※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています
映画監督の紀里谷和明氏は『世界の終わりから』を以って映画監督を引退すると公言している。
紀里谷監督の映画はどちらかというと酷評されやすい作品でもあり、その批判の声も耐え難いストレスとなっていたのだろう。
『CASSHERN』から繰り返される問い
映画監督デビュー作は2004年に公開された『CASSHERN』だが、暗く、厭世的で尚且つ唐突で物語を放棄するようなラストは一般的に「難解でつまらない映画」という評価を与えてしまったように思う。
同作のキャシャーンはよくあるような純粋な正義の味方ではない。人を傷つけ、殺した過去を持ち、行うべき正義と罪の意識の間で揺れ動くヒーローだ。どう在るべきかを迷う人間的なヒーローだ。『CASSHERN』は紀里谷監督いわく「なぜ争いはなくならないのか」を表現したかったという。
それに対しては「共に生きることを想像し、まずはお互いを許し合うべきだ」というセリフで一応の答えが語られはするが、この一言だけでは現実社会の争いはなくなりはしないだろう。
もちろんそれは紀里谷監督自身もよくわかっていたに違いない。その後の監督作である『GOEMON』や『ラスト・ナイツ』も根本のテーマはそう変わらない。なぜ人は戦うのか、言い換えれば、なぜ人は平和になれないのか。それは『GOEMON』では権力や憎しみの連鎖、『ラスト・ナイツ』では同じく権力の否定、物質的な豊かさへの懐疑の視点が盛り込まれた。
紀里谷監督の作品が批判されがちであるのも理解はできる。どの作品にもいささかの説教臭さが漂うからだ。説教を説教と思うのは、それが完全な真実を捉えていないからだろう。忘れられない憎しみも憎しみも過去の歴史もある。時にそれは国家単位、民族単位のアイデンティを形成していることもある。経済的な豊かさを否定したくなるのもわかるが、経済的な豊かさは時として命にも関わるものになる。コロナ禍で人命を優先するあまりに経済を冷え込ませ、かえって自殺者が増えたのは記憶に新しい。
それらの圧倒的な現実にどう向き合っていくべきなのか。
『世界の終わりから』
『世界の終わりから』はその問いに対して、これまでより一歩踏み込んだ答えを探す映画になっている。
紀里谷和明監督はどこまでも理想と現実の葛藤を追求するクリエイターでもある。個人的には作品の評価関係無しに常に注目している映画監督だ。作る映画と同じくらいに「この人は何を考えているのだろうか」とその思想も知りたくなるのだ。私にとってそんな映画監督はほとんどいない。ある意味では思想家や哲学者のような存在でもある。コマーシャリズムが氾濫する今の映画界には貴重な人だと思う。
『世界の終わりから』は2023年に公開されたファンタジー映画だ。主演は伊東蒼が務めている。
ファンタジー映画とは言っても『世界の終わりから』は紀里谷和明監督の映画の中では初めて現代社会を舞台にした映画でもある。
まずはその画面の美しさに見惚れてしまう。一コマ一コマがグラビアとしても遜色ないほどだ。紀里谷監督の『CASSHERN』や『GOEMON』はほぼ全編に渡ってCGを多用しているため、グリーンバックでの撮影が多かったそうだが、今回はロケやセットでの撮影が主だ。そのために余計に構図やアングルの素晴らしさがダイレクトに伝わってくる。
最初のシーンではモノクロの画面の中で少々が森の中を駆け抜けている。時代は分からないが、戦国時代くらいだろうか。場所は服装から判断するとモンゴルや中国あたりが近いかもしれないが判然としない。
少女が入った森の中は無数の侍の死体や傷ついた人達で溢れている。このシーンでは血だけがカラーになっている。なぜ血だけに色がついているのか、それは物語が進むに連れて明らかになる。
そして、一軒の家にたどり着く。だがそこにも女性の死体がある。少女の母親だ。その家は彼女の家だったのだ。
絶望の世界
場面は変わって老女が病院で亡くなる。付き添いで看病していた高校生の女子は医師からの死亡宣告に涙を流す。
彼女の名前は志門ハナ。彼女は伊酒屋でアルバイトをしている。忙しく、幼馴染のタケルとの約束も守れずにいる。両親を事故で失い、祖母まで亡くしたハナは進学を諦め、高校を卒業したら働こうと決めていた。「だって、どうしょうもないじゃん!」ハナはなぜ進学しないのか問うタケルに思いをぶつけてしまう。
