※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています
日本は恥の文化だと言われる。
欧米ではモラルの基準として自己の内面である良心を重視することに対して、日本では世間体や他人からどう思われるかなど、自分の外側のことを重視する傾向にあることを指したものだ。欧米は「罪の文化」、日本は「恥の文化」とも言われる。
『愛を読むひと』
今回紹介する『愛を読むひと』もまた恥を描いた作品だ。
『愛を読むひと』は2008年に公開されたスティーブン・ダルドリー監督、ケイト・ウィンスレット主演のドラマ映画だ。
邦題のイメージから恋愛映画を想像していたが、案外重厚なヒューマンドラマで驚いた。
原作はベインハルト・シュリンクが1995年に出版した『朗読者』。『愛を読む人』の原題も「The Reader」で朗読者を意味する。尤も、ベインハルト・シュリンクの小説の方の原題は『Der Vorleser』であり、「朗読する男」という意味になる。
『愛を読むひと』の物語は1995年から始まる。弁護士の中年男性、マイケルは娘とともにとある場所へ向かうために車を走らせる。
マイケルは1958年の15歳だったころに思いを馳せる。 路上で黄疸によって苦しんでいたマイケルはハンナ・シュミッツという21歳年上の女性に介抱される。元気になり再びハンナの家を訪れたマイケルは彼女と関係を持ってしまう。マイケルはその日を境にハンナとの逢瀬を繰り返す。読書好きだったマイケルにハンナは本の朗読をせがむ。いつしか、朗読の後の行為が二人のルーティンになっていた。
ある時、マイケルはハンナを誘い、一泊のサイクリング旅行に出掛ける。
この場面ではフリードリヒ・シラーの戯曲『たくらみと恋』が挿入されている。
「何も怖くない何も苦しみが増せば愛も増す危険は愛を一層強め感覚を研ぎ人を寛容にする
私はあなたの天使生の時より美しくこの世を去り、天国はあなたを見て言うだろう
人間を完全にするものそれこそが愛だと」
『たくらみと恋』は身分違いの男女の恋が破滅的な結末を迎える悲劇だ。それは親子ほどの年齢差のあるマイケルとハンナのこれからを予感させる。
ハンナは電車の車掌をしていたが、仕事ぶりが認められ、事務職への昇進が決定する。しかし、それを告げられたその日からハンナはマイケルの前から姿を消す。それから8年がたち、マイケルは大学生となり法律を学んでいる。ゼミの裁判を傍聴していたマイケルは被告としてハンナが法廷に立っているのを見てしまう。
それはフランクフルト・アウシュヴィッツ裁判のように、戦後に何もなかったように暮らす元ナチスの罪を裁く裁判だった。 フランクフルト・アウシュヴィッツ裁判は連合国ではなく、ドイツ自身によるナチスとその罪への裁きだった。
フランクフルト・アウシュヴィッツ裁判
この裁判が始まるまでの経緯は2014年の映画『顔のないヒトラーたち』で詳しく描かれている。
1945年のニュルンベルク裁判でナチスの戦争指導者たちは裁かれた。しかし、ニュルンベルク裁判は勝者が敗者を裁くものであり、当時から不平等や不公平の批判が多く寄せられてもいた。ニュルンベルク裁判と同時に非ナチ化の運動によって元ナチスの党員は公職を追われた。しかし、当初公職追放の主導権を持っていたアメリカのやり方ではドイツ自身の手に非ナチ化は委ねられた。しかし、実際は99%のナチス党員が復職し、社会の中に元ナチスは依然として多く存在していたのだった。
