『グラン・トリノ』名作に隠されたアメリカン・ドリームとその没落

唐突だが、アメリカン・ドリームと聞いて何を思い浮かべるだろうか?
貧しい移民たちにとって、それは自らの家を持つことであった。

今回はクリント・イーストウッド監督の『グラン・トリノ』を題材にアメリカの栄光と没落を見ていこうと思う。

『グラン・トリノ』の舞台はデトロイト。主人公のウォルター・コワルスキーは一軒家とフォードの愛車「グラン・トリノ」を手離せずに暮らしている。
この二つはコワルスキーにとって自らの栄光を象徴するものだ。

ポーランド移民

コワルスキーはポーランドからの移民だ。アメリカは様々な民族や移民で構成されている。ネイティブ・アメリカンを除けばそのルーツは全て移民からだと言っていい。

最初にアメリカに渡ってきたのは、イギリス国教徒たちであり、彼らのアメリカへの移住は1600年代初頭にまで遡る。次に1620年代にピューリタンがニューイングランドに入植する。

ポーランドからの移民は1830年代から始まったと言われているが、20世紀になってその数は爆発的に増えた。ポーランド独立運動から20世紀を通してポーランドは政情的に不安定でもあったからだ。
1830年のポーランド移民のきっかけはポーランド独立運動が背景にあるが、その後もポーランドは不安定であり続けたため、ポーランドの貧しい農民は祖国を捨て新天地に希望を託すものも少なくなかった。
しかし、保守的なアメリカ人にとって東欧からの移民は脅威でもあった。東欧からの移民にはユダヤ人が多く、かつ、ロシアにも近いため、共産主義へ共感する者も少なくなかったからだ。
中でも移民制限論者は東欧の人間は生物学的に劣っているとすら主張した。彼らは移民に対して識字テストを設け、移民数を制限しようとするが、それでもアメリカへの流入は止まらなかった。このような状況ではアメリカでポーランド人の移民は「英語の話せない白人」と呼ばれ、差別の対象になったのも無理はない。『グラン・トリノ』の中にもコワルスキーが「フーリッシュ・ポーリッシュ」と呼ばれ、ポーランドの出自をからかわれるシーンが存在する。

フォード社

一方で、コワルスキーは人並みに成功もしている。冒頭にアメリカン・ドリームとは家を買うことだと書いたが、コワルスキーがそれを成し得たのはフォード社の存在がある。
フォードは、1903年にヘンリー・フォードが設立した自動車会社だ。
マーケティングをかじったことのある人ならフォードの生産方式は目にしたことがあるかもしれない。フォードは熟練工をできるだけ省き、作業を単純労働に分けた。誰でもできる作業を流れ作業で行えるようにしたことでフォードの生産台数は飛躍的に伸び、アメリカの自動車の半数はフォードとなった。また会社の利益をできるだけ従業員に還元するようにしたことも画期的なことだった。
フォードがその生産法式にしたのが1910年代。この頃のフォードは「フォードに勤めれば家が建てられる」と言われるほどの会社だった。もちろん単純作業だけでは却ってその業務は辛いものになる。それを証明するかのようにフォードは離職率も高かったが、高賃金によってそれを上回る求職者を獲得し続けていた。

コワルスキーもその恩恵を受けたひとりだろう。

コワルスキーは熱烈な愛国者だ。彼の家には常に国旗が掲げられている。彼の愛国心の根底はその差別ゆえに誰よりもアメリカ人になろうとしたのか、アメリカ・ドリームを実現できたアメリカへの愛情が入り交じったものに違いない。
コワルスキーが朝鮮戦争に志願したのもよく分かる。愛国者でありながら被差別者だった彼はアメリカに献身的に仕えることで周囲からの見方を変えようとしたのではないか。
しかし、朝鮮戦争はコワルスキーに新たな傷を植え付けてしまう。

「”人を殺してどう感じるか?”この世で最悪の気分だ。それで勲章など、もっと悪い」

コワルスキーは自らの戦争を指してこう言う。戦争とは男らしい行為でも何かを証明する行為でもない。オリバー・ストーンの映画『7月4日に生まれて』では男らしさや愛国者の証明としてベトナムの戦場に赴く若者が描かれるが、彼らを待ち受けていたのは英雄的な活躍ではなく、ゲリラの恐怖におびえながら錯綜する情報の中で無辜の市民を殺さざるを得ない現実だった。そこには彼らを戦場に向かわせた「正義」は存在しなかったのだ。コワルスキーにとっても戦場は何の証明にもならずにただ深い傷を負う結果になった。