ハナは学校でも孤立している。話しかけるのはタケルだけだ。タケルは生まれつき足が不自由で器具を使っている。二人とも周囲を馴染めずに孤独なのだ。ハナに至ってはクラスメイトにある弱みを握られカツアゲのターゲットにもなっている。孤独で世界に絶望している少女、それが志門ハナだった。
そんなハナのもとに警察の人間と名乗る江崎という男性とその同僚の佐伯という女性がが現れる。ハナに夢の内容を教えてほしいという。あまりに唐突なことで、ハナは彼らに対する恐怖心から夢を見ていないと答えてしまう。
だが、その夜ハナは再び夢を見る。夢の中でハナはあの少女と出会い、森を抜けてある場所へたどり着く。そこには一人の老婆がいた。老婆はハナを「待っていた」と言い、あるお願いをする。自分は追手の侍たちにこれから殺されるから、ある手紙を祠まで届けてほしいと言う。ユキというその少女についていけばいいからと言い残し、老婆はまもなく現れたサムライに惨殺される。
翌日、学校に登校したハナは江崎と佐伯にどこかへ連れて行かれる。そこはある秘密の場所だった。そこにいたのは夢で殺された老婆と全く同じ老婆だった。
老婆はある本をハナに見せ、この本にはハナの過去と未来のすべてが記されているという。だが、ハナの未来のページは残りわずか。他の人の本のページも同じ所で途切れていた。なぜか。その答えは14日後にこの世界が終わってしまうということだった。あまりに唐突かつ荒唐無稽なことにハナはにわかに信じられずにいるが、老婆は誰も知らないハナの秘密を言い当てる。その言葉にハナは夢の内容を少しずつ話し出すのだった。内容を聞いた老婆は江崎に指示を出す。
帰り道、ハナは政府は電気を段階的にストップさせ、原発も停止する計画を実行したことを知らされる。
その数日後、地震が起きたが、ハナが夢の内容を伝えたことで、事前に電力も止めておいたために甚大な被害にならなくて済んだのだった。
だが、ハナは自分にはできないと世界を救ってほしいという江崎からの申し出を断ってしまう。しかし、タケルからの言葉でハナは世界を救うために江崎らへ協力することを伝える。
こうしてハナは夢の中でユキとともに祠を目指し、その道中の出来事を現実世界で老婆に伝えることとなった。
こんな世界、なくなればいい
『世界の終わりから』は一人の世界に絶望した少女の話だ。ハナは心の奥底には「こんな世界、なくなればいい」と思いながら生きている。どうしようもない運命に希望は押しつぶされ、諦めと絶望の中で生きている。なぜそれでも生きるのか?その答えもないままに。この志門ハナというキャラクターは紀里谷監督自身の投影でもある。
「僕は『ラスト・ナイツ』の頃から、とにかく絶望していたんです。映画にも自分自身にも絶望していたし、社会にも絶望していました。ありとあらゆるものに絶望していて、死んでしまおうかとも思った時期もありました。」
夢とは言っても、もう一つの世界へ飛び込むというのはここ最近流行っているマルチバースを彷彿とさせる。2023年に公開されたアカデミー賞の作品賞に輝いた『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』も、2022年に公開されたマーベル映画の『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』もマルチバースをテーマにした作品だ。日本で言うなら異世界転生モノもそうだろう。こうした世界観の作品の定型は、違う世界なら冴えない自分でもヒーローになれるということがある。それも努力も何もなしで。夢のような話だが、そもそも世界自体違うから何でもアリだ。
だが『世界の終わりから』はそうではない。ハナはただユキについていくだけで、夢の中でもヒーローとは程遠い。
紀里谷監督はハルの持つ絶望は監督自身もさることながら、世の中の多くの人が持っているものかもしれないと述べる。
つくづく『CASSHERN』の頃とは時代が変わったと思う。『CASSHERN』で描かれた強烈な厭世感にも紀里谷監督の絶望は反映されていたと思うが、それはあくまでも個人的なもので、社会全体を反映したものではなかったからだ。今は例え個人的な絶望を描いたとしても、世間はそれを社会全体の絶望として受容することもできる、そんな時代だということだ。
世界が滅ぶことは本当に悪なのか?
