※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています
2008年に公開された映画『愛を読む人』にはかつて主人公が愛した女性が強制収容所の元看守であり、ナチスの戦犯の裁判において戦争犯罪人として裁かれる場面がある。
ホロコーストへ荷担することが「悪」であるのは倫理的な面から見ても当然だろう。
法の道徳的限界
だが同時にいくつかの疑問も浮かんだ。
その当時、国家としてホロコーストが奨励されていたらどうか?ホロコーストを罰する明確な国際法がなかったらそれは罪になるのか?
また、どこまでを罪人として罰するのが妥当なのか?ユダヤ人が強制連行され、収容所に行くと知りながら、それを黙ってみていた市民には何の咎めもないのか?
今はホロコーストは明確に戦争犯罪として定義されているが、法律を過去に向けて遡及的に適用させるのは法の原則から逸脱しているのではないか?
そのようなことを考えている時にたどり着いたのがハンナ・アーレントだった。
ハンナ・アーレントは1906年ドイツ生まれの哲学者だ。アーレントは1961年のアドルフ・アイヒマンの裁判をニューヨーカー誌の特派員として傍聴し、その結果を『イエルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』にまとめている。
「数百万人のユダヤ人を強制収用所に送り、殺害したナチスドイツ。その一翼を担ったアイヒマンはさぞかし冷酷無比な悪魔のような男に違いない。誰もがそう思いたがった。イスラエルの検察官もその悪魔としてのアイヒマンの姿を暴こうと躍起になった。ところが裁判を通して浮かび上がったのは、組織の歯車として働く小役人のような男だった」
彼女の考えは「思考を放棄すると、平凡な人間でも残虐行為に走る」というものだった。
なぜ今『ハンナ・アーレント』なのか
個人的にはハンナ・アーレントという名前だけは知っていたが、それ以外はほぼ何も知らなかった。
今回取り上げる『ハンナ・アーレント』はそんなハンナ・アーレントがアイヒマンの裁判を取材し、その結果である『イエルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』の発表後の顛末までを描いている。『ハンナ・アーレント』は2012年に公開された伝記映画。監督はマルガレーテ・フォン・トロッタ、主演はバルバラ・スコヴァが務めている。
日本では2013年に岩波ホールで公開され、初日から満席となった。これは10年ぶりだといい、その後も行列ができるほどの盛況だったという。
なぜ今、ハンナ・アーレントなのか?
彼女の言葉と彼女を取り巻く状況は今の時代にも通じるからだろう。
それについては後述するとして、まずは、ハンナ・アーレントの生い立ちから見ていこう。
ハンナ・アーレントは1906年ドイツで生まれる。幼い頃は文学に詩に興味を示し、哲学や政治には関心がなかったという。だが、14歳の時にカントやキルケゴールなどの著作に影響を受け、哲学を志すようになる。三つの大学(ドイツでは複数の大学を渡り歩き勉強することが一般的であった)で学んだアーレントはマールブルク大学ではマルティン・ハイデッガーに師事し、哲学に没頭する。フライブルク大学ではエドモント・フッサール、ハイデルベルク大学ではカール・ヤスパースに師事している。特にハイデガーとは一時不倫関係にもあり、それは『ハンナ・アーレント』の中でも描かれている。大学を卒業すると、同じ哲学者のギュンター・アンダースと結婚するも、ナチスドイツが政権をとると母とともにフランスに亡命。亡命先のパリでなどの知識人と交流する。
しかし、1939年に第二次世界大戦がはじまると翌年にハーレントは敵国人として再婚した夫のハインリッヒ・プレッジャーとともにそれぞれ強制収容所に入れられる。奇しくもその後にフランスに侵攻してきたナチス・ドイツによってアーレントはアメリカへ再び亡命する。戦争が終わり1951年に『全体主義の起源』を発表、アメリカでの学者としての地歩を固めていく。その後1963年に『エルサレムのアイヒマン』を発表する。
アイヒマンを裁く根拠
アーレント自身はアイヒマンは裁かれなければならないという考えだった。だが、その考えの正当性を裏付ける法的根拠は非常に頼りないものだった。個人的にも法の妥当性という視点からアイヒマン裁判を見ると死刑という判決が妥当なのか、首をかしげざるを得ない。
前述のようにアーレント自身はアイヒマンは裁かれなければならないという考えだが、それは法に反したからというものではない。むしろアイヒマンはただ職務と法に忠実であり、それは彼の良心すら駆逐するほど強いものであった。当然ながらナチス・ドイツ政権下でホロコーストが違法であるはずはない。だが、今日作り上げた法律で昨日の罪を裁くというのは法の不遡及の原則に反する行為でもある。
法の不遡及の原則とは、法律の効力はその法律が制定されて以降にのみ及び、制定される前の事柄においては効力をもたないということだ(ちなみに日本国憲法では第39条に規定されている。
裁判は法によって人を裁き、その重さに応じて罰を与えるものだ。それは法は誰の前にも平等であり公平であるという前提があって成り立つ。
古代の哲学者であるソクラテスは「悪法もまた法なり」という言葉を遺した。それは法の絶対性を補強する言葉だが、悪法がまかり通れば、やがて法への信頼は崩れてしまうだろう。
ナチス・ドイツの戦争指導者たちは敗戦持にニュルンベルク裁判において「人道に対する罪」で裁かれた。しかし「人道に対する罪」や「平和に対する罪」に透けて見えるのは先勝国の報復という側面だ。もし、本当に「人道に対する罪」で裁くのであれば、広島と長崎に原爆を投下したアメリカはなぜ裁かれないのか。またソ連軍はナチス・ドイツに侵攻した後、200万人もの女性をレイプしたという。それらはなぜ裁かれないのか?
