『しん次元! クレヨンしんちゃん THE MOVIE 超能力大決戦 〜とべとべ手巻き寿司〜』裏切られた「オトナ帝国」の未来

※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています


数か月前に『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』(以下『オトナ帝国』)の解説を書いた。
『オトナ帝国』が映画版『クレヨンしんちゃん』の最高傑作であることは多くの人が認めるだろう。
かくいう私もその一人だ。
今観るとノスタルジーに囚われてしまう大人たちの気持ちがよくわかる。そして何より、平凡なサラリーマンのひろしの歩んできた、地味でもあたたかい人生の物語に泣けてしまう。そう、誰しも子供の頃にはきらびやかな夢を描く。町を歩く背広姿の疲れたサラリーマンにはならないと思うものだ。だが、時は経ち、自分もその一員になってしまったことに気がつく。それでも誰の人生もかけがえのない人生なのだ。ノスタルジーに囚われていたひろしはしんのすけの差し出した自身の靴の臭いで大人に戻る。そして希望を信じて21世紀へ進む決意をするのだ。
だが、果たしてその21世紀は希望に溢れた時代だったのか。

あなたたちが思っているほどいい時代にはなっていない

『オトナ帝国』が公開されたのは、21世紀になったばかりの2001年だ。
2001年当時は子供の貧困が社会問題になることはなかった。底辺という言葉はこれほど一般的ではなかった。30歳を超えてフリーターでいることは異常と捉えられていた。
格差社会と言う言葉もなかったのではないか?

正直に言おう。『オトナ帝国』は確かにいい映画だ。それはいまでも色褪せない。だが、21世紀に希望を持って進もうとする野原一家の姿が空しく見える瞬間もあるのだ。
「すみませんが、今もまだ21世紀はあなたたちが思っているほどいい時代にはなっていないですよ」
そう言いたくもなる。いや、本音を言えば「更に悪くなってる」が本当かもしれない。

『しん次元! クレヨンしんちゃん THE MOVIE 超能力大決戦 〜とべとべ手巻き寿司〜』

今回紹介する『しん次元! クレヨンしんちゃん THE MOVIE 超能力大決戦 〜とべとべ手巻き寿司〜』(以下『超能力大決戦』)は『クレヨンしんちゃん』劇場版第作目の映画だ。監督・脚本は『モテキ』などの大根仁が務めている。
2014年に公開された山崎貴監督の『STAND BY ME ドラえもん』など、3DCGで定番のアニメがリメイクされることも増えてきた。『クレヨンしんちゃん』の絵柄などは絶対にCGに馴染みが悪いと思っていたが、それよりもカメラワークやアングルの方がCGになってから断然迫力を増している。
いわば漫画を基準に動きが考えられていたものが、アクション映画の基準に変わったようなものだ。
特にカンタムロボと敵のバトルシーンは一見の価値がある。やはりロボットはCGとの相性がバツグンに良い。『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』でも感じたことだが、CGアニメであればもうほとんど海外にも遜色ない映画は作れるのではないかと思う。

だが、今回の『超能力大決戦』の中身に関しては手放しで賞賛できるものではない。
前述のように『オトナ帝国』には20世紀へのノスタルジーと21世紀への希望と不安が色濃く反映されていた。『クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん』には家庭の中で失われつつある父親の威厳がテーマになっていた。今作『超能力大決戦』においては、格差社会や若者の貧困、孤独などが挙げられるだろう。

本作で敵となるのは派遣社員の非理谷充だ。非理谷充は友人も恋人も家族も金もなく、ただ自身の報われない境遇を恨みながら生活している。そんな彼の唯一の生き甲斐はアイドルのだった。しかし、非理谷はサラリーマンから因縁をかけられ、更には強盗事件の犯人と間違われて警察にも追われる。

非理谷の状況はそのまま『ジョーカー』に通じる。『ジョーカー』のアーサー・フレックもまた貧しさと孤独の中でも懸命に生きようとするが、人々は彼を理由なく殴り付け、痛めつけていく。
『ジョーカー』ではアーサーは拳銃という「力」を手にしたことで徐々にジョーカーとして覚醒していく。一方、『超能力大決戦』の非理谷は、闇の光を受けて超能力と悪の心に目覚めてしまう。

個人か、時代か?

非理谷は街中で爆発事件を起こしたり、ふたば幼稚園で立てこもり事件を起こすなど、「無敵の人」として振る舞う。
映画は野原しんのすけ一家と非理谷の戦いになるわけだが、非理谷の境遇として、彼の過去がクローズアップされる。
親からの愛情を十分に得られなかった幼少期、いじめられていた少年期、両親の離婚に直面した青年期。
そう、この映画からは「時代」がすっぽり抜け落ちているのだ。大人になった非理谷の現状を作ったものが、すべて彼の家庭と環境にあったと結論付けている。
だからこそ、ひろしもみさえもしんのすけも戦いに破れ、自我を取り戻した非理谷に「がんばれ!」と声をかけてしまう。
だが、今の格差社会を作り上げたのはそういった「自己責任論」ではないのか?
2001年に発足した小泉政権下では最初のわずか3年で非正規雇用は27.1%から41.5%へ増加した。また小泉政権下では生活保護費や児童扶養手当が削減された。

非理谷は果たして頑張っていなかったのか?非理谷の今を作り出したのは非理谷個人の責任なのか?

一応、序盤でひろしは殴られた非理谷に優しく声をかけるのだが、非理谷はその手を拒絶するというシーンがある。
「周囲からの助けを拒んだ非理谷の責任」と言えなくはないのだが、それほどまでに非理谷の心を閉ざさせたものは何かと問いたくもなる。
ひろしやみさえの若い頃(ここでは『クレヨンしんちゃん』が連載スタートした時から逆算して1980年代中盤としよう)と比べた場合、国民負担率はおおよそ33%だったものが、いまでは48%まで上昇している。もちろん国民負担率は収入でも変わってくるので、非理谷が収入の48%も負担しているわけはないのだが、昔と今で時代が違うことの一つの証明にはなるだろう。

「がんばれ」の残酷さ

自我を取り戻した非理谷は自らの犯罪行為を覚えていなかった。ひろし達はそんな非理谷を「手巻き寿司を食べないか」と誘う。
作品は一旦そこで終わりを迎えるが、顔写真と実名付きで報道された非理谷を待っているものは逮捕と刑務所しかない。
何度も繰り返しになるが、そんな非理谷に「がんばれ」と言うのはあまりに無責任ではないか?

もう『オトナ帝国』でしんのすけやひろし達が希望を抱いた21世紀は実現していない。失われた10年はいつしか20年になり、今は30年とすら言われている。
だが、『オトナ帝国』ではそんな未来にも皆で協力して立ち向かおうとしたはずだ。少なくとも「個人個人それぞれが頑張る」というものではなかった。
そもそも家族や仲間と協力して勝利を掴むのが劇場版『クレヨンしんちゃん』に共通するテーマであるはずだ。

『超能力大作戦』には原作がある。単行本の26巻に収録されていると『しんのすけ・ひまわりのエスパー兄妹』いう話がそうだ。だが、本作では犯人は法的な咎めは受けない上に、自分で「また仕事を探して人生をやり直す」と宣言する強さも持ち合わせている。『超能力大決戦』の非理谷が頼りなく弱々しいのとは真逆だ。

実は個人的に今まで『クレヨンしんちゃん』を映画館で観たことはなかった。子供達の笑い声が時折聞こえる中、どうしても「がんばれ」というメッセージが皮肉のように聞こえた。

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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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