※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています
『夢と知りせば ー男女取りえばや物語』2016年に公開された新海誠監督の『君の名は。』は元々の企画の段階ではこのタイトルだった。
『夢と知りせば』
そのタイトルは平安時代の女流歌人である小野小町の『思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを』に由来している。現代語に訳せば「あの人を思いながら眠りについたので、あの人は夢に出てきたのだろうか。もし夢とわかっていたら目覚めなかっただろうに」といったところか。絶世の美しさと言われた小野小町だけにさぞ恋も多かったに違いない。
副題の『男女とりかえばや物語』の由来も平安時代に書かれた『とりかへばや物語』という作品だ。「とりかへばや」とは「とりかえたいなぁ」という意味で、女性的な性格の男児と、男性的な性格の女児の父親が、男児を女性として育て、女児を男性として育てていく物語である。
『君の名は。』も同様に知らぬ異性と体が入れ替わる物語だ。当初は入れ替わった二人ともそれを夢だと思うが、次第に現実として受け入れていく。そしてある出来事をきっかけになぜ二人が入れ替わったのかの理由が明らかになる。
『君の名は。』
『君の名は。』は2016年に公開された新海誠監督のアニメ映画だ。声の出演は神木隆之介、上白石萌音が務めている。
飛騨地方の片田舎、糸守町に住む女子高校生の宮水三葉は代々続く宮水神社の巫女の家系だ。父親はあることがきっかけで家を捨て、今では糸守町の町長を務めている。
『君の名は。』の外伝小説(『君の名は。Another Side:Earthbound』)によれば、宮水神社は昔は寺社領を擁する、領主のような存在だったという。父が町長になれるのもその名残があるからだろう。
一方、東京に住む瀧は霞が関に勤める父親と二人暮らし。新宿の高校に通い、夜はイタリアンでバイトしている。
ある日、瀧は目覚めると何処の誰かもわからない女子になっていた。一方の三葉も目覚めると東京で暮らす高校生男子になっていた。
瀧は三葉の体に、三葉は瀧の体にそれぞれ入れ替わっていた。最初は入れ替わりを夢だと思っていた二人だが、周囲の言動からそれが夢ではなく現実に起きていることだと知る。
瀧と三葉の入れ替わりは不定期。二人は入れ替わったときのルールを決めて、なんとか日常をやり過ごそうとする。
『転校生』との違い
知らぬ異性と体が入れ替わるという設定自体は斬新なものではない。代表的なものに1982年に公開された大林宣彦監督の『転校生』だろう。
大林宣彦監督のいわゆる「尾道三部作」の第一作目にあたる作品だ。
尾道の中学三年生、斉藤一夫のクラスに転校生の斉藤一美が転入してくる。一美は一夫と同じ幼稚園の幼馴染だった。学校からの帰り道、二人は石段で転んでしまったことが原因で互いの体が入れ替わってしまう。周囲にバレないように過ごしながら、どう元の体に戻ればいいのかを模索していく物語だ。
新海誠監督によって書かれた『君の名は。』の企画書にも『転校生』に言及している部分がある。そこでは男女の体の入れ替わりが昔からあるモチーフの例として『転校生』が挙げられている。しかし『転校生』が公開された時代とは違い、今は「男らしさ」「女らしさ」を求めたりなどの性差別も昔ほどではないと新海誠は述べている。
一方で『転校生』へのオマージュを込めた「入れ替わり」作品は今なお多く作られており、そこには設定として変わらない魅力があるのだろう。ただ、新海誠は今の時代ではただの男女の入れ替わりだけでは共感を得られにくいと考えた。そこで「入れ替わり」に理由を持たせることにした。男女が入れ替わっても昔ほど不便はない。であればそこに「元に戻る」という目的以外のもうひとつの目的を与えたのだ。
入れ替わりの真実
それがティアマト彗星の墜落を阻止するということだ。ティアマト彗星によって三葉の住む糸守町は壊滅する。
瀧がそれを知ったのは三葉との入れ替わりがある日を境に起きなくなったことがきっかけだった。そこで瀧は友人の司とバイト先の奥寺先輩とともに三葉に直接会いに行こうとする。だが、やっと見つけた糸守町は隕石で壊滅し、湖の底に沈んでいた。そして、そこに住む大部分の人が亡くなったという事実を知る。