アーレント自身もユダヤ人ではあるものの、アーレントは多くのユダヤ人にあった被害者ゆえの報復的な感情とは距離を置いていた。
『イエルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』は発表されるや否や多くの批判を集めることになる。アーレントのもとには多くの批判、誹謗中傷が寄せられる。
人は見たいように見て、信じたいように信じる。事実はひとつでも、それは主観や願望というフィルターによって偏りが生まれる。それは仕方のないことでもあると思う。だが、「自分と同じ見方しか認められず、違う見方をする他者を非難する」ことが問題だと思う。『ハンナ・アーレント』が今の時代に通じるのはこの部分だろう。
人種や性的嗜好による差別はハリウッドを見ていると幾分かは和らいだように思う。特にキャスティングでは有色人種やマイノリティへの配慮があからさまなほどに透けて見える。
だが、多様な考え方を認めるという部分においてはどうだろうか。人は自分自身が正義の側にいると思った時に最も残酷になるという。それはハンナ・アーレントを非難した者たちもそうであろうし、ホロコーストを行ったナチスもそうだったろう。そして私たちもそうではないか。
普通の人々に潜む普遍的な残酷さ
『イエルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』は1963年に発表されたが、同じ年には「ミルグラム実験」が行われている。
ミルグラム実験もまたアイヒマンの事例から生まれたもので、普通の人がどのような条件でアイヒマンのように残酷になれるかを試したものだ。ミルグラム実験は別名アイヒマン・テストとも呼ばれている。
ミルグラム実験の概要は被験者を生徒役と教師役に分け、生徒が教師の出す問題に間違えると電気ショックが流れる(生徒役はサクラであり、実際に電流が流れるわけではない)。お互いの様子は声のみで分かり、生徒が間違える回数が増えるほどに電気ショックは強くなる。電圧は15ボルトから450ボルトまで流れ、150ボルトで絶叫するほどの苦痛を感じる。
教師が実験の中止を申し入れても、実験の責任者役の男は実験を続けるように冷静に伝える。その結果、教師役である被験者の65%が最大電圧の450ボルトのスイッチをいれたという。
ミルグラム実験で得られたことは、
本来、正義とは高い倫理観と良心に基づいた行為だろう。だが、実際は多数派に属することであったり、同調圧力であったり、暴走し独善となることがほとんどではないか。
昨今のSNSでの誹謗中傷も己の正義を暴走させた結果だろう。
今の時代の正しさとは、自分の行動が許されているという確信や安心感を権力者によって得ることではないか。その権力者は時にマスメディアであったり、時代の空気、風潮であったりもするだろうが。
ハンナ・アーレントが批判を受けたのはアイヒマンを普通の人だと結論付けたからだけではない。ユダヤ人の中には(渋々ながらも)ナチスに協力した者がいたこと、そしてナチスに抵抗しなかったことが、ホロコーストを拡大したと書いたからだ。
実験ではないが、『リズム0』というパフォーマンス・アートがある。『リズム0』はパフォーマンス・アーティストであるマリーナ・アブラモビッチによる作品だ。
1974年に行われたこのパフォーマンスはアブラモビッチは観客が彼女に行うことに対して抵抗せず、長時間マネキンのようにそこに佇むだけであり、観客はアブラモビッチの前においてある72個のアイテムを彼女に対して使ってもいいという内容だ。
6時間にもわたるパフォーマンスの結果はどうだったのか。無抵抗な彼女に対して人々は徐々に暴力的になり、最終的には服を切り裂かれ、肌を切りつけられるまでに至った。それでもなお無抵抗を貫いたアブラモビッチだったが、パフォーマンスが終わり彼女が動き出したとき、観客の中には彼女に怯えて逃げ出す者もいたという。
『リズム0』は社会のルールから切り離されたとき、人はどれだけ暴力的になるのかを確かめるために行われたという。無抵抗なアブラモビッチは僅かな時間の中で人間ではなく、モノとして扱われるようになっていったのだろう。彼女が再び動いた時に怯えた人は、自分が「人間」に対してどれだけ残酷になれたのか、その悪魔のような事実にこそ怯えたのではないか。