「これはラブストーリーではない」『(500日)のサマー』は何を描いた映画なのか?

好きな恋愛映画は数多くある。ざっと思い付くだけでも『ローマの休日』、『ノッティングヒルの恋人』、『恋人たちの予感』、『マディソン郡の橋』、『最後の恋のはじめ方』、『アニー・ホール』などが挙げられる。
しかし、一番好きな恋愛映画と言われたら、それはもう『(500)日のサマー』しかない。

ラブストーリーではない恋愛映画

『(500)日のサマー』は2009年に公開されたマーク・ウェブ監督、ジョゼフ・ゴードン=レヴィット、ズーイー・デシャネル主演の恋愛映画・・・と言っていいのだろうか、何しろ「これはボーイ・ミーツ・ガールだが、ラブストーリーではない」というナレーションから本作は始まるのだから。
では恋愛映画でなければ『(500)日のサマー』は何についての映画なのだろうか。今回はそこを考察してみたい。

ジェニー・ベックマンとは?

『(500)日のサマー』はナレーションに先がけてユニークな注釈が現れる。
「これは架空の物語で実在の人物との類似は偶然である。特にジェニー・ベックマンは・・・あのクソ女」
ジェニー・ベックマンとは本作の脚本を手掛けたスコット・ノイスタッターの元カノ。2002年、ノイスタッターがロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの学生だったときに出会ったのがジェニー・ベックマンだ。彼女がサマーのモデルとなった。ノイスタッターは元カノとの実体験をヒントに『(500)日のサマー』を書き上げた。

アニー・ホール

グリーティングカード会社に勤めるトムはその会社に秘書として入ってきたサマーに一目惚れする。

『(500)日のサマー』はトムとサマーが過ごした500日の日々が時系列ではなくバラバラに映される。
始まりはトムがサマーに振られた時からだ。この映画はサマーと別れたトムが二人の日々を回想する形で進行していく。

明らかにこの構成はウディ・アレンの『アニー・ホール』を模倣している。『アニー・ホール』もウディ・アレン演じるコメディアンのルビー・シンガーがアニー・ホールと別れてから二人の日々を回想する。
誰しもそうであるように、思い出は時系列通りに並んでいるわけではない。だからアルビーが思い出すアニーとの日々はバラバラの順番で映し出される。

『(500)日のサマー』は冒頭で簡単にトムとサマーの幼い頃を紹介し、その人となりを説明してくれる。
トムは運命の出会いを信じる少年だ。少年時代のトムはジョイ・ディヴィジョンのTシャツを着て、映画『卒業』を観ている。
「トムは『卒業』を拡大解釈した」
そうナレーションが入る。『卒業』を拡大解釈したとはどういうことだろうか。その答えもあとから見ていこう。

一方のサマーは両親の離婚をきっかけに愛や恋を信じなくなった。
「両親が離婚してから彼女が愛したものは2つだけ。自分の長い黒髪と、それを切り落としても何も感じない心だ」

そして映画はオープニングに入る。ここで流れる音楽はレジーナ・スペクターの『Us』だ。「私達」を意味するこの曲のタイトル通り、サマーとトムの子供の頃の日々が交互に映し出される。

監督のマーク・ウェブは本作を音楽から組み立てていったという。
「『(500)日のサマー』ではまずサウンドトラックを作った。主人公のトムの思考や彼が何を考えているのかというのを基準に音楽を選んだから、それぞれの曲の歌詞はそのシーンやキャラクターたちの心情を説明していることが多いよ。僕にとっては楽しい作業だったね」
元々マーク・ウェブはミュージック・ビデオの監督であり、本作が映画監督デビュー作だ。

ノイスタッターは『(500)日のサマー』を監督する人物として、ミュージック・ビデオの監督を雇うように求めていたという。
「監督を決める際、僕らはミュージック・ビデオ出身の監督を雇うよう上層部に要求していた。ミュージック・ビデオの監督は、斬新なことに挑戦するし、ほんの数分で素晴らしいストーリーを作り上げることができるからだ。それに、音楽が重要な役割を果たす作品だから、それをしっかり理解できる人物でなければいけなかった」
こうしてマーク・ウェブが監督に決まった。先に紹介したレジーナ・スペクターが2006年に発表したアルバム『begin to hope』に収録されている『Fidelity』のミュージック・ビデオを監督したのもマーク・ウェブだ(意外なところではB’zの『今夜月の見える丘に』のミュージック・ビデオもマーク・ウェブの作品)。