ハンナもその一人だ。彼女は戦争中は強制収容所の看守としてどのユダヤ人をアウシュヴィッツに送るか選別する役割を負っていたのだった。
ナチス政権下のドイツ。彼女にしてみれば職務に誠実であっただけなのだろう。しかし、彼女はアウシュヴィッツに送った人たちが二度と帰ってくることはないことを知っていた。
また、ハンナは収容所が爆撃によって燃えても中にいる300人の囚人を開錠して解放しなかったことで死に至らしめた未必の故意による殺人容疑がかけられていた。
これについてもハンナは「混乱した市街地に囚人を解き放つなどできなかった」と答えている。
裁判所が火災の報告書を証拠の一つとして取り上げたが、報告書は自分だけでなく他の看守とともに作成したとハンナは主張する。しかし被告席の看守からは報告書はハンナの指示で作成したとの声が上がる。裁判所はハンナに紙とペンを渡し、筆跡を確認しようとするが、彼女は文字を書くのをためらい、自分の指示で報告書を作成したことと開錠させなかったことを認めてしまう。
なぜか。傍聴しているマイケルだけがその理由に気づいた。
ハンナは文盲で、文字を読むことも書くこともできなかったのだ。だからこそ、本を朗読してもらうことを好み、だからこそ、事務職への昇進が決まったときに姿を消したのだ。
ハンナの「空虚」とは
ハンナを演じたケイト・ウィンスレットはハンナを「空虚な女性」という。
この空虚という言葉には二つの意味が考えられる。一つは文盲による情報獲得の欠如だ。識字率が上がると同時に聴覚よりも文字を読むための視覚が重要になってくる。
過去は文字で伝えられる。スペインに滅ぼされたインカ帝国は文字を持っていなかった。そのために今日でもインカには謎が多い。
もう一つは倫理の欠如ではないか。裁判でのハンナの姿に私はアドルフ・アイヒマンを思い出した。
アドルフ・アイヒマンはナチス・ドイツでユダヤ人移送局長官を務めた人物で、数百万人のユダヤ人の強制収容所への移送を指揮した人物だ。戦後はアルゼンチンへ逃亡していたが、1960年にイスラエル諜報特務庁により捕らえられ、翌年にはアイヒマンに対する裁判がはじまった。
イスラエルで裁判を受けるアイヒマンの姿はそれまで人々が想像していたものとは大きく異なっていた。人々はアイヒマンをユダヤへの強烈な憎しみを抱く極悪人だとイメージしていたが、実際のアイヒマンは凡庸な小役人であり、そのギャップは多くの人に衝撃を与えた。
これはドイツの哲学者でありユダヤ人でもあるハンナ・アーレントが、アイヒマン裁判を取材してまとめた『イエルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』で述べられていることでもある。
2012年に公開された映画『ハンナ・アーレント』ではアイヒマンの裁判を傍聴し、『イエルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』を出版するまでのハンナ・アーレントの姿が描かれている。
そのなかでアーレントはアイヒマンが自分で思考することを放棄したことを最大の悪として非難している。
ハンナもそうではないか。文盲も相まって彼女の知りうる情報は他の人よりも圧倒的に少なかったに違いない。少ない情報の中で十分な倫理や思考は育つだろうか?
なぜ文盲を隠していたのか?
