※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています
「沈黙は悲鳴で破られる」
それが『ハンニバル』のキャッチコピーだ。だが、悲鳴の先にいたのはジョディ・フォスターではなく、ジュリアン・ムーアだった。
今回は名作『羊たちの沈黙』から10年ぶりとの続編となった『ハンニバル』を見ていこう。
特に前作でクラリス・スターリングを演じたジョディ・フォスターから、ジュリアン・ムーアへキャストが変更になった理由と絡めて、原作と映画の違いにも注目していけたらと思う。
『ハンニバル』
『ハンニバル』は2001年に公開されたリドリー・スコット監督、アンソニー・ホプキンス、ジュリアン・ムーア主演のサスペンス映画。原作は『羊たちの沈黙』に引き続きトマス・ハリスが手掛けた『ハンニバル』だ。
『羊たちの沈黙』はアカデミー賞主要5部門を制覇するという快挙を成し遂げた。主要5部門とは、作品賞、監督賞、脚本賞、主演男優賞、主演女優賞のこと。
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『羊たちの沈黙』でクラリス・スターリングを演じたジョディ・フォスターはオスカーを獲得するほどのハマり役でもあったが、『ハンニバル』ではクラリス役をジュリアン・ムーアが演じている。
ジョディ・フォスターは「同じ役は二度演じない」と公言しており、『ハンニバル』での降板理由は「他の映画に出演するためにスケジュールが合わなくなった」らしいのだが、一説には原作小説のクラリスの描かれ方が不満だったのではとの声も根強い(ちなみに「他の映画」とはデヴィッド・フィンチャー監督の『パニック・ルーム』だ)。
事実、インタビューでジョディ・フォスターはジョナサン・デミやアンソニー・ホプキンスとともに続編小説の完成を10年間待っていたのだと述べている(原作者のトマス・ハリスは極めて寡作な作家としても有名だ)。
トマス・ハリスの『ハンニバル』
だが、完成した小説はそれまでのクラリス像を覆すようなグロテスクさと性愛が詰め込まれたものとなった。
ジョディ・フォスターは『羊たちの沈黙』のクラリスについてこう語っている。
「クラリスの強さと性格が好きだった。広い意味でね。彼女の性格や無意識の部分が彼女を運命へと導く。アメリカのヒーローね。命を懸けて罪のない人を救う運命を背負いながら、自分自身の恐怖にも立ち向かうタイプ」
『羊たちの沈黙』はバッファロー・ビルと呼ばれる猟奇殺人犯を追うのが物語の軸になるが、バッファロー・ビルの犠牲者は必ず女性であり、あたかも物のように扱われる。それは当時の現実社会の一部を暗喩していたのかもしれない。
そんな中にあって、女性のFBI捜査官(正確には訓練生)が主人公の映画というのは斬新だった。男性に頼らず、一人で行動する、クラリス・スターリングはタフで自立した一つの女性像を示して見せた。
トマス・ハリスの『ハンニバル』はそんなクラリスのイメージを覆すものでもあった。終盤まではFBI捜査官としての職責と自分の倫理観に従い、逆境の中でもレクターを追うのだが、レクターはクラリスに治療と称して催眠をかける。
クラリスが亡くなった父親の影を追い続けているのは『羊たちの沈黙』の解説でも述べたが、トマス・ハリスの小説では催眠によってレクターの中に父を見るようになり、またレクターもクラリスの中に幼くして殺された妹であるミーシャの姿を見るようになる。そしてクラリスは同僚に一通の手紙を送ったまま、何もかもを捨ててレクターと失踪するのである。 それまでクラリスを形作っていた強さや倫理観は脆くも崩れ去っている。
原作小説では事あるごとに自身を妨害してきた上司、ポール・クレンドラの脳味噌をレクターとともに会食している。ジョディ・フォスターは小説中のこのシーンが嫌でクラリス役を降板したと言われている。
失踪後、二人はカップルとなり、セックスもするようになる。ジュリアン・ムーアは小説中のこのシーンが嫌で映画のエンディングは変更されたと言われている。
なぜクラリスがこんな事になったのか?
