『哀れなるものたち』は女性の自立だけの映画なのか?R18の裏にある「人間」への問い

ゴジラ-1.0』以来、三ヶ月ぶりに映画館へ足を運んだ。単純に『ゴジラ-1.0』ほど観たい映画がなかったのだ。
ただ、予告編を観てこれは観ておきたいと楽しみにしている作品はあった。それが今回解説する『哀れなるものたち』だ。

『哀れなるものたち』

『哀れなるものたち』は2024年に公開されたヨルゴス・ランティモス監督、エマ・ストーン主演のSFファンタジー映画だ。
今作だが、予告編を観る限りはファンタジックで少し奇妙でグロテスクなユーモアに溢れた作品なのだろうと思っていた。ギレルモ・デル・トロやティム・バートンが作りそうな、キュートでもどこか歪んだ世界観の作品を期待していた。

ただ、いざチケットを買おうとするとR18となっているではないか。えっ、そんなにグロテスクな作品なの?と思って観ていたが、グロテスク以上にエロティックな作品で驚いた。
よく女優のヌードシーンを「体当たりの演技」と表現したりするが、そんな言葉さえ陳腐になるほど、エマ・ストーンの脱ぎっぷりは衝撃だった。
主演のエマ・ストーンは今作の製作にも名を連ねているが、何がそれほど彼女を惹きつけたのだろうか?

「私がベラを演じたいと思ったのは、それが女性であること、自由であること、そして怖くて勇敢であることを受け入れているように感じたから」

『フランケンシュタイン』

エマ・ストーンが演じるのはベラ・ベクスターという25歳の女性。彼女は海へ身を投げて自殺した妊婦だったが、天才外科医であるゴッドウィル・ベクスターの手によって胎児の脳を移植され再び生き返ったのだった。
この設定からもわかるように、本作は『フランケンシュタイン』に強い影響を受けている。今日知られている『フランケンシュタイン』は、1818年に『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』のタイトルで出版された。作者はメアリー・シェリー。詩人のパーシー・シェリーの妻である。
ベラの「大人の体に子供の心を宿している」という設定はフランケンシュタインの怪物の一つの真実の姿でもある。メアリー・・シェリーの原作における怪物は最初から凶暴なモンスターだったわけではない。外見的な醜さはあれど、その内面は無垢な子どものようでもあったのだ。

『フランケンシュタイン』からの影響は登場人物の名前に特に顕著に表れている。ベラに再び命を与えたゴッドウィンの名前はメアリー・シェリーの父親であるウィリアム・ゴドウィンから来ているのだろう。ウィリアム・ゴドウィンは無神論者だったが、『哀れなるものたち』の劇中でも、ゴッドウィン・ベクスターが無神論者であることを示唆するセリフがある。
また、ベラとゴッドウィンの姓であるベクスターだが、これはメアリー・シェリーが若い時の一時期に預けられた父の友人の名前だ。
ちなみにベラが自殺する前の本当の名前はヴィクトリアなのだが、これはヴィクターの女性版の名前だ(よくある間違いだが、フランケンシュタインとは怪物の名前ではなく、怪物を創造したヴィクター・フランケンシュタインのことだ)。

加えて、小説同士の構造の共通点についても述べておこう。『哀れなるものたち』はゴッドウィンの助手であったアーチボルド・マッキャンドレスが著した本を作者のアラスター・グレイが編集したという体裁をとっている。『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』も同様に北極探検隊のロバート・ウォルトンが姉のマーガレットに向けて書いた手紙という体裁で書かれており、どちらも枠物語のスタイルを採っている。

メアリー・シェリー

だが、最も強く影響を受けているのは、メアリー・シェリーという女性の生き方そのものに他ならないだろう。
物語の冒頭、ベラはあたかも動物のような振る舞いをしている。トイレもマトモにできずに垂れ流す。しかし、そこからベラは加速度的に成長していく。家の外の世界に憧れ、ゴッドウィンの助手のマックス(原作におけるアーチボルド・マッキャンドレス)と婚約していながら、家を訪れた弁護士のダンカン・ウェダバーンとともに駆け落ちして世界への旅へ向かう。
メアリー・シェリーも妻子ある身のパーシー・シェリーと駆け落ちした。当時の女性としてはかなりの勇気ある奔放な行動で、父のウィリアム・ゴドウィンはメアリーに激怒したが、メアリーは父の制止を振り切ってシェリーとともに生きることを選んだ。
メアリーの母はフェミニストの先駆的存在でもあるメアリ・ウルストンクラフトだが、メアリーを生んだ11日後に死去している。その後父のウィリアム・ゴドウィンは別の女性と結婚するが、メアリーは継母との折り合いが悪く、記憶もない母の墓の前が一番安らげる場所であったという。
メアリー・シェリーの半生は2017年に公開された『メアリーの総て』で映画化されている。そこではメアリーが母の墓の前で小説を読む場面から映画が始まる。幼いメアリーは怪奇小説を愛読しているが、一方で母親の本にも親しんでいる。メアリーが母同様のフェミニズム的な思想を引き継いだとしてもおかしくない。

