それに気付いたブルースはバットマンとして逃げ遅れた人々を助ける。
水の溢れる中を救助者を率いて進むバットマンの姿は海を割り進んだモーセの姿が重なる。ブルースの正義は博愛へ進化したのか。その後のテレビニュースで救助活動に勤しむバットマンの姿が移される。
ただ復讐からは何も生まないというのは、これほどダークな作品ににしては優等生すぎるメッセージだと感じた。

復讐の連鎖

『THE BATMAN-ザ・バットマン-』が示したメッセージは連鎖だ。劇中で母親の仇で父でもあるカーマイン・ファルコーネの殺害を決意したキャット・ウーマンに対してバットマンは「選択には結果が伴う」と諌める。人を殺めたら自分もまた犯罪者と同じになってしまう。
だが、その言葉は形を変えてバットマン(ブルース・ウェイン)自身にも返ってくる。

ブルースがとった復讐という行動は新しい復讐の連鎖を生んだ。
バットマンは別名ダークナイトとも呼ばれる。夜に紛れて動く、闇の騎士だ。だが、テレビに映し出されたのは朝焼けの中で人々に手を貸すバットマンの姿だ。
「復讐では過去は変えられない」。ブルースはこう独白する。
だが、ゴッサム・シティだけでなく、現実社会においても今なお正義の仮面を被った復讐の連鎖は続いている。それは国同士のものであったり、個人のレベルでもそうだ。SNSでの誹謗中傷の応酬もそれ自体を正義だと信じているからこそ行えるのだろう。

「復讐では過去は変えられない」このブルースの独白はこう続く「希望が必要だ」。
『THE BATMAN-ザ・バットマン-』は本作を含めて三部作として企画されているという。果たして希望はゴッサムにどう広がっていくのだろうか。

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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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