ジョディ・フォスターとの妄想恋愛小説
原作小説の『ハンニバル』は映画版の『羊たちの沈黙』の続編だという声がある。
つまり、映画の中のジョディ・フォスターへの当て書きで小説『ハンニバル』は執筆されたという意見だ。
ハリスは『ハンニバル』の取材で2年ほどイタリアのフィレンツェに滞在したという。原作は映画以上にフィレンツェのシーンに紙幅が割かれており、それだけでも独立した作品として成立するほどだ。
カッポーニ宮やサンタ・マリア・ノヴェッラ薬局、ヴェッキオ宮殿や通りのレストランなど、小説でレクターが訪れたり、住んだ場所はトマス・ハリスも実際に訪れたり買い物したりした場所なのだろう。
言わば、『ハンニバル』におけるレクターはトマス・ハリス自身の投影でもある。つまり、『ハンニバル』で描かれているのはトマス・ハリス自身のジョディ・フォスターとの妄想ラブストーリーではないか?この『ハンニバル』はトマス・ハリスの妄想恋愛小説という見方はネット上でも散見される。また映画評論家の町山智浩氏もこの見方を採っていたように思う。
確かにそう思うとただでさえクラリスを再び演じることに躊躇する部分はあるだろうし、特にジョディ・フォスターの場合はレズビアンであることをオープンにしていること(『ハンニバル』降板当時は未公表)や、過去に『タクシードライバー』への出演をきっかけに自身の熱狂的なストーカーとなった男が大統領暗殺未遂を犯した(レーガン大統領暗殺未遂事件)などの過去もあり、避けたかったのは理解できる。
原作の結末を知るとジョディ・フォスターは早々にクラリス役を降板。代わりの女優にはアンジェリーナ・ジョリーやケイト・ブランシェット、ヒラリー・スワンクらが検討されていたという。
そんな中で自らクラリス役に手を挙げたのがジュリアン・ムーアだった。ただ、個人的にはやはりクラリスはジョディ・フォスターが最適だったと思う。
確かにジュリアン・ムーアにも美しさはもちろんの事、意志の強さや聡明さ、気品も感じるが、ジョディ・フォスターが持ち合わせていた繊細さや少女のような可憐さはあまり感じられない。まぁ、バッファロー・ビル事件から10年経って大人になったと言われればそれまでだが。
…ハイ、以上!でここで終わらせてもいいのだが、トマス・ハリスの小説の意義についても述べなければフェアではない。
『羊たちの沈黙』の10年後
その前に一旦『ハンニバル』という、作品の物語の大枠だけでも簡単に紹介しておこう。
舞台は『羊たちの沈黙』から10年後。クラリスはFBIの捜査官として第一線で働いていた。そこに目をつけたのがかつてレクターの患者であった大富豪のメイスン・ヴァージャーだ。メイスンはレクターにドラッグを与えられ、自分の顔の肉を剥ぎ、犬に与えた。そしてレクターに首の骨を折られ、今では四肢が麻痺状態になっている(映画版では指先は動かせるようだ)。
『ハンニバル』でレクター以上の悪役と言えるのがこのメイスンだ。映画版では描かれていないが、小説では貧しい家庭の子供を強制的に施設内に住まわせ、言葉でいたぶっては子供が流した涙を入れたマティーニを飲むのが趣味というサディストだ。また彼は子供達へ性犯罪を重ねた過去や実の妹であるマーゴを性的に虐待していた過去もある(マーゴに関しては映画版には登場しない)。
メイスンは特別に掛け合わせて作り上げた狂暴な豚を調教して、人の悲鳴に反応する人食い豚にレクターを食べさせる復讐プランを計画していた。まず足を食わせたあとで、7時間後に全身を食わせるというプランがメイスンの加虐嗜好をよく表している。
その頃、ハンニバル・レクターはフィレンツェにわたり、「フェル博士」として図書司書の仕事に就いていた。
