『天気の子』帆高はなぜ銃をとったのか

※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています


『天気の子』

2016年に公開された『君の名は。』は新海誠監督のブレイク作にして、251億円もの興行収入を記録した。
『君の名は。』の次の新海誠監督の作品が2019年に公開された『天気の子』だ。声の出演は森七菜、醍醐虎太郎らが務めている。

降り止まない雨

舞台は2021年。田舎から家出してきた高校一年生の森嶋帆高はなんのあてもないままフェリーで東京へ向かう。
帆高がたどり着いたのは異常気象で連日雨が降り続く東京。そしてその中の新宿歌舞伎町だ。街並みは実在の企業や商品の看板で溢れ、下品なネオンがひしめき合い、絶えず消費を促している。ファンタジーではない、リアルな今の日本の都市の姿だ。
その景色は今の日本の縮図のようにも見える。立ち並ぶ看板だらけの美しさをなくした都会の姿は今の大人達が作ったものだろう。しかし、降り続く雨は世代を問わず今を生きる全員に降り続いている。

2001年に公開された『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』は過去へのノスタルジーと先の見えない21世紀との狭間に揺れながらも、家族とともに未来へ勇気を持って踏み出すことを描いた作品だ。
だが、それから20年以上経った今、明るい未来を大人たちは子供らに渡せたのだろうか?

今の日本の貧しさ

帆高はネットカフェでシャワーを浴び、ホームレス状態でやビルの隙間に寝泊まりする。だが、東京の街はどこまでもドライだ。駅の端に座り込むと、そこに駅員がやって来て帆高は注意を受ける。

この場面では『火垂るの墓』の冒頭、戦災孤児となって死を待つばかりで三ノ宮駅に座り込む清太を思い出させる。『火垂るの墓』の高畑勲監督は清太に現代の若者の姿を反映させたという。
『天気の子』の帆高もそうだ。戦後のような貧しさは現代にはほとんどない。しかし、それとは違う貧しさが今の日本を覆っている。帆高はマクドナルドで空腹を凌ぎ、時間を潰す。手持ちの金も尽きようとしているが、身分証もないために働くこともできない。

ここ数年、子供の貧困や生きづらさを描いた映画が増えてきたと感じる。そしてそれらには重く言い様のないリアリティがある。
2021年に公開された『竜とそばかすの姫』は高知県の片田舎に住む女子高生の鈴が主人公だが、例えどんなのどかな田舎であっても、スマホさえあれば学校や人間関係といったしがらみはどこまでも付いてくる。
鈴には幼い頃母親が幼い他所の子供を助けるために命を落としたという悲劇があった。だが、そんな事件もネットではコンテンツとして消費され、心ない書き込みが殺到する。鈴はそれを目撃したことで心に傷を負っている。
2023年に公開された『世界の終わりから』では子供の貧困が描かれる。同作では経済的な理由から進学を諦め、クラスに馴染めずにいる女子高生、志門ハナが主人公だ。
ハナは入金している祖母のためにモルヒネを買う金がなく、売春に手を染める。それがハナのトラウマとなっていつまでも彼女にのしかかっている。

実際に1985年には10.9%だった子供の貧困率は2019年には13.5%に上昇している。

人生で一番美味しい食事

連日マクドナルドにいる帆高を見かねたマクドナルドの店員の少女がこっそりビッグマックを差し入れする。
「あげる、内緒ね」
帆高は少女に奢ってもらったビッグマックを「16年間生きてきて一番美味しかった」と言う(もちろんこれは帆高がそれまで家族とあたたかな食卓を囲んでいなかったことも意味している)。
そして進退行き詰まった帆高はフェリーで知り合った男からもらった名刺に連絡する。
「K&Aプランニング CEO 須賀圭介」
その会社はオカルト雑誌『ムー』への寄稿を商売にしている零細企業だった。
帆高はそこでアルバイトとして住み込みで働くことになり、同じくアルバイトの女子大生、夏美とともに晴れ女の都市伝説についての調査を担当することになる。

現代の晴れ女

こうして東京での新しい充実した生活がスタートした帆高だったが、ある日風俗のスカウトに少女が声をかけられているのを見かける。その少女はあのマクドナルドの店員だった。
帆高は思わず少女の手を取り、スカウトから逃げる。しかし、スカウトに行く手を阻まれ、馬乗りになって殴られる。帆高はいつか雑居ビルで拾ったオモチャの銃を撃つ。
銃声が響く。銃は本物だった。

こうしてその場を逃れた帆高だったが、実は少女はマクドナルドのバイトをクビになっており、短期間で高収入を得る必要があった。その事情を知らず、ましてや拳銃を撃った帆高を少女は強く非難する。
落ち込む帆高を見かねて、少女が再び声をかける。少女は自らの名前を天野陽菜と言う。彼女には空に向かって祈ると必ず空が晴れるという特別な能力があった。

後日、穂高は陽菜の家を訪ねる。陽菜は弟の凪と二人暮らし。母親は一年前に病気で亡くなっていた。陽菜は帆高をポテトチップス入りのチャーハンやチキンラーメンをふりかけたサラダでもてなす。
そう、『天気の子』の陽菜もまた帆高同様に貧しい。
彼らは日本が豊かだった頃を知らない。