瀧は町の図書館で隕石の衝突で亡くなった人の名簿を見る。
宮水一葉
宮水三葉
宮水四葉
そこには三葉を含んだ宮水家の全員の名前があった。
瀧は性別だけでなく、時空も超えて三葉と入れ替わっていたのだ。
三葉の住んでいる糸守町には巨大な隕石衝突の跡がある。その中心に宮水神社のご神体はある。
糸守町の過去
『君の名は。』の設定では、その隕石が糸守に堕ちたのは平安時代だという。劇中のテレビニュースではティアマト彗星は1200年ぶりに地球に接近するとにこやかにレポーターが話していた。だが1200年前(ちょうど平安時代)にも隕石は糸守町を破壊し、多くの人の命を奪ったのだ。
だからご神体の周りは「隔り世(かくりよ)」と言われているのだろう。平たく言えばあの世のことだ。なぜあの世なのか。かつてそこに生きていたものの全てが死に絶えてしまったのだから。
前述の『天気の子』やそれに続く『すずめの戸締まり』など、新海誠監督の作品では、神話やからの影響が色濃く見られる。今まで見てきたように『君の名は。』にもその影響は大きい。
例えば先程述べた「隔り世」は日本神話や神道からの言葉でもある。また三葉の名前は『古事記』や『日本書紀』に登場する水の女神である弥都波能売神(ミヅハノメノカミ。『日本書紀』では罔象女神と表記)に由来する。ちなみにミツハ(弥都波)には「田んぼに水を引き入れる」という意味がある。
糸守町の壊滅を阻止することが三葉と瀧の入れ替わりの意味だった。それを確信した瀧はもう一度だけ三葉と入れ替わるために一人でご神体へ向かい、三葉の口噛酒を飲む。
しかし何も起こらない。諦めて帰ろうとするとき、瀧は転倒し、後頭部を強打する。
その時に瀧は三葉のこれまでの人生を見ることになる。
三葉の生まれた時、四葉の誕生、母親の二葉の死、残された父と祖母である一葉の確執、家を出ていった父の背中、祖母と暮らすようになった日のこと。
「口に入るものは魂と結び付く」
一葉の言葉のとおり、瀧は三葉の魂と結び付いたのだ。
そして、目が覚めると瀧は三葉の体になっていた。
そして瀧は三葉の親友であるサヤちんや友人のテッシーとともに隕石墜落から糸守町の住人を守ろうと行動する。彼らの計画はまずテッシーが送電所を爆破させる。それを理由にサヤちんが電波ジャックした放送で町の人に避難を呼び掛けるというものだった。しかし、予想に反して誰も避難しようとはしない。町長なら皆を動かせるのではないか。瀧は三葉の姿で町長室へ急いだ。
三葉の父親
瀧は(三葉の体で)父親の俊樹に会いに行くが、必死の願いも妄言と一言で切り捨てられる。あまりに冷たい態度に瀧は思わずネクタイを掴んでしまう。その時に俊樹は目の前の三葉が三葉でないことを悟る。
この宮水俊樹という人物を見ていくには映画だけ観ていても掴むことはできない。
宮水俊樹という人物を理解することは、三葉をはじめとする宮水家の歴史も深く理解するということだ。
では、再び『君の名は。 Another Side:Earthbound』を参照して、宮水俊樹という人物を見ていこう。
宮水俊樹は宮水二葉と結婚する前は民族学者として各地の神社を訪ねていた。宮水神社を訪ねたのもその一環だ。一葉とは出会った当初からウマが合わなかったものの、二葉とは互いに惹かれ合った。二葉は宮水神社は倭文神建葉槌命が祭神だという。倭文神建葉槌命は人間に機織りを教え、『日本書紀』では、武甕槌命でも屈服させられなかった天香香背男(アメノカガセオ)を屈服させた神として記述がある。だが、宮水神社では倭文神建葉槌命は竜を退治したと伝えられている。二葉は竜とはアメノカガセオのことだという。アメノカガセオの名前の由来は蛇を表すカガシが変化したもので、アメノカガセオの意味は天の蛇、つまり流星を指すのではないか。俊樹はそう推察した。そして糸守町には古来にも隕石が飛来している。そこから宮水神社には今に受け継がれる言い伝えが生まれたのだろう。
空から降ってきた「神の怒り」
新海誠監督が『君の名は。』に続いて監督したのが『天気の子』だ。『天気の子』では人柱が話の重要なモチーフとなっている。そもそも人柱とは古代、自然災害を神の怒りだと考えた人々が神の怒りを鎮めるために行ったことだ。
