『ジュラシック・パーク』生命は道を見つける

※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています


『ジュラシック・パーク』シリーズは休止期間を含みながらも、最新作『ジュラシック・ワールド 新たなる支配者』まで計6作、約30年にもわたるシリーズとなった。今回はその始まりとなる第一作目の『ジュラシック・パーク』を解説していこう。

『ジュラシック・パーク』は1993年に公開されたスティーヴン・スピルバーグ監督、サム・ニール主演のSF映画だ。原作はマイケル・クライトンが1990年に出版した同名小説。
マイケル・クライトンは子供の頃からコナン・ドイルの小説『失われた世界』に夢中だったという。それは本作『ジュラシック・パーク』の続編小説に『ロストワールド』の名をつけたことからも明らかだ。

『失われた世界』は1912年に出版された小説で、人類が未だ到達していないアマゾン奥地の隔絶された台地で、人類と恐竜たちを始めとする未知の生物との邂逅を描いた作品だ。
『ジュラシック・パーク』執筆の理由についてもクライトンは「『失われた世界』を自分なりに書き直してみたかった 」と語っている。もちろん、それだけではない。当時の最新の恐竜の学説や、人間の驕りや生命倫理、科学技術などのメッセージを盛り込み、ただのエンターテインメントでは終わらせていない。
『ジュラシック・パーク』で発揮されたCG技術の革新性や、恐竜描写が後世に与えた影響などは別の機会にし、今回はこの科学技術や生命倫理の面を中心に解説していくことにする。

『ジュラシック・パーク』は輸送中のヴェロキラプトルが作業員を食い殺す場面から始まる。
遺族からパークに抗議の声が上がり、投資家もパークの安全性に懸念を示す。その批判に反論するために社長のハモンドは弁護士や各界の専門家たちオープン直前のパークに招き、安全性を証明させようとする。考古学者のアラン・グラント、古生物学者のエリー・サトラー、数学者ではカオス理論を研究するイアン・マルカムらだ(そこにハモンドの孫であるレックスとティムの姉弟も加わるのだが、子供嫌いのグラントが彼らを露骨に避けているのが可笑しい)。

恐竜の再生と生命倫理

『ジュラシック・パーク』では琥珀の中に閉じ込められた蚊やダニから恐竜のDNAを採取し、欠落部分を他の生物のDNAで補い、再生させるという設定になっている。現実的には6500万年前の化石からはDNAのデータはほとんど失われているため、恐竜の再生は不可能という研究結果が発表されているが、琥珀の中のDNAを採取するという方法は1982年から研究されている。
科学の進歩は目覚ましく、不可能とされたことでも数年後には実現することも珍しくはない。
1978年には哺乳類のクローンは絶対に不可能だと言われていたが、その3年後にはクローンマウスの生成に成功している。
そして『ジュラシック・パーク』の公開から3年後にはクローン羊のドリーが誕生する。クローンゆえなのか、急激な老化によって6歳という平均的な羊の半分の年齢で死んだドリーはクローン技術の未熟さと恐ろしさを示すこととなった。
果たして人間が生命をコントロールすることは許されるのか?

イアン・マルカムの予言

『ジュラシック・パーク』において科学技術に一貫して否定的な意見を寄せるのがイアン・マルカムだ。
映画版の『ジュラシック・パーク』はエンターテインメントを前面に出すためなのか、マルカムの台詞は端的に少なくまとめられているが、クライトンの原作ではマルカムの存在はより重要なものとなっている。
マルカムは恐竜の復元方法や繁殖方法を視察し、恐竜たちの生態系まで支配しようとするパークのシステムは制御不能になるという考えを持っている。
『ジュラシック・パーク』では自然下の恐竜の繁殖を抑えるために遺伝子操作で全て雌が生まれるように調整されている。だが、自然の生命は人間の支配の及ばない、予測できない複雑さと強さを持っている。
そのことをマルカムはこう言う。
「生命は道を見つける」

