『ロボコップ』残酷な世界の鋼鉄のキリスト

※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています


クリント・イーストウッド監督の『グラン・トリノ』で主人公のウォルター・コワルスキーはフォード・トリノを何よりも大切にしていた。
移民たちが増え、治安が悪化してもコワルスキーはデトロイトに住み続ける。
それはなぜか。ポーランドからの移民であり、フォードの熟練工だったコワルスキーにとって、デトロイトはアメリカン・ドリームを実現させた場所だったからだ。

犯罪都市デトロイト

デトロイトはかつて自動車産業の中心地として栄えた。
最盛期にはデトロイトの人口は180万人に達した。これは日本の札幌市に匹敵する規模だ。
しかし自動車も安く性能に優れた日本車が市場に入ってくると、経済の多くを自動車産業に負っていたデトロイトは次第に没落していく。
そしてデトロイトは犯罪都市の代名詞となる。

『ロボコップ』

そんなデトロイトを舞台した作品が1987年に公開された『ロボコップ』だ。
監督はポール・ヴァーホーヴェン。主演はピーター・ウェラーが務めている。
『ロボコップ』の舞台はデトロイトだが、実際のロケはダラスで行われている。近未来の犯罪都市というには実際のデトロイトはあまりに荒廃していたからだ。

『ロボコップ』の原作者はエド・ニューマイヤー。彼は『ブレードランナー』の熱狂的なファンだった。『ブレードランナー』は専任捜査官(ブレードランナー)が脱走した4体のレプリカント(アンドロイド)を見つけ出し始末する任務がストーリーの大きな軸になっている。
ニューマイヤーはこの警官VSアンドロイドという図式からロボットが犯罪者を追うという『ロボコップ』の骨子を着想する。ニューマイヤーは映画監督のアレックス・コックスに紹介されたマイケル・マイナーとともに『ロボコップ』の脚本作りを進めていく。ちなみにロボット警官というアイデアはマイナーの発案のようだ。

『ロボコップ』のプロデューサーであるジョン・デイビソンは『ロボコップ』の制作に向けて資金を募るが、大手のメジャースタジオからはどこも断られてしまった。当時スーパーヒーロー物は子供向けの映画と見なされており、人気がなかった。唯一『ロボコップ』を相手にしてくれたのはオライオン・ピクチャーだけだった。
オライオン・ピクチャーは低予算で作られたSF映画『ターミネーター』をヒットさせており、サイボーグものへの抵抗も薄かった。だが、かといって『ロボコップ』はヒットを期待されていたわけではない。予算として計上された額は14万ドル。超低予算で製作された『ターミネーター』の倍程度という金額だった。
当然、監督も有名な監督は雇えない。そこで白羽の矢が立ったのがオランダからハリウッドにやって来て間もないポール・ヴァーホーヴェンだった。

ポール・ヴァーホーヴェン

ヴァーホーヴェンはハリウッドで1985年に『グレート・ウォリアーズ/欲望の剣』を撮ってはいたが、当時ハリウッドで撮った作品はその一作だけであり、ヴァーホーヴェンはハリウッドの無名監督の一人であった。
だが、当初はヴァーホーヴェン自身も『ロボコップ』の監督のオファーには乗り気ではなかった。タイトルの幼稚さが気に入らず、脚本も読まずにそのまま、ゴミ箱に捨ててしまったそうだ。
だが、妻のマルティーヌが「シェイクスピアとは違うけど奥が深い作品よ」とヴァーホーヴェンに再読を促した。
そして、ヴァーホーヴェンはもう一度脚本を手に取った。するとヴァーホーヴェンはその作品に夢中になった。「暴力や犯罪が蔓延しているアメリカ社会そのもの皮肉に描いている」そう感じたからだ。
そして、子供向けと思われていたロボット警官の企画もヴァーホーヴェンの手にかかれば、トラウマものの残虐描写が続く。
スターシップ・トゥルーパーズ』などでも容赦ない人体破壊シーンが見られる。レイティングを意識して表現が穏やかになっていく映画界において、ヴァーホーヴェンの表現は挑発的とも言える。2016年に公開された『ELLE エル』のインタビューでヴァーホーヴェンは「挑発とは世界をありのままに映すこと」と答えている。

