『ゾンビ』ロメロが描いた人間への希望と絶望

※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています


元々ゾンビとはブードゥー教における、生き返った死者を指す言葉だった。「生ける死者」となった彼らは奴隷として永遠に働くこととなる。いわば、生者のために存在する哀れな存在であった。
ゾンビが初めてスクリーンに登場したのは1932年に公開された。ベラ・ルゴシ主演の『恐怖城(ホワイト・ゾンビ)』だった。しかし、その時はまだ動き回る死体くらいの扱いでしかなく、この映画における恐怖はゾンビそのものではなく、「自分もゾンビにされるかもしれない」恐怖であった。
そんなゾンビのイメージを一新させたのが映画監督のジョージ・A・ロメロだ。

ジョージ・A・ロメロの創造したモダン・ゾンビ

ロメロは幼い頃からホラー映画を見て育った。
リチャード・マシスンが1954年に発表した小説『地球最後の男』に影響を受けたロメロは従来のゾンビに新しい要素を加えた。それはゾンビがゾンビを増やしていくという設定だ(ちなみに2007年に公開されたウィル・スミス主演の『アイ・アム・レジェンド』は『地球最後の男』の三度目の映画化作品である)。
『地球最後の男』では吸血ウイルスが蔓延し、人々が次々に吸血鬼になっていくが、ロメロはゾンビに噛まれた者はゾンビになるという設定にしている。今日のゾンビというキャラクターの核となる部分はロメロによって作り出されたものだ。

『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』から『ゾンビ』へ

前置きが長くなったが、今回解説したいのはそんなジョージ・A・ロメロが1979年に発表した『ゾンビ』だ。主演はケン・フォリー、ゲイラン・ロスが務めている。

もっとも、ロメロが初めて監督したゾンビ映画は1969年に公開された『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』であり、前述のゾンビの特徴も全て有しているのだが、それでも今日のゾンビ映画に決定的な影響を与えたのは『ゾンビ』だろう(『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』ではゾンビという名称は使われず、甦った死体はグールと呼ばれている)。また単なるホラー映画に留まらず、社会的なメッセージも込められているという点においても『ゾンビ』は傑出している。
『ゾンビ』は『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』の続編であり、地球上にゾンビが溢れた世界を描いている。
『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』は黒人の男性が主人公であることと、そのあっけない結末から同作は公民権運動や人種差別を描いているとも言われる。もっとも、これに関してはロメロはそのような政治的な意図は無かったと述べており、後の評論家の解釈による所が大きい。しかしながら計らずもその時代を見事に貫いた作品と言えるのではないだろうか。
『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』はロメロと仲間たちが資金を出し合い、コツコツと作り上げた低予算の映画だった。日本では公開されることはなかったが同作は高い評価とカルト的な人気を得た。すぐに続編の話を持ちかけられたが、ロメロは撮るべきネタがないと断り続けていたという。

『ゾンビ』と消費社会への批判

しかし、1974年に建設中のモンローヴィル・モールを案内されたロメロはひとつのアイデアを思い付く。それが消費社会への批判だった。ショッピングモールは生活に必要なものがすべて揃う。ロメロはモールこそがアメリカの消費の中心になると考えた。
『ゾンビ』において、甦ったゾンビ達は生前の行動様式をなぞって行動するとされており、ショッピングモールへ集まってくる。そこには飽かずに宣伝に乗せられ消費を繰り返す現代人の姿が透けて見える。
『ゾンビ』の映画評論は数多くあり、そのほとんどに消費社会への批判というメッセージは記されているだろう。

『ゾンビ』でヒロインのフランを演じたゲイラン・ロスはインタビューでこう答えている。
「劇中、たくさんのゾンビがショッピング・モールにつめかけるが、生ける屍になってまでなぜ彼らはモールに来るのか。それは彼らが、モールに来ることしか知らないから。彼らは、私たちが『考えなない消費者』になってしまったことを示唆している。」
だが、欲に溺れた姿を晒すのはゾンビだけではない。モールのなかで一応の安全を得た主人公たちはモール内の宝石や毛皮のコートを身に付けるなどの行動をしている。一定の安全さえ満たせるのであれば、その次にあるのはこのような物質的な欲望なのではないか?それが現代人の本当の姿ではないのか?
『ゾンビ』の当初の脚本では、主人公らもショッピングモールに立て籠っている内に徐々にコミュニケーション能力を失っていき、猿のようになってしまうというストーリーだったという。
モノで溢れた生活、物欲に踊らされた暮らしへの批判がより鮮明になってくる。

本当の怪物

このように『ゾンビ』では人間の恐ろしさ、愚かさが映し出されている。ロメロは常に人間ドラマを描いてきた。
「ゾンビより本当に恐ろしいのは人間の方だ」
『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』 からゾンビに対するロメロの姿勢は一貫している。
ピーター達が身を隠しているショッピング・モールへ暴走族集団が略奪を目的に襲撃してくる。彼らの襲撃によってゾンビとケン・フォリー演じるピーターらを隔てていた壁は壊され、ゾンビがショッピングモールの中へなだれ込む。
暴走族集団はゾンビを完全にモノとして扱い、パイ投げをしたり、戯れにゲーム感覚で殺したりしている。
ゾンビと人間、果たして本当の怪物はどちらなのか。

