※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています
ウルトラマンに「ジャミラ」という怪獣が登場する。
ジャミラは元々は人間の宇宙飛行士だったが、事故に遭い、水のない惑星に不時着した。彼は渇きに耐えながら救助を待っていたが、母国はその事実を隠蔽し、ジャミラを見捨てた。
そしてジャミラは惑星の環境に適応する過程で怪獣化する。復讐のために地球へ戻り、破壊の限りを尽くすのだが、ここでもジャミラが元人間だったことは徹底的に隠されている。
ウルトラマンと対峙したジャミラだが、かつて最も欲し、最も苦手とする水によって殺されてしまう。
異形への愛と共感
映画監督のギレルモ・デル・トロは幼い頃から怪獣映画や日本の特撮映画を観て育ったという。
そこに映し出される怪獣や怪人たちは作品の中では敵ではあったものの、時には人間の被害者となることもあった。
デル・トロはそんな怪獣たちに魅力されていた。2013年に公開された『パシフィック・リム』にはそんなデル・
デル・トロは幼少期にいじめを受けていたという。ウルトラマンなどの特撮映画は彼の生まれ育ったメキシコでも人気だったが、クラスメイトたちが主人公のウルトラマンに夢中になる中、デル・トロはその敵である怪獣たちに夢中になった。
誰にも理解されない異形の生き物。それは他ならないデル・トロ自身でもあった。ヒーローであるウルトラマンよりも怪獣たちにこそデル・トロはシンパシーを感じていただろう。
ギレルモ・デル・トロ が監督した2017年の映画 『シェイプ・オブ・ウォーター』ではそんなデル・トロの異形への愛情が爆発している。
1962年のアメリカ、喉に傷があり話すことのできない中年女性のエライザは政府の機密期間である航空宇宙研究センターで清掃員として働いている。彼女の同僚はゼルダという黒人女性だ。
この当時、黒人が重要な仕事を任せられることはほとんどなかった。
一人で安アパートで暮らしているエライザだが、彼女にはゼルダや隣人でゲイの友人であるジャイルズもいて、単調だがそれなりに楽しい日々を送っている。
ある時、センターに極秘で未知の生物が運び込まれる。それはアマゾンで神と崇められていた半魚人だった。
ギレルモ・デル・トロは1954年の映画「大アマゾンの半魚人」に強い影響を受けたという。同作でギルマンと呼ばれる半魚人はジュリー・アダムス演じる女性所員のケイに恋をするが、それはギルマンの一方的な悲恋に終わる。
だが、『シェイプ・オブ・ウォーター』では半魚人はエライザと心を通い合わせていく。
ギレルモ・デル・トロは、ギルマンの哀れさをどうにかして救いたいと考えていたとインタビューで明かしている。
「テレビで『大アマゾンの半魚人』という映画を観たんだ。アマゾン川の奥地に入った探検隊が大昔から生きてきた半魚人と出会う。半魚人は探検隊の女性に恋するけど、殺されてしまう。半魚人があまりに可哀そうで、僕は、半魚人が彼女と仲良くデートする絵を描いた。それからずっと2人を幸せにしたいと思い続けて、40年以上かけて夢をかなえたんだ」
警備としてやってきた元軍人のストリックランドは半魚人をただの動物として扱い平然と虐待する。
ストリックランドの同僚のホフステトラーは半魚人を人間の代わりに実験台として宇宙船に乗せようとするが、ストリックランドは解剖するべきだと主張する。ソ連のスパイだったホフステトラーの元にはアメリカが生物の秘密を知る前に、半魚人を殺せと政府から命令が来ていたが、ホフステトラーは貴重な生物である半魚人の抹殺に反対する。
半魚人と愛し合う関係になっていたエライザはイライザは同僚のゼルダやジャイルズ、ホフステトラーの協力の元、半魚人を施設から逃がし、海に返そうとする。
マイノリティたちの逆襲
『シェイプ・オブ・ウォーター』の舞台は60年代。様々な差別が渦巻いていた時代だ。
黒人や同性愛者の社会的な権利は著しく制限されていた。
黒人は参政権が付与されてはいたが実際にそれを行使することは難しかった。特に南部での黒人達の投票権はさまざまな理由をつけた上で著しく制限された。南部は白人より黒人の人口の方が多く、黒人へ参政権を与えることは黒人に政治的に支配されることを意味していたからだ。水飲み場やバスの座席など、公共のあらゆる場所で黒人をはじめとする有色人種と白人の使う場所は分けられていた。
2013年の映画『リンカーン』で描かれていたように、法の下での平等は1865年にすでに成立していたにもかかわらず、「分離すれども平等」という欺瞞によって、その後100年に近くも有色人種は実質的な差別をうけていた。
2015年の映画『キャロル』では50年代のアメリカにおける同性愛者の生活が描かれる。当時同性愛は治療すべき病気と見なされ、子供の親権を持つことも難しかった。
だが、『シェイプ・オブ・ウォーター』では彼らこそがヒーローだ。デル・トロ同様、虐げられたマイノリティたちによる逆襲なのだ。
しかし、彼らの前にはストリックランドが立ちはだかる。
彼はこの時代を象徴するような存在だ。多様性など認められない。強くなければ生きられない。弱みを見せずに勝ち続けることこそが成功への近道なのだ。一方でストリックランドもまたそのような時代の呪縛に取りつかれていた人物だといえる。彼には悩みを相談できる友人はいるのだろうか。
ストリックランドは海へ逃げようとする半魚人を撃つ。自らの正しさを証明するように。
半魚人はストリックランドを殺す。ストリックランドはという。それは彼を縛り続けていたマッチョイズムからの解放だ。
