※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています
子供の頃から『エイリアン』シリーズのファンだ。シリーズの作品の中から一つ選べと言われたら私は『エイリアン4』を推す。
一般的に人気が高いのはジェームズ・キャメロンが監督を務めた『エイリアン2』だろう。
確かに『エイリアン2』は面白い。クイーンエイリアンや蟻のような社会構造など、エイリアンのキャラクターを確立させたという意味でも重要な作品ではある(ただ『エイリアン』のディレクターズカットを観ると、『エイリアン』との決定的な断絶にもなっていることは書き加えておきたい)。
『エイリアン4』
一般的な評価で言えば、恐らく『エイリアン4』は賛否両論分かれる作品だと思う。クローンとしてエイリアンとDNAレベルで融合してしまったリプリーのキャラクター設定や、シリーズ中最も残酷なゴア描写やグロテスクさが際立つ作品でもあるからだ。
だが、「生命とは何か」をあらゆる角度から問いかけた作品という意味で『エイリアン4』は傑出している。ゴア描写やグロテスクさが際立つとは先ほど述べたが、それも言い換えるならば、必要な表現を貫き通したとも言えるだろう。
『エイリアン3』のラストでチェストバスターを抱えたまま、リプリーは溶鉱炉にその身を投げる。だが、僅かに残っていた血液からクローンとしてリプリーは復活する。これまでエイリアンの生物兵器としての利用を目論んでいたウェイランド・ユタニ社は存在せず、代わりに軍がエイリアンを利用しようとしている。
だが、完全に飼い慣らされたに思われたエイリアンも人間達の隙をついて脱走。人々を襲い始める。
ジャン・ピエール・ジュネ
監督のジャン・ピエール・ジュネはフランス出身の映画監督。マルク・キャロとの共同監督でデビュー作となった『デリカテッセン』は核戦争後のパリを舞台に、希少な肉を提供する肉屋とそこを訪れた若者の物語だ。全編を通して独特のビジュアルとグロテスクさ、そしてファンタジーの雰囲気を感じることができる。
『エイリアン4』ではビジュアルとグロテスクさはそのままに、ファンタジーの要素の代わりにアクションが盛り込まれ、ハリウッド映画的な面白さの面でも申し分ない(というか、キッチンのシーンはシリーズ屈指のアクションの名シーンですらある)。まぁ、ここまで私が『エイリアン4』を推すのは、今作が私が初めてリアルタイムで観た『エイリアン』映画だということもあるのだが。
と、ここまで書いたところで『エイリアン4』の解説は長らく中断していた。
この後にどう文章を書いていこうか、決めあぐねていたからだ(ちなみにどの映画の考察・解説記事も結末は決めないまま書いていくことが多い)。
だが、最近購入した本の中で『エイリアン』シリーズのファンから公開当時『エイリアン4』は罵倒されたという話を知った。賛否両論どころか罵倒!?
まだ今のようにインターネットも普及していない時代、映画館すら近くにない田舎の少年にはそんな情報など届かなかったのだろう。
『エイリアン4』の再評価
さて、そんな少年も大人になった。今こそ『エイリアン4』を自らの手で再評価してみたい。ちなみに、前述の本の中では『エイリアン4』が公開されてから15年間で「『エイリアン』シリーズの中で『エイリアン4』が一番好き」と答えたのは2人だけだったと著者の体験が書かれている。実に惜しい。私に会えば3人と書くことができたのに。
さて『エイリアン4』の再評価だが、まず、『エイリアン4』を罵倒した人達の声に耳を傾けたい。
「展開がご都合主義」「クローンのリプリーがあり得ない」「つまらない」
まぁ大別するとこんな感じ。つまらないかどうかは個人の好みの問題もあるだろうが、そんな人たちに「こんな見方もあるよ」と伝えるのもこのサイトを作った目的でもあるので、読み終わる頃には「もう一回観てやるか」くらいになっていてくれたら嬉しい。
展開がご都合主義との批判は「まぁその通り」。大体が強酸性の血液を持つことを知っておきながら強化ガラス一枚隔てただけの部屋にエイリアンを入れておくなんて、今まで脱走しなかったのが不思議なくらいだ(ちなみにここで脱走のために犠牲になるエイリアンのいじめられっ子な様子と弱々しい鳴き声は必見)。
また、なぜリプリーをクローン再生したらクイーンのチェストバスターまで一緒に再生されてしまうのか?一応、DNAレベルでエイリアンと融合しているから、という理由はあるものの、今までのシリーズでエイリアンに寄生された人々は「手術で摘出すれば助かる」とされていただけにこの理由づけは無理矢理感が否めない。
「生命とは何か」
