『フロントランナー』ゲイリー・ハートのスキャンダルから有権者は何を見るべきか?

今の時代は清廉さが求められる。不倫や失言一つでその人が今まで積み上げてきた何もかもが吹き飛んでしまう。
タレントはおろか、政治家ですらそうだ。タレントはもちろんイメージは大事だろう。政治家にとってもイメージの良し悪しは無視できないだろうが、政治家にとって本当に大切なのはイメージではないはずだ。
有権者である我々にとっても政治家を判断とするときにイメージや表面的な事柄で判断するのは賢い選択ではない。
だが、現実は決してそうではない。

判断の現実

2001年に発足した小泉政権下では最初のわずか3年で非正規雇用は27.1%から41.5%へ増加した。また小泉政権下では生活保護費や児童扶養手当が削減された。だが、彼の退任時の支持率は43.2%、不支持は37.5%と依然として人気を保っていた。
2008年に発足した麻生政権では、退任時の支持率は13.4%、不支持は72.7%と自民党政権の存続すらも危ぶまれる数字になっている(実際に2009年の解散総選挙では政権を民主党に奪われることになる)。もちろんその背景には相次ぐ大臣の辞任や自民党への国民の不信感があったのだが、メディアはことさらに麻生太郎の庶民感覚の欠如や読み間違い、失言を執拗に報道した。大臣の辞任にしても政治的不手際もあったが、失言で辞任した議員も少なくなかった。麻生内閣時にリーマンショックが起き、そのために解散総選挙が一時棚上げされたことすらも支持率の低下を招いた。未曽有の経済危機の時に政治的空白を生むことの方がよっぽど恐ろしいと思うのだが!

個人的に言えば、国民生活がよくなるのであれば、漢字を知らなかろうが、カップ麺の値段を知らなかろうが、どうでもいいことだ。
不倫にしてもそうだ。確かにアンモラルな行為であり、れっきとした不貞行為だ。だが、その処罰を下すのは世間ではないのではないか?あくまで公と私であれば私的な、プライベートに属する事柄だ。
今やその部分までスキャンダルとして国民の前に晒されるが、私たちが公人の「私」の部分にまで立ち入ることは許されることなのだろうか?
あくまで、政治家は政策と実行力とその結果によって判断されるべきだとは思うのだが、残念なことに今はプライベートにまで落ち度がないクリーンさを求められ、逆に政策そのものは二の次のようだ。

大統領に最も近い男

果たしていつからそのような風潮になったのか。その潮目となる出来事が描かれているのが2018年に公開された映画『フロントランナー』だ。
この作品は1988年の大統領選挙で最有力候補だったゲイリー・ハートを主役にしている。
共和党の大統領であるドナルド・レーガンは大統領を二期務めた後に、後継にジョージ・H・W・ブッシュを指名して大統領を辞任する。
しかし、当時同じ政党からの大統領が三期連続で選ばれたことはなかった。次は民主党からの候補者が大統領になるだろうと誰もが思っていたのだ。この時民主党の最優秀候補(フロントランナー)だったのが、ゲイリー・ハートだ。

レーガンは大統領就任時の年齢が69歳と史上3番目の高齢だったのだが、退任時の年齢が77才というのは文句無く史上最高齢であった(おそらく今後はバイデンが記録保持者になるだろうが)。
ハートと大統領の座を争った共和党のジョージ・H・W・ブッシュも当時65歳と高齢だった。対してゲイリー・ハートは当時46歳。若きリーダーは「ジョン・F・ケネディの再来」とも呼ばれ、その先駆的な政策と若さで爆発的な人気を集めた。

例えば映画の冒頭、ハートはジョージタウン大学で学生を前に演説をしている。
「レーガンは都市を荒廃させ、大量の核弾頭を購入している。学校・図書館・各家庭にPCを買えるのに。」
ハートはスティーブ・ジョブズがまだガレージで仕事をしていた時代に彼に会いに行き、1981年には各学校にコンピューターを配布することを呼び掛けた。未来のアメリカの産業が製造業からITにシフトすることを予見していたのだろう。またハートは1983年の時点でアメリカの石油政策が中東問題や戦争に発展すると予想しており、1984年にはソ連の崩壊を見越してゴルバチョフとも冷戦後の世界情勢について話し合っていたという。政治的には実に先見の明に長けていたと言える。

