『プロミシング・ヤング・ウーマン』#MeToo後の世界の歪んだ正義

※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています


「金曜日は楽しませてくれる悪い男の子が必要
日曜日に私を起こしてくれる優しい男の子とが必要
月曜日の夜には仕事場の男の子が来てくれる

全員欲しい」

『プロミシング・ヤング・ウーマン』はチャーリー・XCXの『Boys』という曲から始まる。
この歌詞だけ見ると都合の良い男だけを欲しがっている女尊男卑のような印象を持ってしまうが、この楽曲のミュージックビデオでは、数多の著名な男性が登場し、ピンクが印象的な世界で女性が行うような仕草を見せている。『Boys』のミュージックビデオは「ジェンダーを問いかけるもの」として話題になった。

『プロミシング・ヤング・ウーマン』

さて、今回紹介する『プロミシング・ヤング・ウーマン』は2020年に公開されたエメラルド・フェネル監督、キャリー・マリガン主演のスリラー映画だ。
今作は#MeToo後のハリウッドを象徴するような作品だと思う。

大学の医学部を中退し、昼間はコーヒーショップのバリスタとして働くキャシー。彼女には誰にも知られていない夜の顔があった。
それは男たちへの復讐だ。キャシーはクラブなどで泥酔したふりをし、それをいいことに都合よく彼女を家まで連れ込み、犯そうとしている男たちに制裁を加えることだった。
大学時代、キャシーには親友のニーナという友人がいたが、彼女は酔っていたのをいいことに学校の男たち複数からレイプされ、大学を中退した。
キャシーが大学を中退したのも、傷ついたニーナを支えるためだったのだが、その後ニーナは自殺してしまう。

「男=悪」?

『プロミシング・ヤング・ウーマン』は批評家から絶賛され、監督のエメラルド・フェネルは初の長編監督作にしてアカデミー賞では作品賞や脚本賞、監督賞などにノミネートされるなどの成功を収めた。また批評家からも本作は絶賛されている。
個人的には確かに優れた作品だとは思うものの、作品全体に漂う「男=悪」の世界観にはどうも違和感を覚える。
今作に登場する若い男はいずれも女性を性欲のはけ口としか認識しておらず、褒め言葉や称賛の言葉も結局はセックスという見返りを求めてのものだ。
もちろんレイプや強制は論外であるし、女性が酔っているという状況を利用するのも卑怯だと思う。
しかし、泥酔したふりをして男性を「罠」にかけるのはどうなのだろうか。
確かに下心を抱く男性はいる。もっと言えばほとんどの男は女性に対して性的な欲求を少なからず持っているものだ。だからといってわざわざそれを誘発するためだけの行動を取るのが本当に正しいのだろうか(オシャレ目的で露出度の高いファッションをしているのとは根本的に意味が違うことは理解してほしい)。

セカンドウェイブ・フェミニズム

今作は女性から男性に対する復讐を描いた作品だが、この手の復讐モノは古くから存在していた。
例えば1978年に公開された『悪魔のえじき』。主演はカミール・キートンが務めている。カミール・キートンは喜劇王と呼ばれたバスター・キートンの姪に当たるが、ヌードやレイプシーンも厭わない体当たりの演技を見せてくれている。
この映画が公開されたタイミングは『タクシードライバー』や『エイリアン』、『ゾンビ』と同じ時代と言える。ちょうその時期はセカンドウェイブ・フェミニズム(第二波フェミニズム)と呼ばれる時代だ。当時は女性は法律上の平等は手にいれつつも、依然として社会には性別によって扱いが異なるという状況は続いていた。それを打破しようとしたのが第二波フェミニズムだ。

例えば『エイリアン』ではアンドロイドがリプリーを殺そうと口の中に丸めた雑誌を突っ込むシーンがあるが、これは性器を持たないアンドロイのアッシュにとってレイプの代替行動ではないかという説がある。また、エイリアンの頭部のモチーフは男性器であり、そうした「男」の象徴をリプリーが倒していく物語とも解釈することが出来る(もっともリプリーを演じたシガニー・ウィーバーは『エイリアン』がフェミニズムの文脈で語られることについては否定的な意見を述べているが)。

ゾンビ』におけるフランのキャラクターもセカンドウェイブフェミニズムを体現しているキャラクターだろう。フランを演じたゲイラン・ロスはフランについて「ただ泣いたり叫んだりするホラー映画のヒロインを演じたくはなかった」という。ロメロにも「男性と対等の女性を演じたい」と要望した。フランは物語の中で銃の扱いを覚え、男性と対等の力関係を築くほどに強くなっていく。『ゾンビ』の前作の『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』のヒロイン、バーバラが終始弱々しいのとは対称的だ。
実際に1970年代には女性を男性と同等に扱う平等法がいくつも成立した。
『ゾンビ』の中では男性のピーターとスティーブンが妊娠中のフランを中絶させるべきか話し合う場面もある。ここでは女性の主体性が男性によって奪われている構図になる。これもまた1970年代の現実のひとつであっただろう。
ゲイラン・ロスは『ゾンビ』製作当時でさえ、女性の中絶の権利を映画に盛り込むことはタブーだったと語る。そして、それに果敢に切り込んだロメロを時代に先駆けたフェミニストであったと称賛している。
『悪魔のえじき』もそうしたムーブメントを背景にした作品と言えなくもないが、やはりレイプシーンの描写などは性的な欲望を誘うものとしても捉えることが出来る(何と言っても日本では当初『発情アニマル』のいうポルノ映画まがいのタイトルで公開された事実もある)。