人間が支配できないもの

新海誠監督は『天気の子』の天気は人間が支配できないものの象徴なのだという。個人的にはそれは経済もそうだし、もっと言ってしまえば生まれ育った時代もそうだろう。個人の支配の及ばない範囲だ。

須賀は義母と面会し、離れて暮らす娘との面会の機会をお願いする。窓の外のビルはRICOHやSEIKOなど大手企業の名前が並ぶ。帆高や陽菜の暮らす地域とはまた違う。
義母は雨の降り続く外を見ながらこう言う。
「今の子供はかわいそう、昔は春も夏も素敵な季節だったのに」
新海誠監督は今の日本の天気はもはや四季の情緒が感じられないほどに暴力的になってしまったと述べている。だが、『天気の子』から伝わる今の日本の姿を見ていると、義母のこの言葉が天気だけを指したものとは思えなくなる。

陽菜の家庭の経済状況を知った帆高は陽菜の「晴れ女」の能力で金を稼ごうと考える。
帆高が作った「晴れ女」サイトで実際に晴れ女のビジネスは大成功するが、祈る陽菜の様子がテレビのニュースに映り込んでしまった。サイトはパンクし、依頼が殺到、陽菜の疲れから一時休業することにしたのだった。
最後の仕事(それは須賀と娘の面会を叶えるために天気を晴れにする仕事だった)を終えた陽菜と帆高だったが、その帰り道、陽菜の体は少しずつ透明になっていた。

『天気の子』と人身供養

『天気の子』は人身供養の物語でもある。昔の人々は洪水や日照りなど、過酷な自然災害を神の怒りだと考えていた。
神の怒りを鎮めるために、選ばれた人間を神に捧げた。それが人柱だ。人柱の伝説は今も日本各地に残っている。
天野陽菜はそんな人柱の運命を背負った現代の少女だったのだ。

一方、帆高は歌舞伎町で風俗のスカウトマンに威嚇射撃したことで警察からマークされていた。警察の手は須賀の元にも伸びていた。事情を知った須賀は帆高を解雇し、親元に帰るように諭す。また陽菜の元にも児童相談所の職員が訪れようとしていた。
どこまでも社会が帆高たちにまとわりついてくる。
陽菜と凪、帆高は3人で逃げようとする。何から?大人から、世間から、時代から。
「僕たちから何も引かないで、何も足さないで」
帆高はそう願う。某ウイスキーの名キャッチコピーのようだが、そのまま純粋なままでいさせてほしいという願いだ。
だが、その間も陽菜の体はどんどん透明になっていく。そしてある日、陽菜はこの世界からいなくなった。

『天気の子』のストーリーに関しては、掃晴娘伝説の影響にも言及されることが多い。
掃晴娘は元々は中国の昔話であり、降り続いた雨によって水害に陥った村を救うために、掃晴娘という少女が晴れを願っていた。すると天上から掃晴娘が龍神の妃となるならば、この雨を止めるという声が聞こえた。掃晴娘はその条件を承諾し、龍神の妃となるために天へと昇っていき、この世界から姿を消すという話だ。

なぜ帆高は銃を手にしたのか?

帆高は警察の取り調べを受けていたが、そこから逃げ出してもう一度陽菜に会おうとする。陽菜が一年前に潜ったビルの屋上にあった古い鳥居。その先は空へ繋がっていて、その中に陽菜はいるのだろう。
だが警察がそれを阻む。須賀は帆高を必死になだめようとする。だが、帆高にはもう誰の言葉も届かない。
帆高は須賀にさえ銃を向ける。今度はオモチャとしてではない。本当に銃を撃つ、その覚悟を持って。

『天気の子』は公開された時に劇場で観ているのだが、その時には正直に言えば良い評価はできなかった。帆高の行動があまりに身勝手なものに映ったからだ。
子供が銃という圧倒的な暴力を盾に自分の願いを叶えようと行動する。これを肯定的に描くのであれば、それはテロを肯定することではないのか?
「もう天気なんて狂ったままでいいんだ」帆高はそう言って空の世界で陽菜の手を取る。
そして帆高は空から陽菜を取り戻す。しかし、その代償として雨は止まずに天候は狂ってしまう。1000万人の幸せより、1人を選んだ帆高の決断にイマイチ納得できなかったのだ。

『天気の子』と現実社会

だが『天気の子』公開からしばらく経った今、最近の現実社会も『天気の子』とそう変わらないのではと思えてくる。
昨年の2022年から元総理や現職の総理を狙ったテロが立て続けに発生した。
「テロは絶対悪だ」「民主主義への挑戦だ」
そんなメディアや政治家の声に比べると、世間の声は冷ややかだ。
「民意を無視しておいて、都合のいいときにだけ民主主義を使うな」「これだけ生活が苦しいとテロを起こしたくなる気持ちもわかる」

『ジョーカー』のコラムでも書いたように、テロは本質的には卑怯な行為には違いないが、絶対悪ではない。あくまで一つ一つ是々非々で見ていくべきだ(もちろん今回の総理を狙ったテロは許されると言っているのではない)。
もし、愛する者が理不尽に奪われたら、大切なものが理不尽に奪われたらどうするだろう?それは家族や恋人、もしかしたら未来かもしれない。もし政治が 強い者に媚び、弱い者を無視するのなら?