『世界の終わりから』はここで大きな問いを投げかける。
世界が滅ぶことは本当に悪なのか?
『世界の終わりから』ではこれまでの紀里谷作品と同じく、人間の醜さや愚かさをたっぷり描いている。
総理という最公権力の座を狙って政策の影にハナの存在があることをリークし、彼女を操ろうとする官房長官。またハナの存在が世間に明るみになったときに匿名という仮面でハナへの攻撃を始めるネットユーザーたち。のオスカー・ワイルドは「人は画面を被ったときに本当の姿を見せる」という至言を残しているが、まさにその通り。
そして、ハナの夢に登場し、夢の中で老婆を惨殺した「無限」という男。無限は絶望を具現化したと言えるキャラクターだ。物語の途中で、ハナの夢はただの夢ではなく、遠い昔の過去の世界だということが明かされる。無限はその時代から決して死ぬことなく生き続けている異形の存在だ。無限はハナが慕うようになった佐伯を殺し、江崎も手にかける。そして、この世界もまた夢ではないのか?とハナに突きつける。
無限というキャラクターはいまいちその目的が不明なキャラクターでもある。『ダークナイト』のジョーカーのようなイメージだ。無限はハナがいて初めて成り立つキャラクターだ。ハナの中に芽生えた小さな喜びや信頼を次々に破壊していくキャラクターでもある。
官房長官の暴露によってハナが街に出ると多くの野次馬がハナに群がるようになる。江崎はハナを守るが傷を負ってしまう。その傷跡をハナはメイクで上手く隠していく。ハナの優しさに江崎はこれまでの自分の経歴も名前も架空のものだという秘密を打ち明ける。だが、ハナは江崎が嘘をついていた事実にショックを受ける。そんなハナに江崎は世界が終わらなかったら本当の名前を告げると約束するのだった。
ちなみに官房長官を演じるのは高橋克典、無限を演じるのは北村一輝だ。超有名役者はほんの数名という今回のキャスト陣だが、やはり悪役をしっかりした存在感と知名度の高い役者が演じることで独特の迫力を生み出すことに成功していると思う。
もう一人のハナ
ハナは夢の中で祠にたどり着き手紙を渡すが、世界は何も変わらない。祠の中にあったのは他でもない自分だった。思い出したくない記憶、祖母の痛み止めを買うためにクラスメイトの指示で売春せざるを得なかった日のことだった。
祠へ行ったことで願いを叶えたのはユキだった。彼女もまた孤独と絶望の仲で過ごし、「この世界が終わればいい」と思っていたのだ。ユキはサムライを呼び出し、片っ端から殺していく。ハナが叫んでもユキの殺戮は止まらない。
ユキはもう一つのハナ自身だった。
運命を変える代償
現実に戻ったハナは世界を救うことをあきらめる。そして、世界の終わりの日を迎える。
ハナの部屋に老婆が訪れる。彼女はなぜハナが世界の終わりを救う役割を担ったかを伝える。実はハナの家系は代々その役割を負ってきたのだった。ハナの母も、その母もそうだった。
だが、彼女たちもまた未来を知ることができていたのなら、なぜ母はハナを置いて死んでしまったのか?老婆はその真実を伝える。ハナは心臓の病気で7歳で死ぬ運命だった。だが、ハナの母は自分のために運命を変えてはならないという掟を破って、ハナが生き延びるように運命を変えた。その代償は自分とそれ以上のもの。母は自分の命に加え夫の命まで引き換えにしてハナを救ったのだった。
誰しも愛されて生まれてきたという言葉は少し綺麗事もあるかもしれない。だが、決して間違いではない。どこにでも誰にでもあるありふれた奇跡だ。だからこそ胸に迫るものがある。
その一点だけでも生きていく価値はある。あなたを愛する人が強烈に望んだ生なのだから。