「男らしさ」という呪縛からの解放
『シェイプ・オブ・ウォーター』は2017年のアカデミー賞作品賞を受賞したが、その前年に作品賞を受賞したのが『ムーンライト』だ。『ムーンライト』はシャロンという黒人男性の少年期から大人になるまでを描く。
リトルとあだ名された少年のシャロン。彼は学校ではいじめられ、家庭ではドラッグ中毒の母親から邪険に扱われる。そんなリトルを優しく扱ってくれたのはドラッグの売人であるフアンとクラスメイトのケヴィンだけだった。 フアンはシャロンの父親がわりとなって様々なことを教えてくれるのだが、彼がシャロンの母にもドラッグを売っていたことが明らかになる。シャロンはそれをきっかけにフアンと距離をとるようになるる。そしてある日フアンは亡くなる。
これは原作を書いたタレル・アルヴィン・マクレイニーの実体験がもとになっている。
マクレイニーの母親もドラッグに溺れていた。幼いマクレイニーはドラッグの売人のブルーを父親がわりに育っていった。一方でブルーはマクレイニーにさまざまなことを教えてくれたという。
しかし、マクレイニーが8歳のころ、ブルーは殺される。そのことをきっかけにマクレイニーはハムレットと出会い、劇作家として才能を開花させていく。
シャロンはとある月明かりの夜にケヴィンとファーストキスを交わし、ケヴィンの手によって射精する。
しかし、学校でケヴィンはいじめグループのリーダー格であるテレルに命令され、いやいやながらシャロンを殴る。翌日、シャロンはテレルを後ろから椅子で殴りつけ、半殺しにするまで復讐する。シャロンは逮捕され、警察に連行される。
数年後、大人になったシャロンは筋骨隆々になり、ドラッグディーラーとして働いている。かつてのフアンと同じように。そんなシャロンのもとへ、マイアミでコックとして働くyケヴィンから会いたいと電話がかかってくる。ケヴィンは高校以来のシャロンの風貌の変化、そして何よりドラッグディーラーという職業に動揺を隠せない。「おまえが売人?それは絶対に無い」と。
シャロンは刑務所のなかでこの道に誘われ、そしてのしあがったと言う。生き抜くためにはシャロンもまた「強さ」で身を固めないとならなかったのだ。
だが、それは本当の自分なのだろうか?
シャロンは「男らしさ」に取りつかれている。『シェイプ・オブ・ウォーター』のストリックランドと同じように。
会わなかった日々に起きた様々なことをシャロンはケヴィンに話す。一方、シャロンはあの夜以来、誰も自分に触れていないと打ち明ける。
その夜、ケヴィンはシャロンの肩を抱いて眠る。まるで、少年時代の月明かりの夜にキスを交わした時のように。
『ムーンライト』で描かれたことも同じくマッチョイズムからの解放だった。
なぜこのタイミングでこれらの作品がアカデミー賞に選ばれたのか?
排除の時代へのメッセージ
2016年にドナルド・トランプがアメリカ合衆国大統領に就任した。ヒラリー・クリントンの勝利が予想されていた中でこの結果には多くの人が驚いた。
トランプは「アメリカをもう一度偉大に!」をスローガンに、強いアメリカを目指した。そのために犠牲にされた一つが多様性だ。
そもそもトランプを熱烈に支持したのは南部の保守層だ。かれらはグローバリズムや移民に押されて仕事や賃金が減っていた。だからこそメキシコとの間に壁を作り、イスラム教徒の入国を禁止したトランプを支持した。当時のアメリカは協調よりも自分達のために排除を選んだのだ。
『シェイプ・オブ・ウォーター』と『ムーンライト』の作品賞はそんな時代へのハリウッドなりのメッセージだったのか。
もともとハリウッドが誕生したのはエジソンの訴訟から逃れるためでもある。発明王と同時に訴訟王としても知られるエジソンは映画製作会社にも多くの特許使用料を請求した。これに中小の映画会社が反発、エジソンの目の届かないロサンゼルスで映画製作を行ったことでハリウッドは映画の中心地になった。そういう成り立ちもあり、ハリウッドは元来リベラルな文化を持つ。だからこそ、戦後すぐに赤狩りのターゲットになったわけだが。
現代のおとぎ話
ギレルモ・デル・トロは『美女と野獣』が好きではないという。
「僕は『美女と野獣』が好きじゃない。『人は外見ではない』というテーマなのに、なぜヒロインは美しい処女で、野獣はハンサムな王子になるんだ? だから僕は半魚人を野獣のままにした。モンスターだからいいんだよ」
『美女と野獣』に限らず、多くのおとぎ話の「ハッピーエンド」は人間の美男美女、もしくは王子さまやお姫様になることこそが幸せだと示してきた。
だが、それは偏った幸せではないのか?2015年のアカデミー賞が「白すぎる」と批判されたように。
「モンスターは完璧さに迫害された聖人なんだ」デル・トロはそう言う。
エライザを演じたサリー・ホーキンスだが、デル・トロはスタジオからはもっと華のある女優を主演にすればより多く出資できると言われたそうだ(実際『パシフィック・リム』の製作費は1億5000万ドルだが、今作『シェイプ・オブ・ウォーター』は2000万ドルで製作されている)。
だが、ギレルモ・デル・トロはその要求を頑なに拒んだ。デル・トロは脚本が草稿の段階からエライザ役にはサリー・ホーキンスを熱望していた。
ありのままで良いのだ。だからこそ『シェイプ・オブ・ウォーター』で半魚人が人間になることはない。
エライザは海の中で今までの全てを断ち切って半魚人と幸せに暮らす。それでいいのか?それでいい。
これはおとぎ話でありファンタジーなのだから、俗的な現実を飛び越えて自由で構わないのだ。水の形がそうであるように。