『(500)日のサマー』は作品を理解するうえで音楽が大きな位置を占めている。サマーとトムが初めて言葉を交わすきっかけになったのも音楽だ。

君のそばで死ねたら天国の気分

サマーと出会って4日目、トムが乗ったエレベーターにサマーも少し遅れて乗り込む。
トムのヘッドホンから音漏れしているのはザ・スミスの『There Is A Light That Never Goes Out』。
サマーはトムに話しかける。
「ザ・スミス?」
トムもサマーの問いかけに気づく。
「君もファンなの?」
サマーはザ・スミスを口ずさむ。「君のそばで死ねたら天国の気分」
この僅かな時間で、トムはサマーに夢中になる。

ちなみにサマーが口ずさむのは『There Is A Light That Never Goes Out』の一節だが、同じ曲でもトムの気持ちはそこではなく「私をどこかへ連れて行って」という歌詞に近いのではないか。もちろんその相手はサマーだ。この一節は草食系男子のトムの性格を的確に表している。

愛は絵空事

28日目、会社のカラオケパーティーでトムとサマーの距離は近づいていく。この時サマーが歌うのはナンシー・シナトラの『Sugar Town』だが、本当は『明日なき暴走』を歌いたかったと言う。『明日なき暴走』はブルース・スプリングスティーンが1975年に発表した曲だ。サマーいわく飼っていた猫の名前もブルースだったらしい。
サマーは退屈な日々から抜け出したくて、ロスにやってきた。『明日なき暴走』にも「 this town rips the bones from your back(この街は君を骨抜きにしてしまう)」という歌詞がある。
「私は自分自身でいたいの。人生を楽しまなくちゃ。面倒なことは後回し」

サマーはトムと彼の同僚で友人のマッケンジーに対して「愛は絵空事だ」と言う。しかしその考えにトムは真っ向から反論する。
「そうは思わない。愛を感じれば分かる」
この言葉はエンディングへの長い伏線でもある。その後にトムがカラオケで歌うのはピクシーズの『Here Comes Your Man』。「君の運命の人(僕)がここにいるよ」という歌だ。しかし、トムはそれを直接サマーに伝えることはできない。
帰り道、マッケンジーがトムを指して、サマーに「こいつ、君にベタ惚れだ」と伝える。サマーはトムに「それは友達として好きなの?」と訊ねるも、奥手なトムは「もちろん友達として」と言ってしまう。

こうして二人は友達として付き合うことになるが、31日目にキスを交わし、34日目にはIKEAで新婚カップルのようなデートをする。
それでもサマーは真剣に付き合う気はないと言うばかりだった。トムは不本意ながらサマーの気持ちを受け入れる。

このあたりも脚本を務めたノイスタッターの実体験から来たものだろう。ノイスタッターもまた、トムと同じように、ジェニーに夢中になった。だが、ジェニーもサマーのように「キスは返してくれたが熱意は返してくれなかった」という。二人の関係は散々な結果に終わった(ちなみにノイスタッターが後で『(500日)のサマー』の脚本をジェニーに見せたところ、彼女は「トムのキャラクターにもっと共感した」と言ったらしい)。

君が僕の夢を叶えてくれる

その夜、とうとうサマーとトムはベッドを共にする。
翌朝、爽やかな笑顔でアパートから出てくるトム。
ここで流れる音楽はダリル・ホール&ジョン・オーツの『You Make My Dreams』。「君が僕の夢を叶えてくれる」という歌詞はまさにトムの気持ちをそのまま表しているだろう。またその後に続く「君をずっと待っていたんだ」という歌詞も受け身のトムらしい。

この場面は作品の中でも最も楽しい部分の一つ。街中がトム祝福している場面だ。もちろんこれはトムの脳内イメージではあるから、アニメの鳥も飛んでいるし、車の窓に映った自分の顔もハン・ソロに見えている。ここで舞う青い鳥はそのまま「幸せの青い鳥」を表している。そして、青はトムにとって幸せの色だ。それはサマーの目の色でもある。だからトムを祝福し、ともにダンスを踊る人々は青い服を着ている。