カオス理論とは

ここでマルカムの研究しているカオス理論について少し説明しておこう。
カオス理論とは複雑系とも呼ばれる理論で従来の科学とは一線を画する。明確な因果関係や法則では説明のできないことでもあるからだ。
バタフライ効果という言葉を聞いたことがあると思うが、それこそがカオス理論でもある。
わずか一匹の蝶の羽ばたきが結果とし別の地域で台風となる、つまり因果関係もはっきりしないほどの僅かなきっかけが大きな結果になる。
マルカムに言わせると、最初にコンピューターが作られたきっかけは天気を予測するためだったという。しかし、未だに完璧な天気予報が存在しないように、天気をあらゆる法則、メカニズムを把握すし、未来の天候を予測するのは難しい。天気のメカニズムがあまりに複雑で無数の要素が絡み合って天候という結果になるからだ。
ジュラシック・パークで作り上げられた「生態系」も同じとマルカムは言う。それを管理し、命までも支配しようとするパークのやり方をマルカムは「自然界へのレイプだ」と批判する。
原作においては恐竜との戦いやサバイバルなどのエンターテインメントの側面を背負うのがアラン・グラント、作品に込められたメッセージを読者に伝えるのがイアン・マルカムとその役割はそれぞれはっきり分かれている。

ジュラシック・パークでは視察の裏でエンジニアのネドリーが恐竜の胚をライバル会社のドジスンに売ろうとしていた。胚を盗み出すには一時的にすべてのセキュリティ・システムをオフにしなければならない。怪しまれずに席を離れることのできる時間は18分。なんとかネドリーは胚を取りだし、港へ向かうが、その途中で道に迷い、ディフォロサウルスに食い殺される。
ネドリーの死によってパークの恐竜の柵にかけられていた高圧電流は止まったままになった。
そして、遂に柵を破り、Tレックスがグラントらの前に姿を表す。
実は『ジュラシック・パーク』は恐怖描写も非常に秀逸だ。スピルバーグは既に1975年公開の『ジョーズ』でホラーサスペンスのジャンルにおいてもその才能を証明してみせたが、『ジュラシック・パーク』においてその演出はさらに研ぎ澄まされている。

Tレックスが柵を破る場面から一気にホラーやサスペンスの要素が強くなるが、車内のコップに注がれた水の波紋で何か巨大な生き物が近づいていることを知らせたり、一瞬の間をおいてTレックスのガラス越しの急襲などの演出は本当に卓越している。 ティーレックスから逃れ、樹上でグランドとレックス、ティムの姉弟は一夜を過ごす。
翌朝、木から降りたグラントは恐竜の卵を発見する。遺伝子操作によって繁殖は完璧にコントロールされているはずだったが、やはりそれは不可能だった。
グラントは恐竜の欠損したDNAを埋めるために使用された蛙のDNAによって、恐竜が性転換したのではないかという仮説を唱える。
「マルコム博士は正しかった。『生命は道を見つける』」
そう言ってグラントは満足そうな笑みを浮かべる。まだ自然の奇跡は人間の手の届かない場所に在り続けている。その事実はグラントに安堵をもたらしたに違いない。
グラントは続編の『ジュラシック・パーク3』でジュラシック・パークで造られた恐竜について「あれは恐竜ではない」と発言している。「恐竜に似せて作った別の生物であり、本当の恐竜は6千万年前に絶滅している」と。

逃げ出した恐竜たちはパークのそこかしこに潜み、人間たちを襲っていく。
エリーはフェンスの電流を回復させるためにに向かうが、そこにはすでにヴェロキラプトルが潜んでおり、先に向かったアーノルドを食い殺していた。また、ビジターセンターへ戻ったレックスとティムにもヴェロキラプトルが襲いかかる。
ジュラシック・パークは科学の力で生態系をコントロールしようとした。だがそれはマルカムの言うように人間が支配するにはあまりに複雑だったのだ。
原作ではラプトルの並外れた俊敏性に対応できる武器がないことを遺伝子学者のヘンリー・ウーが危惧する場面がある。この事は人間の非力さと自然の畏しさを象徴しているのではないか。

科学とは何か?