ちなみに、ティアマト彗星のティアマトとはメソポタミア神話に登場する女神の名前だ。
組み紐の意味
組み紐についても説明しておこう。組み紐には二つの意味がある。一つは映画的な意味で、運命の赤い糸を可視化した存在ということだ。三葉がリボン代わりにいつも髪にしていた組み紐は東京で瀧の手に渡った。三葉も瀧に会いに東京へ向かっていたのだ。だが、瀧にとってそれは三葉と出会う三年前の出来事。瀧は目の前の彼女が誰だか知りうるはずもなかったのだった。
もう一つは宮水の歴史に関わること。前述の竜を退治したのは組み紐で竜を絡めとり、動きを封じたという言い伝えが宮水神社にはあった。それが組み紐のルーツだ。俊樹は竜が隕石を表すのなら、組み紐は被害から協力して町を建て直した人々の絆を表しているのではないかと推測している。だが、組み紐の紋様などの神事のいくつかのルーツは、一葉の口から語られているように、江戸時代に糸守町で発生した火事、繭五郎の大火によって焼失している。そこで舞の意味も組紐の紋様の意味も焼けて失われたのだった。
二葉への想い
二葉と俊樹は周囲の大反対を押しきり結婚する。映画では描写されないが、俊樹は俊樹の側で両親が決めた婚約者が別にいたのだという。そちらを捨てて二葉を選んだことから俊樹の二葉への思いの深さを伺い知れる。
だが、結婚して宮水家に婿養子として入った俊樹は糸守町における宮水家の影響の強さに恐れさえ感じるようになる。特に二葉に関しては、町の人間が彼女をまるで神のように畏敬の念を持って接していることに気づいた。彼女はどんな人の相談事にものってしまう。大して詳しくないであろうことや、二葉の到底わかりようがないことでも皆二葉に相談しに来る。そして二葉の助言はいつも正しかった。ただ、俊樹は妻が人間ではなく、神のように見られていることが現代ではあるまじきことのように思えて不満だった。
一方、長女の三葉、次女の四葉も生まれ、家庭は順調だった。しかし、俊樹の知らぬ間に二葉の体は病魔に冒されていた。だが、そのことを二葉は俊樹には伝えなかった。そして二葉は治療すら拒んだ。これで死ぬのが運命であり、定められていることだとでも言うかのように。結局二葉は入院したが、専門病院へかかることは拒否した。俊樹はそれを「生き延びることを拒否しているかのようだ」とさえ思った。そして二葉は運命に従ったかのように死んだ。
俊樹は何日も悲しみに沈んだが、町の人はおろか、二葉の母であるはずの一葉までも既に二葉の死から立ち直ったようだった。「二葉がこれはさだめられたことと言うんやったらそうなんやろう」その一葉の言葉が許せなかった。そう言って軽々しく二葉の死を受け入れたことが許せなかった。
俊樹は宮水を捨て、政治の世界へ飛び込むことを決めた。二葉の死を運命と捉えて、一人の人間の死だと捉えない、この町の精神を近代化するために。
俊樹にとってはそれが二葉への弔いに他ならなかっただろう。
三葉との出逢い
瀧は三葉の姿でも俊樹に自分の言葉が届かないことに悔しさを覚えた。本当の三葉の声でないとダメなのか?そう考えた瀧は宮水神社の神体へ向かう。そこには瀧の姿で目覚めた三葉がいるはずだ。
その予想どおり、三葉は瀧の姿で目覚めていた。しかし、目の前に広がるのはかつて糸守町だった何もない場所。自分があの日死んだことに気づき、三葉は狼狽する。その時、三葉の名前を呼ぶ瀧の声が聞こえた。三葉も瀧の名前を叫ぶ。
当初のタイトルが『夢と知りせば ー男女取りえばや物語』だったことは冒頭で説明した通りだが、『君の名は。』というタイトル案も新海誠監督のなかに最初からあったという。だが、既に同名で有名な作品(年公開のラジオドラマ『君の名は』のこと)があったことから、なかなか『君の名は。』は有力候補にならなかったと語っている。それでも脚本には何度も互いの名前を問う場面があり、『君の名は。』に落ち着いたという。句読点は前述の『君の名は』との差別化を意図したものであると同時に、問いではなくここから始まりと終わりを示す意味があったという。
そして日が暮れ、カタワレ時がやってくる。そこでようやく、三葉と瀧は初めて出逢う。劇中ではカタワレ時は万葉言葉での呼び方で、一般的には黄昏時や逢魔時とも言われている。逢魔時とは魔物や幽霊と出逢う時とされているが、もうひとつ、他の世界と現実を繋ぐ時間とも言われており、瀧と三葉が出会えたのもこちらの意味合いに基づいたものだろう。