109日目、トムは初めてサマーの部屋を訪れる。
そしてサマーから「誰にも話したことのない話」を聞いたことで、自分自身がサマーにとって特別な存在になったことを確信する。このあたりの描写は片思い男子にはあるあるの勘違い話でもあるだろう。
ここで注目したいのはトムが着ているジョイ・ディヴィジョンのTシャツだ。冒頭で少年時代のトムもジョイ・ディヴィジョンのTシャツを着ていると書いたが、これはそのままトムの恋愛観が子供の頃のままだということを表している。
監督のマーク・ウェブはトムというキャラクターについて「女性観が未熟だ」と述べている。

マニック・ピクシー・ドリーム・ガール

この発言はサマーというキャラクターが「マニック・ピクシー・ドリーム・ガール」ではないか?という指摘に対しての返答の一部だ。
「マニック・ピクシー・ドリーム・ガール」とは、映画の中で主人公の男のためだけに作られる理想的で非現実的な女性キャラクターのことだ。元々は2005年に公開された、キャメロン・クロウ監督の『エリザベスタウン』に登場するキルスティン・ダンスト演じるクレアというキャラクターを指して作られた言葉だ。

『エリザベスタウン』は満を持して発売したスニーカーが大コケしたドリューが主人公だ。会社をクビになり、もはや自殺を考えるほどに追い込まれたドリューのもとに、父の死去の知らせが入る。
ドリューが故郷のエリザベスタウンへ向かう道中で知り合う女性がクレアだ。劇中でクレアは常にドリューを楽しませ、前を向くきっかけを作っている。しかし、クレア自身の人生の目的や生きがいはわからない。ただ、主人公のために存在するキャラクターでリアリティがないというのはそういうことだ。

マーク・ウェブはサマーにもマニック・ピクシー・ドリーム・ガールの要素があることは認めたうえで、それはあくまでもトムにとっての理想であり、サマーが複雑だってことをトムはわかってないとも述べている。
259日目、トムはサマーと一緒にバーに行っていたが、そこでサマーは見知らぬ男に絡まれる。トムはその男と殴り合いになる。「君のために殴ったんだ」というトムにサマーは落胆する。
このことが発端となって二人は口論になる。トムにしてみれば、セックスまでして恋人でないことはありえないことだった。それでもサマーは頑なに二人の関係を変える気はないという。仲違いしたままトムは家に帰るが、その後にサマーが謝りに来たことで二人の仲は修復される(ここでも行動を起こしているのはサマーの方だということに注目してほしい)。

『卒業』

ストーリーはここから失恋後の場面が多くなる。中途半端な現状の関係を望んでいたサマーに何があったのか?
それはトムと『卒業』を観に行ったことがきっかけだった。

『卒業』は1967年に公開されたマイク・ニコルズ監督、ダスティン・ホフマン主演の映画だ。
本作のラストシーンはあまりに有名だ。ダスティン・ホフマン演じる青年、ベンジャミンは愛するエレーンが他の男と結婚するのを阻止し、エレーンを結婚式場から連れ出す。最初は笑っていた二人だが、次第に未来への不安がこみ上げてくる苦みを含んだエンディングを迎える。

もう一度『(500)日のサマー』の冒頭に戻ろう。

「これはラブストーリーではない」

そう、サマーがトムに寄せる好意はラブではなく、ライクだった。そしてトムがサマーに寄せる思いはラブだったが、言葉ではライクしか伝えていなかった。
だが、サマーはそれでは幸せになれないことを知ったのだろう。『卒業』のベンジャミンのように、行動してつかみ取るのが愛なのだと。幼いトムは自らをエレーンに重ねて、いつか運命の人が現れるのを待っていたのだ。
その意味ではもしかしたらトムが行動していたら、サマーからの愛を勝ち取れたかもしれない。