外の世界へ

ベラもまた行動的で奔放であった。精神年齢が胎児の頃から幼児、少女、大人へと急激に進化していくが、それでもその成長過程では一貫して好奇心旺盛な人物として描かれていることにも注目したい。何も知らない世界に対して怖がって萎縮するのか、それとも飛び込むのか。
ベラは後者の人間なのだ。外の世界へ飛び込み、そして様々なことを吸収する。性の悦び、マナーや振る舞い、哲学や思想。その圧倒的な成長の中で次第にダンカンとの関係も逆転していく。
ダンカンは最初はベラを遊びの相手程度にしか考えていなかったが、次第にベラに本気で恋するようになる。そして、嫉妬心からリスボンを楽しむベラを監禁し無理やり船に乗せ、次の街アレクサンドリアへ向かう。

ベラは船の乗客である老婦人のマーサと黒人青年のハリーと知り合う。ベラは二人から哲学や思想を学ぶ。
特にアレクサンドリアで子供が次々に暑さの中で死んでいくという絶望的なまでの貧しさを目の当たりにしたベラは、深く悲しみ、社会をどう良くするかということを考え始める。その結果、ダンカンがギャンブルで儲けたお金を全て「貧しい人に与えて」と船員に渡してしまう。

無一文となったダンカンとベラはパリで降ろされる羽目になった。パリでベラはお金を得るため、それまで純粋に悦びのためだった自分の体を「性の商品」として利用し、娼婦となる。そして黒人娼婦のトワネットと友人になり、社会主義運動に傾倒していく。

産業革命がヨーロッパで起きると、貧富の差は拡大した。貧しいものの中で盛り上がりをみせたのが社会主義運動だ。富の分配によって誰もが平等に豊かさを得るというのは確かに貧しい者からしたら理想的な社会だろう。
アレクサンドリアで世界の貧しさを見て、パリで貧しさを体験したベラが社会主義に希望を見出すのは自然なことのように思える。

怪物ども

だが、父代わりだったゴッドウィンに死期が近づいたため、知らせを受けたベラはロンドンへ戻る。そこで聞かされたのは、自身の残酷な出生の秘密だった。ベラはゴッドウィンとそれを知りながら隠していたマックスへの怒りを爆発させる。
「怪物どもめ!」
本当の怪物とは何だろうか。それは決して異形のモンスターではない。

ベラはマックスと関係を修復し、結婚式を挙げるが、その場に乱入してきたのは、自殺する前のベラ(ヴィクトリア)の夫のアルフィーだった。自分の過去を知りたくなったベラはマックスやゴッドウィンの静止を振り切り、アルフィーについていく。
だが、そこで知ったのはアルフィーの冷酷な本性と、また自らも冷たい女性だったという事実だった。

アルフィーはヴィクトリアがパリで娼婦をしていたという事実を知り、ヴィクトリアのクリトリスを切除しようと企む。アルフィーはマスキュリズムの極致のような男であり、妻もまた自分の所有物としか思っていなかった。アルフィーこそが本当に怪物のような男だったのだ。
逃げようとするヴィクトリアにアルフィーは銃を突きつけて、クロロホルム入りのマティーニを飲ませようとする。しかし、ヴィクトリアは一瞬の隙をついて銃を奪い、アルフィーの足を撃つ。

ベラは出血多量で市の危険に陥ったアルフィーを救おうとマックスらの下へ連れ帰る。そして、マックスの手も借りてアルフィーをより良いものにするためにある手術を行う。

『哀れなるものたち』の原作は前述のように(マックス)からの視点だが、映画はベラの視点であることが大きな違いだろう。つまり、映画の観客はベラの成長を通して、改めてこの世界を知っていく。世界には希望や快楽だけではない、ダンカンのような醜さ、アレクサンドリアのような貧しさ、アルフィーのような残酷さ。善と悪、富と貧しさ、優しさと冷酷さ、世界はそれらが渾沌と入り混じって溢れている。

そして、ベラはゴッドウィンの後を継いで医者になることを宣言する。
ベラが最初に職業として選択したのは娼婦だった。歴史上でも女性の最初の職業は娼婦だと言われている。一方で女性の医者が初めて誕生したのは19世紀になってから。1859年に医者となったエリザベス・ブラックウェルが女性初の医師となった。
ベラの職業の変遷を取ってみても、古代から現代までの女性史(女性の社会進出)の歩みそのものを表しているのではないかと思う。

「哀れなるもの」とは?

ただ、個人的には『哀れなるもの』がベラを通して女性の自立を描いただけの映画だとは思えない。
エンディングでは、ベラがマックスやトワネットらとともに楽しそうに暮らしている。しかし、その庭にいるのは、ベラ同様、死体から蘇った女性のフェリシティ、そしてヤギの脳を移植され、四つん這いで草を食むアルフィーの姿だった。犬畜生にも劣るという言葉があるが、実際に犬畜生にされたアルフィーが哀しく映る。その様子を見ながら微笑むベラの表情に狂気を感じてしまうのは私だけだろうか。
先にヴィクトリアはヴィクターの女性名だと書いた。『フランケンシュタイン』でヴィクターは怪物を生み出したが、倫理を無くした行為に手を染めたヴィクターもまた怪物ではなかったか。

アラスター・グレイの原作ではその後のベラの人生が描かれる。ベラは「ヴィクトリア・マッキャンドレス」の名で医者となる。
怪物を憎んでいたはずの彼女もまた怪物になってしまったのか?

「哀れなるもの」とはベラでもダンカンでもゴッドウィンでもなく、私たち人間そのものではないか?否応なく、光と影が入り混じってしまう我々の業こそが哀れではないのか?

ベラの微笑みの裏にはその問いが隠されているように感じる。

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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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