『リトル・マーメイド』なぜアリエルは『アンダー・ザ・シー』を歌うのか?

※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています


『リトル・マーメイド』

ディズニーのアニメ映画『リトル・マーメイド』は1989年に公開されてから世界中の多くのファンに愛されてきた。
原作となったアンデルセンの『人魚姫』では人魚姫と王子の恋は悲恋で終わるが、『リトル・マーメイド』では人魚は人間として王子と結ばれるハッピーエンドになっている。活発な人魚姫とロマンティックなラブストーリーは多くの女性から共感と憧れを集めただろう。
そんな『リトル・マーメイド』を実写化したのが2023年に公開された『リトル・マーメイド』だ。監督はロブ・マーシャル、主演はハリー・ ベイリーが務めている。

黒いアリエル

だが、『リトル・マーメイド』の映像が公開されると主人公のアリエルの容姿が多くの論争を呼ぶことになった。
アリエルを演じたハリー・ベイリーがアフリカ系アメリカ人だったからだ。
白い肌だったアニメ版のアニエルとは遠いキャスティングに「過度なポリコレ」ではないか?との批判が上がった。Twitterには「#NotMyAriel」というハッシュタグも多く投稿された。
これらの批判に対して監督のロブ・マーシャルは「人種にこだわらず、アリエルとしてふさわしい人物を選んだ」とコメントしている。

私自身、この「黒いアリエル」に思うところがないわけではないが、実際に映画を観ないまま、安易に断じることはできない。そう思って映画館へ足を運んで実写版『リトル・マーメイド』を観賞してきた。

結論から言えば、想像していたほどのポリコレの匂いはしない。黒いアリエルもすぐに慣れることができた。私自身がアニメの『リトル・マーメイド』にほとんど思い入れがないということもあるのだろうが、ロブ・マーシャルの言う「アリエルにふさわしい人物」ということなら、ハリー・ベイリーは容姿を除けばまさに完璧と言える。圧倒的な歌唱力や素晴らしい声質に演技、その全てがアリエルにふさわしいものだった(ルックスもツンとつり上がった形の目は好奇心旺盛で気の強いアリエルとよく似ている)。
また、王子であるエリックが王家の養子で、その養母が黒人である点も無理やりな設定だと批判を浴びたが、母と息子の性格的な差異や、エリックもまたアリエル同様に「閉じ込められている」状態であることを示すためには有効だったと思う。原作となるディズニーのアニメ版『リトル・マーメイド』ではアリエルは王子に一目惚れするが、実写版では同じ境遇に共感したことで王子に一目惚れ惹かれていくという設定だ。つまり、よりキャラクターの人間性が強調されている。

ポリコレ批判は妥当か?

もちろん、ポリコレだという批判も理解できる。
ここではスクリーンからしばし離れて、ポリコレ作品として実写版『リトル・マーメイド』を考察した場合、どうしても「ポリコレではない」とは言い切れないからだ。

アメリカではハリー・ベイリーのアリエルについて肯定的な意見がを超えたそうだ。黒いアリエルは実際にアメリカでは多くの人々に受け入れられているのは事実だ。
たが、2017年に公開された『ゴーストイン・ザ・シェル』では、本来日本人であるはずの主人公をスカーレット・ヨバンソンが演じたことに対して激しい論争が巻き起こった。本来日本人の主人公なら日本人をキャスティングすべきだとの批判の声が上がったのだ(主人公の名前も草薙素子からミラ・キリアンに変更されている)。いわゆるホワイト・ウォッシング(本来非白人であるキャラクターを白人が演じること)ではないかという批判だ。同様の声は『ゴースト・イン・ザ・シェル』と同じく日本の作品をハリウッドで実写化した『ブレット・トレイン』の時にも多く上がった。

「原作通りに」という意味では『リトル・マーメイド』とは全く逆の現象が起きたわけだが、「マイノリティを主役に就ける」という意味では共通している。
そう考えると「多様性」という価値観(それも偏ったもの)が絶対的なものになってはしないかと危惧してしまう。
極端な話になると時代劇に欧米系の人々を登場させないといけないのかということだ。そうではないだろう。

勝手に削除されるレビュー

『リトルマーメイド』では某有名映画サイトにおいて、作品に批判的なレビューが勝手に削除されるという点でもニュースになった。
多様性は強制されるものではない。批判は議論を更に深めるきっかけにもなり得るが、この状態では耳障りのいい感想ばかりの多いレビューになってしまう。それのどこが多様性と言えるのか?
実際には実写版『リトル・マーメイド』の作品そのものよりも、こうした対応が逆に「過度なポリコレ」を印象づけるものになってしまっているように思う。

有色人種の新しいストーリー

2019年に公開された実写版の『アラジン』は日本でも120億円を超える大ヒットになったが、今回のような批判はなかった。中東系の架空の国アグラバーを舞台とする『アラジン』では、エジプトのカイロ出身のメナ・マスードや、イギリス、インド、ウガンダ系をルーツに持つナオミ・スコットなど、有色人種がしっかりキャスティングされていたからだ。それは彼らを起用すべき合理性がある。
他にもディズニーには『ポカホンタス』『ムーラン』『プリンセスと魔法のキス』などの非白人のプリンセスを持つ作品もある。
それらの作品の実写化ではダメだったのか?また有色人種の新しいストーリーを作ってもよかったのではないか?