瀧は三葉に隕石の衝突から町を守るための計画を伝える。
どのようにして糸守町のほぼ全員の避難が成功したのかは映画の中では詳しく描写されない。ただ、これも『君の名は。 Another Side:Earthbound』に詳しいのでそちらを見ていこう。
俊樹は最初は三葉(中身は瀧)の言葉を何かの悪戯かと切り捨てたが、そのしばらくあとで一葉と四葉が現れた。彼女たちは三葉が来たら彼女の言葉を聞いてほしいという。だが、俊樹の見つめる先では確かに隕石が二つに割れていた。
そして三葉が再び現れた。今度は本当の三葉だった。町長として、町の人々に避難を呼び掛けてほしい。
その時に俊樹は気づいた。自分には今、町の人を動かせる権限があること。すべてはこの日の今のためにあったことなのか。
改めて三葉の顔を見る。そこには他でもない二葉の面影があった。
そして俊樹は町長として避難指示を発令する。こうして町は隕石の被害から救われた。
そして8年後。瀧も三葉も入れ替わりの記憶も互いの名前も忘れ、それぞれの日々を過ごしていた。三葉は糸守町を出て東京で働いており(隕石によって宮水神社が壊れたため、後を継ぐという運命もまた変わったと言える)、瀧は就職活動中だった。だが、お互いに、ずっと誰かを探しているという感覚だけが消えずに残っていた。
忘却
『君の名は。』はという大ヒットを記録したわけだが、その内容には批判もあった。「災害をなかったことにする映画だ」「恋愛のために災害を利用している」そんな声が新海誠監督のもとに寄せられたという。
『君の名は。』が本当に描いているものは三葉と瀧の恋愛なのだろうか?それはあくまで表層ではないのか。
『君の名は。』が描くのは人とのつながりではないだろうか?それは友人や家族といった同じ時を生きる人達だけでなく、時代時代を紡いでいった先祖から今へ至るまでのつながりもそうだ。
確かに彗星の墜落は311の東日本大震災を思い出させる。新海誠自身もあの震災が『君の名は。』のひとつの出発点であると語っている。
宮水神社の跡継ぎとして生まれた三葉は将来も糸守町に住み続ける運命を背負っている。その過去と今を結ぶ「つながり」を三葉は疎ましく思い、東京へ行きたいと強く思っている。新海誠は「つながり」には良い意味も悪い意味もあるという。
『君の名は。』が素晴らしい映画であることに異論はないが、それでも大きないくつかの矛盾や不自然さを解消できていない。
一つは入れ替わりのときに時間軸が異なることに気づかないことだ。3年の違いがあれば、日付は同じでも曜日が違う。また瀧の世界ではテレビがティアマト彗星衝突の追悼番組を放送していてもおかしくはない。いくら入れ替わりが夢の中に似た感覚だとはいえ、こんな単純な疑問への納得できる答えは用意しておいてほしいと思う。
二つめは初めて『君の名は。』を観たときから思うことだが、瀧が糸守町を全く知らないことが引っ掛かった(奥寺先輩や司は糸守町という名前を聞いて、直ちに察している)。
日本から一つの町が消えた。そんなことを果たして忘れてしまえるものなのか?
だが、今ふと思う。現実の日本にも人が住めなくなった地域がある。そこは自然災害ではなく、人が作り出した災害で住めなくなっている。その場所の名前を私たちは覚えているだろうか?
カタワレ時が終わり、瀧も三葉もお互いの名前を思い出せない。「あの人の名前が思い出せない。」
なのにどうしようもなく忘れてしまう。忘れてはいけないのに、忘れてしまう。
これは私たちも同じではないのか?
君の名前は
新海誠は『君の名は。』は「災害が起きる未来を変えようとする映画」「あなたが生きていたら良かったのにという強い願いを形にした映画」だという。
8年後、瀧と三葉は一瞬電車の中ですれ違い互いの顔を見る。二人はそれぞれ乗っていた電車を降りてお互いを探す。
そして住宅地にある神社の階段でようやく出会う。しかし、声をかける理由が見つからない。一度はそのまますれ違うが、互いに振り返って同じことを尋ねる
「君の名前は」
忘れてはいけないことがある。だから名前を叫ぶ。だから名前を求める。
「恋愛のために災害を利用している」そう批判する人々は、忘れてはならない名前を覚えているだろうか?