なぜハンナが文盲を隠していたのか。ここには恥ということ以外にもうひとつの説もある。ハンナの出自がロマ族ではないかという説だ。
ロマはナチス・ドイツ政権下で劣等民族とされ、文盲政策が行われた。ロマの就学を禁止したのだ。それに加えてロマはユダヤ人達と同様に劣等民族として強制収容所に送られた。文盲ということが他人に知られるということは単に恥というだけではなく、命に関わることだったのではないか。
もちろん、戦後の時代に改めて文字を学ぶという選択もあっただろう。だが、戦後にロマに与えられた補償はほとんどなかった。
ハンナは裁判を通じて最後まで自身が文盲であることを明かさなかった。彼女の文盲に気づいていたのはマイケルだけだったが、マイケルもまた彼女の気持ちを察し、彼女の文盲の事実を裁判関係者に打ち明けることは踏み留まった。
ハンナに下された判決は無期懲役だった。
それから長い年が過ぎ、マイケルは結婚し子供も生まれた。しかし、それから数年後マイケルは妻と離婚することを実家の母に報告する。そしてかつてハンナに読み聞かせた『オデュッセイア』をテープに朗読して吹き込む。マイケルはそうしてさまざまな本をテープに録音しては刑務所のハンナのもとに届けた。
ハンナは刑務所内の図書館でマイケルからの朗読のテープと同じ本を借り、独学で読み書きの勉強を始める。
原作ではハンナは時が読めるようになってからはすぐに強制収容所についての本を読み始めたという。本棚の中にはナチスの犠牲者たちの本と並んでルドルフ・ヘスの伝記や、アンナ・ハーレントのアイヒマン裁判に関するレポート(『イエルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』)もあったと書かれている。
だが、出所の当日にハンナは首を吊って自ら命を絶ってしまう。
なぜ彼女は自殺したのか。
ハンナが死んだ理由
1995年の映画『ショーシャンクの空』は無実の罪で投獄された元銀行員のアンディの刑務所での生活を描いている。同作に登場するブルックスという囚人がいる。彼は50年間刑務所で服役しているが、仮釈放が決まる。しかし、ブルックスは外の世界を恐れ、出所後に自殺する。ハンナもまた20年間という長い間服役している。彼女に外の世界への恐れはあったのだろうか。恐らくあるとするならば、外の世界への恐れよりも、その外の世界との唯一の接点だったマイケルとのすれ違いを怖れたのではないか。
出所の少し前、初めて面会に来たマイケルにハンナは「大人になったわね、坊や」と声をかけるが、マイケルはすでに弁護士としてキャリアを積み、子供もいて、離婚も経験していた。もうあの頃の15歳の子供ではなかった。知らずに罪人を愛してしまった自分を悩み続けたマイケル。彼もまた「恥」に囚われた人間であったと言えるだろう。
マイケルは老いたハンナにこう問いかける。
「過去のことは考える?」
「裁判の前は全然考えなかった。考える必要がなかった。」
「どう考えた?」
「どう考えようと、どう感じようと死者は生き返らない」
「では、学んだものは?」
「字を読むことを学んだわ、坊や」
マイケルの一連の問いはいかにも法律家らしい問いかけだ。それに対してハンナの答えは肩透かしのようであり、マイケルの期待した贖罪の意識は感じられない。
マイケルというキャラクターは原作者のベインハルト・シュリンクの思いが投影されているのではないだろうか。ベインハルト・シュリンクはもまた法律を学び、裁判所の判事として働いていた法曹の人だ。そこには「愛は全てを超える」というような理想の入り込む余地はない。
ここではマイケルの苦い顔と二人の間に流れる気まずい沈黙が印象的だ。二人は別々の人生を歩み、あの過去にはもう戻れないことを悟ったのだろう。
罪と罰の意識
ハンナの自殺の理由としてもうひとつ考えられるのは罪の意識だ。
原作において、ハンナは出所の一年ほど前から太り出し、身なりにも気を使わなくなったと書かれている。
本を読むことで改めて過去の歴史を知った一方で、刑務所にも一定の居場所を得たハンナは罪の意識から自分をもっと孤独で過酷な環境に置くことで自らを罰しようとしたのではないか。
アンナ・ハーレントはアイヒマンは法律では裁くことはできないが、それでもアイヒマンは罰を受けるべきだと考えていた。ハンナもそのレポートを読んでいる。ハンナも法的には問題がなく、当時の自分の職務を全うしたに過ぎないが、それでもその責任は刑に服す以上の罰で償うしかないと考えたのではないか。それが死だったのではないか。
『愛を読むひと』は罪と罰について深く考えさせられる作品だ。法律的なアプローチだけでは割り切れない罪と許し。恥という感情に引きずられる正義。いや、そもそも正義そのものを定義することすら容易ではない。もやもやした気持ちの残る人もいるだろう。だが、それを一人一人が考えていくことこそがこの映画が望むことではないだろうか。
ラストシーン、マイケルと娘が向かっていた場所はハンナの墓だった。墓参りを終えたマイケルは今まで誰にも言わなかったハンナとの話を娘に語り始める。
ようやくハンナという存在にマイケルは自分の人生の中の居場所を与えることができたのだろう。