80年代のアメリカ

家とフォードのグラン・トリノはコワルスキーの人生の栄光の象徴だ。

しかし家族はそうではない。コワルスキーの長男はおそらくトヨタのセールスマンであり日本車に乗っている。アメリカ人でありながらコワルスキー並みのアメリカへの強烈な執着はない。

これは世代の違いもあるだろう。ロバート・ゼメキス監督の『バック・トゥ・ザ・フューチャー』は85年に公開された作品でマイケル・J・フォックス演じる16歳の高校生マーティが主人公だ。これは『グラン・トリノ』でのコワルスキーの長男とほとんど同世代だ。
戦後まもない頃は日本製は「粗悪品」の代名詞だったが、高度経済成長記を経て、憧れのブランドとして名をあげられるほどメイド・イン・ジャパンの品質は力を持つようになった。
マーティにとって憧れの車はアメリカの車ではなく、トヨタのハイラックスだ。

ロバート・ゼメキスは古き良きアメリカへの愛情を込めて『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を撮っている。物語の舞台は50年代であり、それはゼメキスの思うアメリカの黄金時代でもある。
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』当時の大統領はロナルド・レーガン。彼は1980年の大統領選挙選挙で『アメリカを再び偉大に!』というスローガンを掲げ勝利した。余談ではあるが、レーガンは『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を気に入っており、「映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で述べられているように、我々がこれから行こうとする場所には、道など必要ないのです。」と1986年頭の一般教書演説で述べている。

しかし、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で描かれる80年代は悲惨だ。マーティの住む町は荒れ果てて、彼の家族も典型的な負け組だ。さらにマーティは教師からも「お前は負け犬だ」と言われてしまう。これはロバート・ゼメキスが当時のアメリカに抱いていた思いを代弁したセリフだろう。このアメリカの隆盛と没落はそのままデトロイトにも重なってくる。

1903年にヘンリー・フォードがデトロイトに自動車工場を建設すると、同社の「T型フォード」のヒットとともにデトロイトは全米一の自動車工業都市として発展した。最盛期には180万人もの人口を抱える大都市になっていたが、黒人の居住区が拡大するとともに白人と自動車産業も郊外に移転が進み、デトロイトは衰退していく。それに拍車をかけたのが日本車の台頭だ。
80年代になるとデトロイトにはモーターシティとしてのイメージに加え、「荒廃した街」というイメージも加わる。
ポール・ヴァーホーヴェン監督の『ロボコップ』はそんな、荒廃した未来のデトロイトが舞台だ。そこは犯罪都市となり民間警備会社が治安の維持を保っているが、警察官の殉死や汚職も多い。
実際のデトロイトも犯罪都市として有名だ。『グラン・トリノ』でも街にはギャングが横行し、治安がいいとは言えない。コワルスキーはそれでもデトロイトに住み続ける。

アウトサイダーとの共鳴

『グラン・トリノ』の脚本を務めたニック・シェンク自身もフォードで働いており、当時の家の近所には朝鮮戦争からの退役軍人が住んでいたという。彼らは同じ地域に住むアジアからの移民をバカにしており、ニック・シェンクはそんな実体験から『グラン・トリノ』の物語を着想する。ニック・シェンク自身もモン族と自動車工場で働いていたという。コワルスキーもアジアからの移民を嫌悪しながら生活している。それは「よそ者」が自分のテリトリーに入ってきたというだけの理由ではないだろう。彼らがかつて自分が朝鮮戦争に従軍し殺害したアジア人たちを思い起こさせるからだ。コワルスキーのアジア移民に対する嫌悪感は自らの傷をどうしても刺激してしまう。

だが、そんなコワルスキーのトラウマを再び癒すのもまたアジアからの移民たちに他ならない。コワルスキーはアジアからの移民であるモン族の姉弟と交流を持つ。
アメリカに渡ったモン族はもともとはラオス、タイ、ベトナムの高地に住んでいた山岳地帯の農耕民族だ。彼らはベトナム戦争でアメリカに協力していたことから、共産主義勢力が優勢になってからは反体制分子として報復されることを恐れ、アメリカに逃げてきた人々だ。

コワルスキーとモン族には同じアウトサイダーという背景がある。どちらも祖国に居場所がなく、アメリカへ渡ってきた。中でも差別にも負けず、ギャングにドロップアウトせずにひたむきに生きようとしているスーとタオの姉弟にコワルスキーはかつての自分と同じものを見たかもしれない。

「俺は、甘やかされた、性根の腐った我が子よりも、この人たちともっと共通点がある」
『グラン・トリノ』でついにコワルスキーはこう語る。

クリント・イーストウッドは今作を通して、昔ながらのアメリカが変容していく中でも変わらない気高さを称えている。そこには人種の壁など存在しない。
『グラン・トリノ』はクリント・イーストウッドが次世代に託した希望だ。

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そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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