『告発の行方』

他に印象的な作品といえば1989年に公開された『告発の行方』だ。こちらは復讐モノというよりも社会派の作品と言える。ウェイトレスのサラは酒場で男三人にレイプされる。しかし、加害者の方はセックスは合意の上だったとサラのレイプという主張を否定する。事件を担当する検事補のキャサリンはサラが事件当時酒に酔い、マリファナを吸っていたことから、その主張が全面的に認められる可能性は低いとして司法取引に応じるが、それを知ったサラは自暴自棄になり自殺未遂まで起こしてしまう。
見舞いに来たキャサリンにサラは「味方だと思っていたのに」とつぶやいた。こキャサリンはサラの言葉に自らの行いを悔やみ、事件を洗い直し、その場にいた男たちもレイプを教唆した罪で訴追しようとする。
本作自体はフィクションだが、1983年にマサチューセッツ州で起きた事件が元になっている。
女性がレイプされるという事件に対して、ケリー・マクギリス演じる検事補のキャサリンも当初はあまりサラに同情的ではないというのはポイントだろう。
それがこの当時の世間の目線だったのだ。
『告発の行方』のエンディングでは「アメリカでは 6分に1回レイプ事件が起きている」という事実が流される。
#MeTooのきっかけもハリウッドの大物プロデューサーのハーヴェイ・ワインスタインが多くの女性にセクハラや性加害を繰り返していたことが明らかになったからだった(この顛末は2022年に『SHE SAID/シー・セッド その名を暴け』というタイトルで映画化されている)。

前途有望な若者の未来

さて、今作のタイトル『プロミシング・ヤング・ウーマン』は「前途ある有望な若い女性」という意味になる。
元々は2015年にスタンフォード大学の宿舎で開かれたパーティーで19歳の水泳部の男子学生が、酩酊状態の22歳の女子学生をレイプした事件の裁判で裁判官が被告にかけた言葉が元になっている。
この裁判で男子学生への求刑は禁錮6年だったのだが、判決は大幅な減刑となる禁錮6ヶ月と3年の保護観察であった。
その時に裁判官は「前途有望な若者の未来を奪ってはいけない」と述べたのである。

では被害者の未来はどうなるのか?『プロミシング・ヤング・ウーマン』のタイトルにはそんな怒りが込められている。
本作のやや極端な「男=悪」という図式に賛同できないものの、被害者の尊厳をおろそかにし、加害者の人権を守ろうとする歪さへの怒りは共感できる。
日本でも北海道の学校で起きたいじめで被害者が自殺した事件で、教頭が「加害者にも未来がある」と発言して猛批判に晒された。

『プロミシング・ヤング・ウーマン』はそこが違う。ハリウッド的なカタルシスをあえて封印してまでも監督のエメラルド・フェネルは結末のストーリーにこだわった。
キャシーはニーナをレイプした主犯であるアルの独身最後のパーティーへ潜入する。セクシーなナースのコスプレの女性の乱入に皆大盛り上がり。キャシーはアルを誘惑し、プレイの一部と思わせて手足を拘束する。そしてアルに復習をしようとしたところで拘束が外れたアルの反撃に遭い、窒息死してしまう。
キャシーの遺体は焼却され、事件は隠滅されたかに見えたが、その後キャシーが自身の身になにかあったときのために前もって用意していた文書が弁護士のもとに届く。それを元に行方不明扱いになっていた事件当日のキャシーの足取りが明らかになり、結婚式が行われている最中にアルは逮捕され、映画は幕を下ろす。

もう一つのエンディング

ただ、フェネルは公開版とは別のにもう一つのエンディングを準備していた。それは、キャシーがアルのパーティー会場となっている家に火をつけて男たちを皆殺しにするというものだった。
しかし、そうした場合のキャシーの残りの人生を考えた時に、彼女は刑務所で過ごすことになる。果たして彼女が殺したアルを始めとする男たちにそれだけの価値はあるだろうか?フェネルはそう思い、このエンディングを採用しなかった。

公開版のエンディングは賛否両論となったが、個人的には公開版の方を支持したい。やはりキャシーというキャラクターは完全な「善」ではない。復讐に取り憑かれた、ある種の狂気を帯びたキャラクターだ。キャシーは出来たばかりの恋人がニーナがレイプされた場に同席していたことを知ると、彼を脅し復習の手助けをさせようとする。誰しも自分の過去が完璧な人間などいない。その全てを償うことは不可能だが、キャシーはそれが許せないのだ。このあたりは最近の際限なきキャンセルカルチャーの狂気にもつながる。
キャシーは男を罠にかけ、制裁を加えてきた。それは性的に女性が搾取され、尊厳が軽視されている現実社会への反発でもあるだろう。
だが、それでもまだ現実の壁は分厚い。キャシーが殺されるというラストはそのことを私達に示している。ここではアルが身勝手な殺人を行うことで、それまで狂人だったキャシーを完全な被害者側に転化させることに成功している。
ここで確かに当初の「レイプの加害者に対する暴力的な復讐」というカタルシスは確かに薄れる。

だが、法治国家で私刑はまかり通らない。
アルがきちんと警察に捕まったことについて、一方のキャシーが「男にあえて手を出させるように」泥酔したふりをしていることに違和感を感じる者にとっては、この「復讐」の結末は納得できるはずだ。

だが、現実世界には泥酔した女性を優しく介抱するだけの男も確かに存在する。

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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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