『エレファント・マン』何が美しく、何が醜いのか?ジョゼフ・メリックの半生

※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています


「自分自身について考えさせられる。他人事だとは思えず、涙が出てくる」
マイケル・ジャクソンはエレファントマンについて生前そう述べている。キング・オブ・ポップも称されるビッグ・スターがなぜ?
成功者としての幸福よりも見世物として消費される人生の哀しさ、ゴシップや奇異の視線をエレファントマンに重ね合わせたのだろう。マイケル・ジャクソンが稀有な才能と圧倒的な努力を持ち合わせたミュージシャンであることは疑うべくもない。だが、それ以上に世間の耳目を集めたのはマイケル・ジャクソンについてのスキャンダラスなニュースだった。表層的なことばかりが話題になり、拡散され、消費されていく。そして本当の自分自身は省みられることがない。その意味では確かにマイケル・ジャクソンはエレファントマンだった。
エレファントマンとはいかなる人物だったのか。今回は映画『エレファント・マン』を解説していきたい。

『エレファント・マン』

『エレファント・マン』は1980年に公開されたドラマ映画だ。エレファントマンと呼ばれた実在の人物、ジョゼフ・メリックの半生が描かれている。監督はデヴィッド・リンチ、主演はジョン・ハート、アンソニー・ホプキンスが務めている。
あまりに特異な風貌から、見世物小屋で「エレファント・マン(象男)」として生きていた青年ジョゼフ・メリック。全身の骨格は変形し、皮膚は膨張を繰り返し、弛んで垂れ下がっていた。

「母親が彼を妊娠していた頃に象に踏まれかけた夢を見たことで、こんな容姿になった」これはメリックを紹介するときの見世物小屋の宣伝文句だが、映画はこのコピーを再現するように、地鳴りを起こして突進する象と驚き転倒する女性のコラージュから始まる。
19世紀末のロンドン。医師のトリーヴスは見世物小屋で「エレファントマン」と書かれた見世物を見つける。後日、トリーヴスは興行主に金を積んでとても特別にエレファントマンを見せてもらう。そのあまりの外見に驚きが先に走り、そして哀れみの涙が頬を伝う。さらに興行主を金を渡し、トリーヴスはエレファントマンを病院で診察することにする。ひどく人間に怯え、受け答えもままならないエレファントマン。トリーヴスは学会でエレファントマンを裸にして聴衆の前で彼の症状を発表する。エレファントマンの名前はジョン・メリック(史実ではジョゼフ・メリック)歳は21歳だ。外科医として様々な患者を診てきたトリーヴスもここまでひどいケースは見たことがないと話す。

ジョゼフ・メリックの生きた時代

ジョゼフ・メリックの生きた時代はメリックのような重度の身体障害者にとって大きな転換期でもあった。
人権運動の高まりによる見世物小屋の排斥運動が起きたからだ。映画でもトリーヴスが最初にエレファントマンの見世物を訪れたときは見世物小屋の退去命令でのいざこざがあり、見学することは叶わなかったのだった。メリックはこうして見世物小屋排斥の動きにより職を失う。確かに見世物小屋は倫理的に問題がないとは言えないが、それでも、当時障害者が自立できる数少ない場所でもあった。
『エレファント・マン』で見世物小屋の興業主はメリックを金を稼ぐ道具のように思っている部分もあるが、メリックにとって見世物小屋がなくなるということは自活の手段がなくなるということも理解している(もっとも、実際には興行主には寛大に扱われていたようだ)。

学会での発表後にメリックは具合を悪くし、トリーヴスは再びメリックを病院に連れてくる。
メリックの歪んだ口からは不明瞭な発声しかできず、また口数も少なかったために白痴かと思われていたが、メリックが聖書を諳じるところを見たトリーヴスはメリックが高い知能と純粋さを持ち合わせた青年であることを理解していく。
一方のメリックもトリーヴスに心を開き始め友人として迎え入れていく。トリーヴスはメリックを診察し、しかし治療は不可能であることをメリックに伝える。

史実のジョゼフ・メリック

史実のジョゼフ・メリックについても触れておこう。
医学的にはメリックの症状はレックリングハウゼン病や象皮病ではないかと言われていたが、近年ではプロテウス症候群が原因ではないかと推測されている。
だが、このように不治の病であるメリックをトリーヴスもいつまでもロンドン病院には置いておけなかった。ロンドン病院理事長フランシス・カー・ゴムは「タイムズ」紙にメリックへの寄付を求める投稿を行っている。
その結果、メリックの元には莫大な寄付が贈られるようになり、ロンドン病院での収容には延長措置が取られ、ロンドン病院の地下にはメリックの部屋が用意されることになった。トリーヴスの計らいでそれらの部屋には鏡は一枚も置かれなかったという。メリックはここで模型作成や読書をして暮らしており、彼が作ったマインツ大聖堂の模型の写真は今でも容易に見ることができる。
タイムズへの投稿によってメリックは上流階級の人間たちの間で人気の存在となっていく。メリックの元には著名人からの面会希望が多く寄せられるようになり、その中には女優のマッジ・ケンドール、イギリス皇太子のエドワード7世と、その妃・アレグザンドラなども含まれている。