ロメロが強く影響を受けた『地球最後の男』で、主人公のロバート・ネヴィルは夜は吸血鬼達の襲来に備え、昼間は吸血鬼退治をしている。彼らの寝床である墓を暴き、心臓に杭を打ち込んでいく。
新人類(おそらく『ゾンビ』での暴走族の乱入というストーリーも『地球最後の男』に影響を受けているのではないだろうか)にネヴィルは捕らえられ、処刑されようとするが、ネヴィルを処刑しようとする彼らの目には恐怖が浮かんでいた。
ネヴィルにとっては怪物とは吸血鬼のことだったが、新人類にとってはネヴイルこそが仲間の殺戮を繰り返す「怪物」であった。
『ゾンビ』には明確な価値観の逆転こそ描かれないが、本当の怪物とは何か考えさせられる余地がある。

1970年代のセカンド・ウェイブ・フェミニズム

もうひとつ、『ゾンビ』には押さえておきたい社会的な要素がある。それがフェミニズムだ。
特に60年代から70年代は第二波フェミニズムと呼ばれる時代を迎えた。
第一波のフェミニズムは法的な平等の要求を中心としたものだった。1920年のの合衆国憲法修正によって女性への投票権付与は果たされた。だが、依然として社会には性別によって扱いが異なるという状況は続いていた。
それを打破しようとしたのが第二波フェミニズムだ。
『ゾンビ』におけるフランのキャラクターはまさにそれを体現している。ゲイラン・ロスは『ゾンビ』のフランについて「ただ泣いたり叫んだりするホラー映画のヒロインを演じたくはなかった」という。ロメロにも「男性と対等の女性を演じたい」と要望した。『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』のヒロイン、バーバラが弱々しいのとは対称的だ。
もちろん『ゾンビ』以前に男性と対等の女性を描いた映画が全くないかと言われればそうではないだろうが、それでも『ゾンビ』はひとつのエポック・メイキングだと言えるだろう(例えば1973年に公開された『悪魔のいけにえ』のヒロイン、サリー・ハーデスティは戦う女性ではないかと思ってしまうが、彼女は能動的に戦うバトル・ヒロインではなく、結果として勝ち残るファイナル・ガールの要素が強い)。

一方で『ゾンビ』と同じ年に公開された『エイリアン』はシガーニー・ウィーバーの出世作であり、フェミニズムに結びつけて論じられることの多い作品でもある。
エイリアンの頭部が男性器をモチーフにデザインことや、アンドロイドのアッシュがリプリーを襲うときに口に丸めた雑誌を突っ込むことから、これは性器をもたないアンドロイドによるレイプを表しているのではないかという意見も存在する(リプリーを演じたシガーニー・ウィーバーは『エイリアン』を安易にフェミニズムに結びつけることには慎重な姿勢を見せているが)。
『エイリアン』でシガーニー・ウィーバーの演じるエレン・リプリーはたまたま一人生き残るという意味ではファイナル・ガールの要素もあるが、終盤でこれ以上逃げられないと悟った彼女は意を決してエイリアンと対峙する。

『ゾンビ』がフェミニズムの先鞭をつけた作品というよりは、すでにそのような時代の空気が生まれつつあったということだろう。実際に1970年代には女性を男性と同等に扱う平等法がいくつも成立した。また教育の分野でも女性に門戸が開かれ、1980年には高等教育の学生の半数まで女性の割合は高まった。
もちろんこれらの時代の空気を敏感に感じ取っていち早く作品に取り入れたロメロの感性は言うまでもない。

一方で『ゾンビ』の中ではピーターとスティーブンが妊娠中のフランを中絶させるべきか話し合う場面もある。ここでは女性の主体性が男性によって奪われている構図になる。これもまた70年代の現実のひとつであっただろう。
ゲイラン・ロスは『ゾンビ』製作当時でさえ、女性の中絶の権利を映画に盛り込むことはタブーだったと語る。そして、それに果敢に切り込んだロメロを時代に先駆けたフェミニストであったと称賛している。

アメリカン・ニューシネマからの脱却

『ゾンビ』の当初のラストはピーターが自殺、フランもヘリのローターに自ら頭を突っ込み自殺するというアメリカン・ニューシネマの流れを汲む陰鬱な終わり方だった。
公開版では残り少ない燃料の中、フランとピーターがヘリで夜明けの空へ飛び立つという、希望と絶望が同時に存在する絶妙なエンディングだ。そこには人間の愚かさを描きながらも、同時に人に希望を見いだす、ジョージ・A・ロメロのヒューマニズムが透けて見えるようにも感じる。

一方で「残り少ない燃料」に象徴される絶望の影は1980年代に顕在化していく。
金融市場の自由化によって、人々の欲望は肥大化し、『ウォール街』のゴードン・ゲッコーのような金儲けだけを目的とするような人々が増加した。また、フランに象徴されたフェミニズムも80年代に沸き上がった反フェミニズム運動に足止めを食らうこととなった。
80年代はレーガノミクスによって、新自由主義経済の始まりの時代でもあった。新自由主義の負の側面が格差の拡大だ。

人間の貪欲さこそが文明を破滅に導く

ジョージ・A・ロメロは2005年に28年ぶりとなる続編を発表した。その作品『ランド・オブ・ザ・デッド』は貧富の格差を暗喩した作品になった。
ロメロは2017年に亡くなるが、生涯を通じて社会的な平等や公平さについて強い主張を抱き続けた。原始共同体こそがロメロの理想だと語られることもあるのだが、その真偽はさておいても一貫してヒューマニズムへの願いがあるように思う。

ロメロはホラー映画、とりわけゾンビ映画の巨匠として知られるが、映画を通して現実社会を鋭く見つめ続けた。
ロメロは自身の映画におけるゾンビの存在についてこう述べている。
「ゾンビは旧世代を終焉に導く一種の革命装置だが、ゾンビが世界を終わらせるのではない。人間の貪欲さこそが文明を破滅に導くのだ」

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映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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