先にも述べたように、個人的にはハリー・ベイリーのアリエルは受け入れられるが、アニメ版の『リトル・マーメイド』の熱烈なファンは実写版は受け入れがたいのも理解できる。
ハリー・ベイリーのアリエルへの批判では人種差別のような言葉も投稿されたという。これでは「多様性」も本末転倒ではないか。

『リトルマーメイド』に抱く違和感

ハリー・ベイリーとは別に個人的に『リトルマーメイド』に何の違和感も感じなかったわけではない。
それは「人間でいることがそんなに幸せなことなのか?」ということだ。
人種的な多様性(とは言ってもアジア系の俳優はほぼ登場せず、「白人ばかり」という批判を交わすためのキャスティングでしかないところが透けてみえるが)は描いてはいても、所々に人間中心主義が見えてしまうのだ。

例えば今回のディズニー・ヴィランであるアースラだが、下半身がタコになっている。タコは日本人には食材としてメジャーなもので、たこ焼きなどタコがかわいらしいキャラクターとして描かれているものが多いが、アメリカではタコのことをデビルフィッシュ(悪魔の魚)と呼び、食材として扱われていない。そしてアースラの手下は二匹のウツボ。見た目に恐ろしく不気味なものはヴィラン側のキャラクターとなっていることに違和感を感じるのだ。見た目がどうこうはあくまで人間側の主観でしかない。

2017年に公開された『シェイプ・オブ・ウォーター』は半魚人と中年女性の恋を描いた作品だが、半魚人は人間になったりしない。逆に女性が半魚人とともに海で暮らす。
監督のギレルモ・デル・トロは特撮映画や怪獣に造詣が深いことでも知られるが、『シェイプ・オブ・ウォーター』の結末についてこう述べている。
「僕は『美女と野獣』が好きじゃない。『人は外見ではない』というテーマなのに、なぜヒロインは美しい処女で、野獣はハンサムな王子になるんだ? だから僕は半魚人を野獣のままにした。モンスターだからいいんだよ」
そう、肌の色やマイノリティなどの差別は今の社会の多くの問題のうちの一つだが、一つでしかないとも言える。少し目を凝らせば他にも様々な問題が溢れている。
もちろんそれらを全て描き切ることは不可能だが、逆に言えば「黒人系さえ出しておけばとりあえずオッケー」的な思惑も『リトル・マーメイド』には見え隠れしてしまう。

なぜアリエルは『アンダー・ザ・シー』を歌うのか?

それらの思慮の浅さの極地がアリエルが『アンダー・ザ・シー』を歌うことだろう。『アンダー・ザ・シー』はアカデミー歌曲賞を受賞した名曲だが、言ってしまえば「海は最高!人間の暮らす陸の生活は大変でつまらない」という内容の歌だ。それをなぜ人間の世界に憧れるアリエルが歌ってしまうのか。
そういったところに実写版『リトル・マーメイド』の映画としての不誠実さがある。

新しい世代の『リトル・マーメイド』

ハリー・ベイリーのアリエルは受け入れられると言っておきながら、実際には文句ばかりじゃないか。そう思う方もいるだろう。
アニメ版の『リトル・マーメイド』や、近年のポリコレの圧力の強さから実写版『リトル・マーメイド』を観るとどうしてもそうなってしまう。

ディズニー・プリンセスはなぜ世界中の女性を魅了するのか。そこには憧れと共感があるからだ。アリエルの可愛らしさや美しさ、強さに憧れ、アリエルの不自由さや何かに縛られている状況に自らを重ね合わせて共感する。

『リトル・マーメイド』を観賞し終わって劇場を出るときに、『リトル・マーメイド』の大きなボードの前でポーズをとる小さな女の子を見かけた。
確かに過去をみてみると、『リトル・マーメイド』が批判されるのはわかる。だが、未来に目を向ければ、そういった肌の色の違いは「当たり前のこと」として気にならなくもなるのだろう。
あのボードの前でポーズをとっていた女の子にとっては、「アリエルは黒人」なのが当たり前なのだ。
ハリー・ベイリーのアリエルは、今の子供達に新しい憧れを与えたのだと思う。

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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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