科学技術は間違いなく人類を飛躍的な進歩へ導いてきた偉大な原動力だ。
科学の本質とは何だろう?思い付くままに述べるならそれは「支配」だ。あらゆる公式がこの宇宙には不変の法則があることを教えてくれる。言い換えれば法則が宇宙を支配している。
科学技術と自然は必ずしも対立するものではない。科学の力で砂漠化した土地に緑を甦らせたり、絶滅危惧の生物を保護することも可能だろう。
だが、それでも科学が自然をコントロールしたという事実は変わりないはずだ。

『ジュラシック・パーク』でのイアン・マルカムは原作者のマイケル・クライトンの代弁者としての意味合いも持つ。
マルカムは一貫して科学の力で生命を押さえつけるのは不可能だと主張している。「生命は道を見つける」この言葉は映画の中だけの話ではない。
既に科学技術は取り返しのつかないリスクをも孕むほどの力を手にしていると考える人々は少なくない。
例えば原子力発電所だ。原子力発電に関する個人的な意見はさておいても、が起きれば人の住めないような汚染された地域が出来上がる。
原作において、地球が滅びることについて議論になる場面がある。科学の力は地球を滅ぼすほど大きくなっていると唱えるハモンドに対し、マルコムは核戦争になり、生命の住めない星になったとしてもどこかで生命は生き延びると語る。
核戦争。それが放射能に汚染され、人が住めない地域だとすると、すでに今現在、世界にはそういう地域がある。チェルノブイリそして、日本の福島県の一部もそうだ。
だが、今チェルノブイリでは立ち入り禁止区域内に絶滅危惧種の動物たちが繁栄しているという。また、放射能の高い地域では放射能から身を守るため、メラニンを多く出した黒い蛙が見られるという。興味深いことに、発電所に近づけば近づくほど蛙の体色は黒くなっていっているそうだ。チェルノブイリに生息する蛙は事故から10~15世代の入れ替わりがあったと見られており、その間に驚異の進化を遂げている 。
科学の支配を超えて、生命は実際に道を見つけているのだ。

『ジュラシック・パーク』のクライマックスは原作と映画では全く違う。
原作ではグラントがヴェロキラプトルに毒入りの卵を食べさせたり、ヴェロキラプトルの尻尾に直接毒を注入して殺していく(この後にラプトルの巣穴を探したりするのだが、恐竜との戦いという意味ではこれが最後だ)が、映画ではグラントらがラプトルに囲まれて絶体絶命の時に、音もなく忍び寄ったTレックスがラプトルに襲いかかり、人間とヴェロキラプトルとの攻防はヴェロキラプトルとTレックスの戦いに置き換わる。

人間たちは最後のクライマックスにおいて主役ではなくなる。自然の前に人間がいかに非力で無力であるかは『ジュラシック・パーク』のなかで一貫して描かれてきたことだ。
「WHEN DINOSAURS RULED THE EARTH」と書かれた帯が降りる中、Tレックスの咆哮が響く。WHEN DINOSAURS RULED THE EARTHとは、1970年に公開された映画『恐竜時代』の原題だが、直訳すれば「恐竜が地球を支配していた時代」となる。
恐竜は1億6000万年にわたって地球上に君臨してきた。片や人間など500万年に過ぎない。
『ジュラシック・パーク』が今も名作であり続けるのは、科学による自然の支配に警報を鳴らし続けているそのメッセージにあるだろう。その裏にあるのは人間の驕りだ。そして少なくともその驕りが続く限り、『ジュラシック・パーク』は名作であり続けるだろう。

created by Rinker
Nbcユニバーサル エンターテイメント
¥1,200 (2024/05/16 15:30:36時点 Amazon調べ-詳細)
最新情報をチェックしよう!
NO IMAGE

BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

CTR IMG