腕のタトゥー

映画評論家の町山智浩氏の著作『恋する映画』で本作についても解説されており、私も参考にさせてもらったが、町山氏はトムとサマーが建築デートをしているときがサマーからの愛を勝ち取るチャンスだったと書かれている。
元々トムは建築家志望だったが、諦めて今の会社に務めていた。だが、仕事の合間に街並みの絵を描くなど、未だに心の底ではあきらめきれていないのだ。
サマーに建築物についてのあれこれを話すときのトムの顔は輝いている。本当は絵に書いて説明したいが、紙がない。そこでサマーは自らの腕を差し出すのだ。「タトゥーのように書いてもいい」と。これはサマーとトムが過ごした日々の中でサマーが献身的にトムに差し出した唯一の場面だ。このときが愛を勝ち取るチャンスだった。だが、トムはそれができなかったのだ。

トムと別れてサマーは会社を去った。トムはその痛手によって仕事ぶりも冴えなくなる。マッケンジーの計らいによって同僚の結婚式でトムとサマーは再会する。トムはこれを機によりを戻そうとするが、サマー主催のパーティーに誘われたトムが知ったのは、サマーが別の男と婚約したという事実だった。
トムは会社を辞め、無為な日々を過ごすが、当初の夢だった建築の道に進むことを決める。ひたすら設計図を書き、面接候補の会社を黒板に書き出す。

マーク・ウェブはトムにとってサマーを女性じゃなく、段階みたいなものという位置づけにしたという。つまり、サマーという通過地点のおかげで(結果的に)トムは夢を再び追いかけるようになったのだ。

運命の恋

そして、就職活動の途中でトムとサマーは再会する。トムはまだ完全に立ち直れておらず、サマーに対しても「恋人の位置を嫌がっていた君が、妻の座に収まるとは!」と未練がましいことを言ってしまう。
トムはサマーに「君が正しかった。運命の恋とか、真実の愛なんてものは所詮おとぎ話だったんだ」と話す。だが、サマーはトムに「あなたの言っていたことは正しかった」と伝える。

サマーの夫はサマーがデリで本を読んでいた時に話しかけてきた人だった。もし、デリに行っていなければ?もしデリに行くのがあと10分遅かったら?そう考えると、夫と出会ったのは運命で、そして夫にはトムには感じなかった「愛」を感じたと話す。そう、これはラブストーリーではない。トムとサマーのそれぞれの成長の物語だったのだ。
二人の日々は無駄ではなかった。
トムはサマーに「幸せを祈っている」と伝えて別れる。

そして、ある日面接会場へ向かったトムは同じように面接を待っている女性と出会う。
女性はトムに見覚えがあるというが、トムは覚えていない。サマーにとってトムが脇役だったように、このときまでトムにとってその女性は脇役だった。しかし、もう愛は待っていては手に入らない。
トムは女性をコーヒーに誘い、名前を尋ねる。
女性の名前はオータム。サマーとの500日が終わり、オータムとの1日目が始まったところで映画は幕を下ろす。
エンドロールで流れるのはムムラーの『She’s Got You High』。「彼女が君を高みに上げてくれた」というタイトルだ。それはサマーに対するトムの思いだろうし、ジェニー・ベックマンに対するノイスタッターの思いだろう。

『(500)日のサマー』の脚本の初稿が上がった時、ノイスタッターはあまりに個人的な出来だったため、しばらく棚の中にしまっておいたらしい。
だが、完成した映画の試写では多くの男性からの共感を得たという。
『(500)日のサマー』のトムは実は多くの男性に何かしら当てはまる部分があるのかもしれない。
かくいう私もそうで、正直トムが何から何まで自分とそっくりな価値観のキャラクターだと作品を観るたびに感じる。サマーのような女性に恋をしたこともある。その人との関係もこの映画と同じだ。はたから見れば恋人だったが、結局は一方的なラブだった。

サマーは悪女なのか?

『(500)日のサマー』は多くの人に批評されているが、その中にはサマーは悪女ではないかという考えもあるようだ。いや、そうではないだろう。
トムが一方的に自分の理想をサマーに重ねただけだ。トムを演じたジョゼフ・ゴードン=レヴィットも、「悪いのは全てトムだ」と語っている。

愛を信じるも信じないも人それぞれだと思う。だが、『(500日)のサマー』は愛を否定しない。
『(500日の)サマー』がオマージュした『アニー・ホール』、そのエンディングではアルビーがアニー・ホールとの日々を振り返り、次の言葉で映画は締めくくられる。

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男女の関係はおよそ非理性的で不合理なことばかり、でも、それでもつき合うのは卵がほしいから」

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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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