ヴァーホーヴェンは1938年、第二次世界大戦下のオランダ・アムステルダムに生まれる。幼少期をハーグで過ごしたヴァーホーヴェンだが、当時のハーグはナチス・ドイツの軍事基地があったために、味方であるはずの連合国軍から激しい爆撃を受けており、日常的に死体がころがっているような環境だったという。
ヴァーホーヴェンは暴力やセックスについて「日常的なこと」と答えている。
そんな暴力にまみれた街が舞台の『ロボコップ』は正にヴァーホーヴェンの持ち味を存分に発揮できる作品となった。

レーガノミクスの極致

『ロボコップ』の舞台となったデトロイトの衰退は冒頭で述べた。
もうひとつ見ていきたいのは民営化というキーワードだ。1980年にロナルド・レーガンは第40代大統領に就任した。当時のアメリカを悩ませていた貿易赤字と財政赤字に対して、レーガンは官から民の動きを推し進め、規制緩和によって市場競争力を高めようとした。いわゆるレーガノミクスだ。
しかし、レーガン政権の第一期が終わる頃には貧富の拡大とカーター政権を上回る不況を生み出してしまう(レーガン政権の経済政策について、詳しくは『ウォール街』の解説を参照されたい)。

『ロボコップ』で主人公のマーフィが所属するデトロイト市警も民間企業であるオムニ社が「経営」している。つまりこの当時にアメリカ社会で行われていた民営化の流れの最も極端な例を映画で描いているとも言える。
警察までもが民営化されたらどうなるのか。

デトロイト市警はオムニ社に対してストライキ寸前の状態に陥っている。犯罪が蔓延するデトロイトでは警官たちの殉職率も高く、彼らの士気も下がっていた(ちなみにアメリカでは日本とは違い、公務員にもストライキ権が保証されている)。
そこでオムニ社は人間の代わりにデトロイトに治安維持用のロボットとしてED-209を投入しようとする。

だが、そのプレゼンテーションで事故が起きる。銃を持った犯人役に社員のケニーが選ばれる。20秒以内に銃を捨てるようにとED-209から警告を受け、ケニーは銃を由夏に投げ捨てるが、ED-209はケニーが銃を捨てたことを認識できずに、無抵抗のケリーを殺害してしまう(認識できなかった理由としては「床がやわらかく、銃を捨てた音が認識できなかった」かららしい)。
ここで、ヴァーホーヴェンはケリーの死をギャグのように撮っている。有線接続であるはずなのに操作が効かず、配線を引きちぎってようやく機能停止するなど、そのポンコツっぷりはまるでコントのようだ。
未公開映像ではケリーの死すらも認識できずに遺体に銃弾を打ち込み続けるなど容赦ない描写が続く。
ED-209の責任者であるジョーンズに代わって、モートンが進めていたロボット警官の案が進められるようになった。だがそれには新鮮な警官の遺体が必要だった。

キリストの受難

デトロイト市警に赴任して間もないアレックス・マーフィは、同僚のアン・ルイスとともに多くの警官の殺害容疑で指名手配中のクラレンス一味を追っていた。
マーフィは彼らの隠れ家にたどり着いたが、そこでクラレンスらから返り討ちの目に遭ってしまう。
『ロボコップ』のマーフィにはイエス・キリストが重ねられている。
マーフィはクラレンスらから凄惨な暴行を受ける。右手、右腕を吹き飛ばされ、全身に銃弾が撃ち込まれる。
ヴァーホーヴェンはこの場面について「キリストの磔刑を意味している」と述べている。確かにその様はキリストの受難を思わせる。そして、マーフィは頭を吹き飛ばされて死亡する。

イエス・キリストはその死から3日後に復活する。だがマーフィは違う。人間としてではなく、感情を持たないロボットとして復活するのだ。ロボコップはオムニ社が所有するモノに過ぎない。ロボコップの人間の部分は口元しか見えない。顔の上半分や全身は金属に覆われている。そのために余計に人間性を排除しているように思える。
だが、同僚のアンから名前を問われたり、自分を殺害した男から「なぜ生きている?」と言われたことでロボコップは自分の過去を探り始める。そして、自分がクラレンス一味に殺され殉職したアレックス・マーフィであることを知る。
この「自我を持たないロボットが時間とともに自我に目覚めてくる」という流れは『ブレードランナー 』のレプリカントと同じだ。
だが、どれだけ人間に近づいてもレプリカント同様にロボコップは人間ではない。