2018年に公開された『ジョーカー』は世界中で大ヒットした。主人公はゴッサムシティに住む、売れないコメディアンのアーサー・フレック。彼は自信に降りかかるさまざまな不幸や不運の中で全てを失い、最強のジョーカーとして覚醒する。
アーサーは地下鉄で暴力を振るってきた3人の男を反射的に射殺する。
彼らはトーマス・ウェインが営む大企業、ウェイン.コーポレーションの社員だった。ウェインは彼らを追悼した。メディアもまたそれに続いた。アーサーが憧れている有名なコメディアン、マレー・フランクリンもそうだ。
アーサーは言う。
「なぜ彼らに同情する?道で僕が死んでいても踏みつけるだろう?みんな僕なんて気にもしない。あの3人はトーマス・ウェインが悲しんでくれた」
ゴッサムシティにはそんなアーサーの声に呼応するかのように、貧しい者たちを中心に反ウェインのデモが広がっていく。そこではウェインの会社の3人を殺した謎の男が英雄として崇められている。
アーサーの姿に共感できたからこそ『ジョーカー』は世界中で受け入れられたのではないだろうか?

『ジョーカー』の論評で興味深いものがあった。「今や成功者は憧れではなく、憎悪の対象になった」と。
『天気の子』の陽菜と帆高も金持ちや成功に憧れてはいない。そればかりか最初からそんなものは届かないとでも言うように今の生活を当たり前として受け入れている。

帆高と『ライ麦畑でつかまえて』

だが、現実に世界の格差は拡大し続けている。
その深い絶望の中で、愛する者のために銃を手にとった事こそが今の日本の現実を物語っているのではないか?
そういえば、帆高は『ライ麦畑でつかまえて』の本を持ち歩いていた。
『ライ麦畑でつかまえて』はJ・D・サリンジャーが1951年に発表した小説だ 。
主人公のホールデン・コールフィールドは成績不振になり、高校を放校処分となる。ホールデンは純粋であろうとしたがために学校のシステムに馴染めなかった。だが、ただ純粋なものをもとめて家を出てニューヨークに向かったホールデンだったが、ニューヨークで出会った大人たちはことごとくホールデンの期待を裏切っていく。

帆高もホールデンのようにこの世界に絶望していた。帆高が狂うほどに求めた純粋さ、それは陽菜だった。
それが東京で初めて触れた無垢な優しさだったからだ。マクドナルドのビッグマックはその象徴だった。
だからこそ、帆高は陽菜が風俗で働くことが許せなかったのではないか。
だからこそ、例え法を犯そうと、武力行使しようと、陽菜を守りたかったのではないか。
世界や自分自身とのバランスを欠くほどに帆高は陽菜を求めた。

新海誠監督の意図

『天気の子』は公開されると予想通り高い興行収入を記録した。一方、ネットでは作品の内容については賛否両論だった(まぁこちらも予想通りだったが)。
新海誠監督はあえて賛否両論を巻き起こすような作品を意図して『天気の子』を制作したという。新海誠監督は大人になるということは何かを諦めていくことではないかと語っている。
確かに帆高の行動は直動的だ。しかし、そこには諦めない強さと若さもある。『天気の子』には困難な世界の中でも帆高と陽菜のように力強くその世界を生き抜いてほしいというメッセージを込めたという。

『天気の子』についてのネット上での感想もいくつか目にした。新海誠監督の意図を知ったある人は「帆高くんの行動を支持できなかった私の感性は古いのか」
そう嘆いていた。
私はそうではないと思う。この世界に若者だけだったら世界は成り立たないではないか。彼らの未来のためにも「障害」は必要だ。乗り越えるべき壁を与え、そしてそれを越える強さを大人は引き出してあげるべきだ。もちろん、大きな愛で包みながら。

『天気の子』の英語タイトルは『Weathering With You』だが、『Weathering With You』には「厳しい天候や困難を一緒に乗り越えよう」という意味もあるという。

希望を祈る人

『天気の子』のエンディングでは、それから3年後の世界が舞台だ。降り続いた雨によって東京の大部分は水没。帆高は地元に戻り高校を卒業、保護観察期間も明け、東京へ戻ってくる。須賀の事務所は綺麗になり人員も増えて成功しているようだ。そして帆高は東京へ戻ってきた最も大きな理由、陽菜に会いに行く。
彼女の家へ向かう途中、道の先でもう晴れ女ではなくなった陽菜が一心に空に晴れを願っていた。

空が晴れるかはわからない。だが、希望はある。
私たちに天気を変える力があるかはわからない。
だが、帆高が銃を使わない世界にすることは出来るはずだ。
希望はあるはずだ。
そして、それを次の世代に示していくこと、それが『天気の子』に触れた大人の責任なのだと思う。

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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
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