『エレファント・マン』に話を戻そう。トリーヴス夫妻との食事の場面、メリックは母の写真を見ながら、まるで天使のようだったと口にする。
続けて「こんな僕でさぞがっかりしたことでしょう」とも。
そして、「僕に素敵な友人がいることがわかれば、母も僕を愛してくれるかもしれない」と話す。そのあまりに純粋で哀しい告白にトリーブス夫人は思わず涙を流す。
この映画の中で私が最も心揺さぶられるシーンだ。
個人的な話で恐縮だが、私は掠れた声しか出すことができない。いわゆる普通の声を出すことができないのだ。生まれてからずっと。そういう意味ではメリックの気持ちがわかる部分もある。周りの友人は私の声を「個性」として受け入れて、ごく普通に接してくれる。その事に感謝しない時はないが、ごく僅かに「個性」だけでは割り切れないものがあるのも事実だ。
メリックは外見が著しく変形していた。声とは違い、どうあっても隠せない、どうあっても普通とは言えない。メリックは私とは比べようもない割り切れなさを抱えて生きていたのだろう。それはどれほどの痛みだったのか。

善と悪に境界線はあるのか

『エレファント・マン』は1981年度の日本の興行収入で1位になったヒット作だ。当時の文部省の推薦映画という「お墨付き」も得ている。
もちろんそう思われたのも無理はない。まだ日本ではデヴィッド・リンチは無名の映画監督であったし、長編デビュー作の『イレイザーヘッド』も公開されていなかった。確かに『エレファント・マン』がヒューマニズム映画であるのはそうだろう。だが、デヴィッド・リンチが監督する映画は単なるヒューマニズムを描いたもので終わるはずがない。
それはリンチがこれまでに手掛けてきた映画を観ればわかるだろう。
リンチは醜いものの中に美しさを見出だそうとし、美しいものの中の醜さを暴いてみせた。

『エレファント・マン』で言えば、醜さは表面的にはメリックの外見や彼を迫害する人々を指していると言えるだろうが、本当はどうだろうか。トリーヴスもまた、人道的な理由もあっただろうが、医学的な興味を抱いてメリックに接触した事実はあるだろう。
メリックの姿を学会で発表した後に「頭が弱いのが救いだ」とトリーヴスは同僚に話す。もしメリックに人並みの知性があれば、トリーヴスがその野心から行ったことは人権上多分に問題のある行為だった。だが、実際にメリックは年齢相応の知性を持ち合わせていたのだが。
また、メリックとの面会を希望した著名人の中にはメリックを利用して自らの好感度を上げようとした者もいたはずだ。
ここでキーパーソンとなるのはロンドン病院の婦長だ。彼女はトリーヴスにメリックを再び見世物にしていると詰め寄る。場所が見世物小屋か病院かの違いだけだ。その言葉にトリーヴスは打ちのめされる。「私は悪人なのか?」

羊たちの沈黙』の監督、ジョナサン・デミは『エレファント・マン』のトリーヴス医師を観て、アンソニー・ホプキンスをハンニバル・レクターにキャスティングしたという。
「『エレファント・マン』の医師は人情味のある医師に見える。しかし実情は残忍で異常なんだ」
かくいう私もメリックに抱いた興味として、その奇異な外見に対する怖いもの見たさでもあった。
何が美しく、何が醜いのか、善と悪に境界線はあるのか。

メリックは興行主の男によって、病院から連れ去られてしまう。だが、メリックの病状は進行しており、かつてのように見世物小屋のステージに立ち続けることができずにた折れ込んでしまう。興行主は商品価値のなくなったメリックを動物用の檻の中に閉じ込めてしまうが、見世物小屋の仲間たちがメリックを逃がす。
一人で帰ろうとするメリックだが、どうしても異様に大きい頭巾とコートで全身を覆ったその風貌は周囲の奇異の目を引いてしまう。そして、被っていた頭巾が外される。人々の悲鳴と好奇にメリックは追いたてられる。杖がなければ歩行すら困難だったメリックが走って逃げる。「僕は象じゃない!動物でもない!人間なんだ!これでも人間なんだよ!」ここもまた胸が詰まる場面だ。
警察に保護されたメリックはようやくトリーヴスの元へ帰ることができた。
そしてメリックはケンドール婦人の招待でトリーヴスらとともに正装して劇場へ足を運ぶ。メリックはケンドール婦人から紹介され、観客たちからの盛大な拍手で迎えられる。

「普通」への欲求

その夜、大聖堂の模型を完成させたメリックは「これですべて終わった」と呟き、積み上げられた枕をどかし、他の人と同じように横になって眠りにつく。
横になって眠ることが死に繋がると知りながら。

実際のジョゼフ・メリックは1890年4月11日に亡くなっている。死因はやはり横向きに寝たことによる頸椎の脱臼あるいは窒息による自然死とされ、恐らく事故だろうという結論に達している。27歳だった。
一方で『エレファント・マン』のメリックは自殺説を採用しているようだ。ではなぜメリックは自殺したのか?メリックの人生観はわからないが、その苦難の人生の中で夢見た暮らしをすべて実現させたのではないだろうか。悲しいことだが、私たちにとっては普通のことでもメリックにとっては命を懸けてもいいほどの欲求があったに違いない。
それは友人と友情を育むことであったり、異性と親密になること、人々から認められ、愛されたいと願うこと。
それらをすべて叶えたメリックには普通の人と同じように眠ることと、無条件で愛してくれたかもしれない唯一の人である母親への想いが最後に残ったのかもしれない。

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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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