ロボコップはクレメンスとジョーンズが結託していることを知ると、ジョーンズの逮捕へ向かうが、ロボコップにはオムニ社の役員には逆らえないという極秘プログラムが施されていた。ロボコップはジョーンズによって警官殺しの罪を着せられ、ED-209によって満身創痍になる。
ロボコップはアンの助けを借りて、製鉄工場へ身を隠す。

ロボコップと人間性

ここでアンとロボコップはベビーフードの瓶を標的にして、遇わなくなった照準を修正するのだが、このシーンはアンとマーフィがどれだけ親密になっても彼らの間に子供を作ることはできないということを示している。
余談だが、ヴァーホーヴェンはロボコップの股間のデザインを巡って、デザイナーのロブ・ボッティンと対立があったという。ボッティンはロボコップが着ぐるみであることを考慮し、股間部分を作ろうとした。対してヴァーホーヴェンは股間を削ろうとしていたのだ。ついには股間をどうするかで大喧嘩にまで発展したという信じられない話もある。
ヴァーホーヴェンはロボコップを性別を超えた存在にしたかったという話がある。確かに、人間性を剥ぎ取られオムニ者所有のメカとして誕生したことを考えると、ロボコップに性を暗示するディテールは不要だ。
だが、徐々にロボコップがマーフィとしての自己を取り戻すようになると、削られた股間がなぜかマーフィーがどうしても人間にはなれないことの象徴として浮かび上がってくる。

『ロボコップ』のストーリーに話を戻そう。
ジョーンズの命令を受けたクラレンスは新型武器のコブラ・アサルト・キャノンを携えて製鉄工場へ乗り込んでくる(クラレンスを演じたカートウッド・スミスによると、このコブラ・アサルト・キャノンの実物は大層軽かったようで、重く見せる演技に苦労したそうだ)。
ロボコップの狂いのない銃撃により、クラレンス一味は次々に殺されていく。一味の一人であるエミールは車でロボコップを轢き殺そうとするが、ロボコップの攻撃に怯み、有毒廃液のタンクに車ごと突っ込んでしまう。
この有毒廃液ではこの映画の中でも屈指のトラウマシーンではないだろうか。少なくとも私はそうだ。
エミールの体が廃液でドロドロに溶けて行くのはまだ許せるが、車(しかもそこまでスピード出ていない)にはねられ、体が四散するというのは流石にメチャクチャで、ヴァーホーヴェンらしさを存分に感じることのできるシーンでもある。

そして、ロボコップはとうとうクラレンスを追い詰める。このシーンのロボコップもやはりキリストに重ねられている。
この時、ロボコップは水溜まりの中を歩いてクラレンスに近づいていくのだが、その様子は水の上を歩いているようにも見える。「水の上を歩く」行為はイエス・キリストが起こした奇跡のひとつであり、イエスが神の御子であることを示している。
アンがクラレンスに銃撃され、息も絶え絶えになる中、ロボコップは罠にかかり、鉄骨の下敷きとなる。クラレンスはロボコップを鉄の棒で突き刺すが、ロボコップは手に仕込まれたデータスパイクでクラレンスの首元を突き刺す。

オムニ社に向かったロボコップは、会議の場に乗り込むとジョーンズが殺人犯であることを会長らに暴露する。ジョーンズは会長を人質にとるが、ロボコップはオムニ社の役員に逆らえないプログラムのため、ジョーンズに攻撃できない。だが、会長がジョーンズに「お前は首だ!」と叫んだため、ロボコップはジョーンズを銃撃し、ジョーンズは窓から階下へ落下していく。
すべてが終わり、会長はロボコップに名前を訪ねる。
「マーフィ」
ロボコップはそう言って会議室を後にする。

ロボコップは人間になったのか?

『ロボコップ』はメカとして生まれ変わったマーフィが自分を取り戻す物語でもある。
だが、『ロボコップ』の中で自分を取り戻すということは、プログラムではない人間らしい倫理観を持つということと等しいように思う。
ロボコップを人間というならば、理不尽な目に遭って失われた家族や愛情への執着は驚くほど希薄だ。そこにはある意味ではもう自分は(名乗るならば「マーフィ」だが)かつてのマーフィではないとう思いもあるのだろう。

ロボコップはロボットか人間か、その問いは『ロボコップ2』に引き継がれていく。

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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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