次にクローンのリプリーだが、やはりこの時まで『エイリアン』シリーズとシガーニー・ウィーバーは不可分の関係にあったのだと思う。
前作『エイリアン3』が酷評されたという事実も踏まえて『エイリアン4』はシリーズの何を活かし、どこを変更するか、難しい判断を迫られたはずだ。
となると、やはり一つのモデルケースは『エイリアン2』だろう。続編は失敗するというジンクスをはね除け、ともすれば『エイリアン2』が一番好きというファンまで多く生み出してしまったからだ。
そうなると、やはりシガーニー・ウィーバーの演じるエレン・リプリーは欠かせない。加えて当時はクローン技術によってという衝撃的なニュースもあった。そのことを意識したかはわからないが、『ジュラシック・パーク』以降の映画において死んだ生物を生き返らせる方法としてクローンは一気にメジャーなものになったのだ。
『エイリアン3』で死んだリプリーを蘇らせるにはクローンしかない!というわけでリプリーはあっさり復活する(ちなみに『エイリアン4』の原題は『Alien: Resurrection』、Resurrectionとは復活の意味だ。最近の映画では『マトリックス レザレクションズ』で「Resurrection」は使われている。
本当の問題は復活したリプリーの設定だと思う。今回のリプリーは正確に言うなら人間とエイリアンのハイブリッドだ。怪力や強酸性血液など生まれながらにエイリアンの要素も受け継いでいる。クローンかどうかよりもリプリーが根幹から変わってしまったことが批判を受ける大きな要因だったのだろう。
だが、ここではなぜ変えなければならなかったのかを考えてみたい。
まずはリプリーがクローンでなければ本作のテーマを描くことはできないからだ。
本作のテーマとは、 「生命とは何か」に集約することができる。リプリー達がエイリアンから逃れる過程で発見した、いくつものクローンリプリーの失敗作たち。中でも7号と呼ばれるクローンはエイリアンと人間の両方の特徴をあわせ持った体で生まれ、臓器をすべて抜かれた上で生命維持装置によって強制的に生かされていた。「殺して」そう懇願する7号をリプリーは涙を浮かべながら火炎放射器で焼き殺す。『エイリアン4』は過去の『エイリアン』シリーズと比べても際立ってグロテスクな描写が多いのだが、このような非人道的な実験を繰り返していた軍の姿を考えれば、本来の目的であるエイリアンに無惨に殺されていくというのは何とも皮肉であるし、因果応報とも言える。
許されない親子関係
『エイリアン4』が『エイリアン2』を意識しているのではないかということは先に述べた。確かに『エイリアン4』には『エイリアン2』の要素を多く感じる。
シガーニー・ウィーバーも『エイリアン4』について「雰囲気的には『エイリアン』と『エイリアン2』に近い」と述べている(もっともシガーニー・ウィーバーは『エイリアン3』ではデヴィッド・フィンチャーと険悪な雰囲気だったこともあり、そもそもあまり好きではない作品でもあるのだろう)。
『エイリアン2』は娘を亡くしたリプリーが孤児となった女の子のニュートと心を通わせ親子の絆で結ばれるというヒューマニズムの面も評価される理由だった。
『エイリアン4』でも同じような親子関係はあるが、その相手は人間ではなくエイリアンだ。
Googleで『エイリアン4』を検索すると、サジェストに「ニューボーン かわいそう」と表示される。『エイリアン4』で示されるのはエイリアンと血の繋がったリプリーの許されない親子関係なのだ。素直に人間同士のヒューマニズムを描かないのがジュネらしい。
ニューボーンエイリアンはクイーンが変質して生まれた、リプリーの遺伝子とエイリアンの遺伝子が混ざりあった新種のエイリアンだ。
なぜか直接的な親であるクイーンではなく、遺伝上は祖母にあたるリプリーを親として慕うのかは謎でもある(このあたりもご都合主義と言われればそうだ)が、ここで『エイリアン2』同様の親子関係が生まれている。ただ問題はどうしても人間とは相容れない狂暴性を持つことだ。
そこで止むやくリプリーはニューボーンを殺す。自身を慕う我が子を殺すリプリーは涙を流して「許して」と呟く。
ここで初めて私たちはエイリアンをモンスターとしてではなく、一つの同等な生命体として再認識させられる。
エイリアンの狂暴性や残酷さは人間にとって脅威だが、それが彼らの本能であれば仕方がない。
そして、こうも思う。地球上の他の生物にとっては人間こそが「エイリアン」なのではないか?
『エイリアン4』の中でも人間の非道さ、愚かさ、危険さは様々な角度から描かれる。果たしてエイリアンと人間、本当に残酷なのはどちらだろうか。
『エイリアン4』はホラーの極致としての残酷描写、そして人間の尊厳まで踏み込んだ深いテーマを持つ名作だと思う。