順調に見えたハートの大統領選だが、マイアミ・ヘラルド紙の一つの報道によってその前途は大きく狂いだす。選挙運動中にハートが若い女性を自宅に連れ込んだと報じたのだ。
ハート以前はこのような不倫スキャンダルがあってもメディアがそれのみを大々的に取り上げることはなかった。
「書かれてはならない記事だったのに、止められなかった。」ハートはそう妻に電話する。この言葉がハートの私的なスキャンダルに対する認識と、その後の暗雲を暗示させている。
ハート自身はすぐに騒ぎは沈静化するだろうと思っていた。「人は下らんゴシップなど気にしない。噂話なんかより神聖な選挙の方が重要だ!」
だが、そうはならない。ゴシップは選挙と地続きだった。若きリーダーのスキャンダル。マスコミは執拗にハートとその家族らを追いかけ、騒ぎ立てた。

実際に、ハートの不倫相手であったドナはスキャンダルのもう1人の主役としてマスコミの好餌となり、弁明の機会も得られず、愛人に典型的な「尻軽な女」という露骨なイメージが垂れ流された。
『フロントランナー』の公開に際して、彼女はこう述べている。
「30年前には与えられなかった声がここで与えられたと思いました。ライトマン監督に感謝します。わたしのキャラクターを、思いやりと尊厳を持って描いてくれました」

メディアは公人のプライベートに踏み込み、私人を電波に乗せて公共の前へ引きずり出した。これのどこが正義なのか?
「なぜハートを憎むんだ?」ワシントン・ポストの記者のA・J・パーカーは同僚の女性記者であるアンに訪ねる。
「憎んでなどいない、信用できないだけよ、彼は奥さんの信用もない。女性蔑視の男よ。」彼女は映画の冒頭からハートのスキャンダル探しに執心している。
「冗談だろ?彼は”女大好き”なだけさ、それも過度にね。」
「女を利用している。」
「ひどいな、彼は頭がよく、ハンサムだ。」
「そのうえ権力があり輝く未来がある(He is a man with power and opportunity)。それには責任が伴う。そこらの遊び人なら”イヤ”な奴で済むけれど、次期大統領は違う。記者として心配すべきでは?」
ここでアンがいうmanは人間と男のダブルミーニングになっている。

結果としてハートはわずか三週間で大統領選挙戦からの離脱を余儀なくされる。

政治家とスキャンダル

政治家の不倫スキャンダルで言えば有名なのはジョン・F・ケネディとマリリン・モンローの関係だろうが、他にも不倫や貞節を破った大統領は数多くいる。

第3代大統領だったトーマス・ジェファソン。彼は現代においても常に偉大な大統領の一人と評価されているが、彼自身が所有していた奴隷の一人サリー・ヘミングスとの間に隠し子がいた。
その後もアンドリュー・ジャクソン、ジェームズ・ガーフィールド、ウォーレン・ハーディング、フランクリン・ルーズベルト、ドワイト・D・アイゼンハワーなど愛人の存在が明らかになっている大統領は枚挙に暇がない。
『フロントランナー』の中でワシントン・ポストの記者も大統領の不倫についてこう話す。「ケネディの死後、ジョンソンは記者たちにこう言った。”私のホテルを女たちが訪ねて来るだろうが、ケネディの時と同様目をつぶっててくれ”と」
実際にリンドン・ジョンソンにはアリス・グラスという愛人がいた。それでも大統領のプライベート、私的な部分の醜聞は報じないというのがマスメディアとの紳士協定でもあった。
だが、なぜハートは違うのか?別の記者がこう返す。「時代が違う。」