個人的にも強く思うことだが、絶望の淵にいるときに人を救い上げることができるのは愛だと思う。無償の愛、それは例えば何気ない笑顔や会話だってそのひとつかもしれない。もちろん場合によっては金も否定しないが。
ハナは江崎の助けを得てもう一度ユキの世界へ行く。無限の言うように、江崎が死んだ世界もまた夢だったのだ。だが、ハナの選択によって世界の終わりまでもう間もない。ハナを恨む者たちの襲撃を江崎たちはなんとか交わしながら、ハナは老婆の元へたどり着く。
ハナがユキを止めるために下した決断は、夢の中の世界で生きていくということだった。
現実の色
このときに夢の世界は初めて色がつく。そう、色の意味は「現実」だったのだ。夢の中では血の赤と無限の服の赤、炎の色だけがカラーだった。血の赤も、無限という存在も、人々を火炙りにした炎もすべて絶望の象徴だからだ。絶望だけがハナの現実だったからだ。
ユキの世界で生きていく。そう決めた瞬間、再び死んだはずのサムライが蘇る。なぜユキを救えないのか。
老婆によって目覚めさせられたハナは本の切れ端を託される。
老婆もまた世間の人々の襲撃に遭い、殺される。ここで注目したいのは江崎や老婆を襲う人々がみなヘルメットなどで顔を隠していることだ。仮面の下の本性はネット社会も現実社会もそう変わらないということだろう。
ハナは世界を救えなかった。
「私達は優しくないし、身勝手だった。もう少し早く気づいていたら」
これは紀里谷監督が今の社会へ向けたメッセージでもあるだろう。どこにでもいるような主人公が世界を救う。そんな物語はありきたりだが、リアルじゃない。
映画の中ではわかりやすく世界中に隕石が降り注いでいたが、現実世界ではもっと小さなことでも簡単に日々世界は終わっている。例えばSNSの誹謗中傷で誰かが命を断つ。その誰かの世界はそこで終わっている。もう少し早く自らの行いに誰も気づけていたら、このような悲劇は無くせたのではないか?
未来への希望
ハナはテープレコーダーと本の切れ端をタイムカプセルに入れて校庭に埋める。
世界の終わりから、ハナは未来へ希望を託したのだ。
時は経ち、遠い未来、ただ一人の人類がそのタイムカプセルを開けて、テープレコーダーのメッセージを聴く。
そして、ユキの世界へ飛び、ユキが来る前に侍たちを殺す。ユキは死体だらけの森を抜けて家へ帰る。そこには母の笑顔があった。
未来人はその様子を見届けて消える。彼女もまた運命を変えるために代償を払ったのだ。
※…もちろん、あれだけ暴力を否定していたハナのかわりに未来人がいともあっさり暴力で無理やりハッピーエンドを作り上げた感じは否めない。何しろ背を向けて逃げる侍まで容赦なく撃ち殺すのだから、いくらなんでもそれはどうかと言いたくなる。もしかしたら、暴力の上に平和が成り立っている私達の現実を表端的に現したのかもしれないが。
そして、もう一つの世界。そこには両親と過ごすハナの姿があった。ハナは車の中に男性用のメイク道具が落ちているのに気づく。
江崎の本当の名前は志門であり、もう一つの世界ではハナの父親になっていたことが示唆されている。
あなたはこの世界をどうしてみたい?
ハナから私達への問いかけで映画は幕を下ろす。
エンドロールを観ながら、希望という言葉が頭をよぎる。そういえば『CASSHERN』の最後のセリフもそうだった。
「希望、それが俺とルナの子供だ」
『世界の終わりから』は絶望の世界で希望を見つけていく話だった。絶望も戦争も争いも憎しみも苦しみも無くすことはできない。だが、それでも希望はどこかにある。愛されて生まれてきたのだから。
『世界の終わりから』を観て紀里谷和明監督の新作映画をあと数本観てみたいと心から思った。
身勝手だが、もったいないとつくづく思う。