フィレンツェ警察のパッツィはイル・モストロ事件を担当していた。一時期は犯人を逮捕するも、 その犯人は証拠不十分で釈放されたことで失脚。今はフェル博士の前任者の失踪事件を担当している。パッティはフィル博士に接触しているうちに彼こそがハンニバル・レクターではないかという疑いを強くする。そしてメイスンにコンタクトを取り、レクターをメイスンに売ろうとする。
映画ではイル・モストロ事件は詳しく描かれないので、なぜパッツィが懸賞金目当てにメイスンに連絡したかの道機が薄い。
イル・モストロ事件
イル・モストロ事件で犯人を挙げたパッティは一躍時の人となり、収入も増え、若い妻を満足させることもできた。つまり、あの時のように金が欲しいというのが動機だ。しかも確実な大金を。
しかし、そんなパッティの思惑はレクターに見破られており、パッティは先祖と同じように首を吊った形で殺される。
その際に腹を切り裂かれ内蔵がぶちまけられているが、これは「裏切り者」ユダの最期の描写をなぞったもの。パッティも裏切り者であることは言うまでもない。
ちなみに、字幕ではわからないが、レクター博士はパッティに対して何度か「コンメダトーレ」と呼び掛けている。これはイタリアで大統領から勲位を授かった者を指す。パッティの過去の栄光がどれだけ大きかったのかが伺える。
メイスンは次なる策に出る。司法省のポール・クレンドラー接触し、再びクラリスを窮地に陥らせる。レクターを誘き出すためだ。
果たしてレクターはフィレンツェからアメリカへ向かう(子供に食事を与えるシーンは小説ではこの場面だが、映画ではエンディングになっている)。
アメリカへ着いたレクターはクラリスに接触を試みるもメイスンの部下に拉致される。そして豚に食われそうになるところにクラリスが銃を持って駆けつける。メイスンの部下を撃ち、レクターをリンチから救ったクラリスだが、クラリスもまた撃たれて昏睡状態となる。
映画ではメイスンはこのときに担当医のコーデルの手によって豚のいる場所に突き落とされ、豚に食われる。小説ではメイスンに積年の恨みをもった妹のマーゴによって顎を砕かれ、アナゴを口の中に入れられ窒息死する。
レクターはクラリスを抱き抱え、メイスンの屋敷を後にする。
トマス・ハリスの小説の意義
ここからが映画とトマス・ハリスの小説で大きく異なるところだが、映画版では意識が朦朧とした中でもクレンドラーが残酷に殺されていくことには反対し、隙を見てはレクターを補らえようとする気持ちが強い。
レクターに手錠をかけるも、レクターは自らの腕を切断して逃亡、機上の人となるのが映画版のエンディングだ。だがこの場合だと(映画版『ハンニバル』全体にも言えることだが)登場人物の心理的な描写、内面描写が薄くなっており、単純なサスペンス映画になってしまっているのは否定できない(もっとも映画版の結末は原作者のトマス・ハリスも「小説よりいい」と絶賛している)。
また、映画版ではレクターがクラリスを動けないように捕らえてからクラリスが必死の抵抗でレクターに手錠をかけるという流れなのだが、クラリスを捕らえたままで逃亡するというエンディングも撮影されたそうだ。いずれにしてもリドリー・スコットの方針で「レクターはクラリスを決して傷つけない」ことは徹底されていた。
小説版では先にも述べたようにクラリスは催眠によってレクターの中に失った父を見るようになり、またレクターもクラリスの中に殺された妹のミーシャを見るようになる。 つまり、今のクラリス、レクターという人格を形成している大きなトラウマを癒すことに成功している。そういう意味ではクラリスはFBIに留まる必要はなくなり、レクターにしても殺人や食人を行う理由はなくなるだろう。もう物語としてはこれ以上進めようのないところまで進めたのがトマス・ハリスの『ハンニバル』ということになる。
実際、ハリスは本作の後にはレクターの生い立ちを綴った『ハンニバル・ライジング』、またレクター関連から手を引いた『カリ・モーラ』のみの著作に留まる。