タイム誌はこの変化について「1960年代に性に関するタブーが崩壊したことで、性的な話題に関して一般的な議論が受け入れられるようになってきた。」と書いている。これを裏付けるようにアメリカの映画界で性的な描写や暴力描写に対して敷かれていた自主規制であるヘイズ・コードが60年代には形骸化している(名目上は1968年まで存続している)。「それと同時に、女性の地位の変化に伴って社会は結婚した男性の不倫には寛容ではなくなった」とタイム誌は続ける。そのような価値観の時代を生きてきた若者が有権者となるのが1980年代ではないか。

ゲイリー・ハートのスキャンダル以降、政治家は政策よりも人柄で評価されるようになる。
代表的な例を挙げよう。2000年の大統領選挙で前述のジョージ・H・W・ブッシュの息子である、ジョージ・W・ブッシュとアル・ゴアが討論をした。
「社会保障って連邦政府の仕事なの?」致命的な無知を晒したブッシュに対立候補だったアル・ゴアは「そうですよ」と小バカにしたような笑みを見せる。
クリントン政権で副大統領を務めてきたアル・ゴアとテキサス州知事だったブッシュの差は明確だったのだが、果たして討論会の勝者はブッシュだった。無知なブッシュの方に国民は親近感を抱き、ため息を連発し無知を軽蔑するようなアル・ゴアに嫌悪感を抱いたからだ。
だが、ブッシュ政権下で財政赤字は拡大した。クリントン政権は財政が黒字の状態で幕を下ろしたが、ブッシュがホワイトハウスを去るとき、財政赤字は1兆2000億ドルにまで悪化していた。また、ブッシュ政権下で本来必要のなかったイラク戦争が断行され、中東情勢の長期的な混乱や終わりの見えないテロとの戦争に突入していったことも忘れてはならない。
それでも弾劾裁判を受けたのはブッシュではなく、クリントンだ。 政治的な理由ではなく、研修生と淫らな行為をしたという理由だった。
劇中で報道番組がハートのスキャンダルにこうナレーションする。「大統領候補たるものは人格も問われる」

石を投げる資格

ただ一方で現在のアメリカではそれもまた過去のものとなりつつあるのかもしれないと思う。2016年のトランプ政権の誕生はそう感じざるを得ない出来事だった。
「アメリカを再び偉大に!」これはトランプの選挙スローガンでもあったが、このキャッチフレーズを使ったのはトランプが初めてではない。ゲイリー・ハートが批判したロナルド・レーガンもまたこのキャッチフレーズで大統領になった。アメリカファーストを標榜し、国際協調路線から自国第一主義に舵を切ったトランプは、人種差別発言やデマなどおよそ一国の大統領にふさわしくない言動を繰り返した。トランプの行ったことの中には政治家として批判を免れないものも少なくないだろう。それを思うとハートのスキャンダルなど遠く霞んでしまうようだ。だが、トランプはそれまでの美辞麗句に幻滅していた国民の心をつかんだ。

ここで浮かび上がるのは、私たち人間の醜さだと思う。人気者を見ると粗探しを、わが身が苦しい時は相手の人格やモラルは問わずに自分を助けてくれそうな人を支持する。
人気者に粗があると自分のことは棚に上げてその人生がどうなろうと徹底的に石を投げつけ、社会的に抹殺するまで終わらない。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」姦通罪で石打ちの刑に処される女についてのキリストの言葉だが、あなたはこの言葉の後でも石を投げるだろうか。

ゲイリー・ハートを演じたヒュー・ジャックマンはこう述べている。
「もし自分が明日手術を受けるとしても、執刀医に”お宅の結婚生活はどうか”なんて決して尋ねないだろう?どうでもいいことだ。自分の命がかかっているのだから、知りたいのは腕のいい執刀医かどうかだけ。しかしなぜかこれが政治家になると、夫婦の仲はどうだとか、どんな犬を飼っているんだ、とかそんなことが気になってしまう。」

created by Rinker
¥2,612 (2024/05/20 11:05:50時点 Amazon調べ-詳細)

 

最新情報をチェックしよう!
NO IMAGE

BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

CTR IMG