『空の大怪獣 ラドン』本多猪四郎とはどのような人物だったのか?


※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています


日本映画の巨匠を問われたらなんと答えるだろうか。
黒澤明、小津安二郎、溝口健二、市川崑、大島渚などの名前が挙がるかもしれない。もちろん 世界に名だたる名監督であることは間違いない。
だが、本多猪四郎の名前をどれほどの人が知っているだろうか。

本多猪四郎

本多猪四郎は1911年生まれ。1933年にPCL(東宝の前身)に入社。黒澤明や谷口千吉はこの時の同期にあたり、生涯の親友となった。
本多猪四郎について、好きなエピソードがある。1990年に黒澤明がアカデミー賞特別名誉賞を受賞した。その時のプレゼンターはジョージ・ルーカスとスティーヴン・スピルバーグが務めたのだが、その両人とも本多猪四郎のファンであることを公言していた。その後、黒澤明は本多猪四郎と呑んだ時に「イノさんは俺よりずっと有名なんだぞ」と語ったという。
言わずと知れた世界のクロサワ。そのクロサワが「俺より有名」と語るのが本多猪四郎なのだ。

猪四郎は1971年に東宝を退社。監督業としては1975年に公開された『メカゴジラの逆襲』が最後の仕事となるが、その後は黒澤明の映画にフリーのスタッフとして参加、『影武者』から黒澤明の遺作となった『まあだだよ』まで関わっている。当初『影武者』は本多猪四郎と黒澤明の両監督名義で製作しようと黒澤明は持ちかけたそうだが、それを猪四郎は頑なに固辞したという話もある。本多猪四郎の温厚で誠実な人柄を示すエピソードだ。
また本多猪四郎の人気についてはこんなエピソードもある。ティム・バートンが「監督に会いたい」と黒澤明の現場を訪れたそうだ。その時にバートンは待ち構えていた黒澤明を素通りして、「カントク!」と猪四郎に握手を求めたという。

間違いなく日本を代表する巨匠の一人でありながら、一般的には知られてない本多猪四郎とはどんな映画監督だったのか。
本多猪四郎の代表作といえば『ゴジラ』だ。もはや説明のしようもない日本代表するポップカルチャーでもあり、また世界で称賛された、映画史に残る傑作でもあるだろう。『ゴジラ』のレビューでは、戦争と原爆の惨禍を目の当たりにした本多猪四郎の実体験が映画にどのように反映されているかを書いたつもりだ。

今回は違う作品を通して本多猪四郎とその時代を考察してみたい。今回紹介する映画は『空の大怪獣 ラドン』だ。

『空の大怪獣 ラドン』

『空の大怪獣 ラドン』は1956年に公開された怪獣映画。主演は佐原健二が務めている。ちなみに『ゴジラ』で隻眼の科学者芹沢大助を演じた平田昭彦も生物学者の役で出演している。
本作で初登場となるラドンだが、今では『ゴジラ』シリーズに登場する怪獣の一つというイメージが圧倒的だろうが、もともとは『ゴジラ』シリーズとは別の独立した怪獣映画だった(ちなみにモスラもそうだ)。私としても本当に幼い頃から親しみをもっている怪獣だ。まぁ一番好きなゴジラ怪獣はアンギラス、もしくはビオランテではあるが。

さて、『空の大怪獣 ラドン』の企画のきっかけは「超音速で空を飛ぶゴジラ」だという。本多猪四郎もインタビュー(著書『「ゴジラ」とわが映画人生』)で「『ゴジラ』の再来的な考えのもと、次は空を飛ぶものにしようじゃないか、それくらいの感じ」と述べている。

また、本作は怪獣映画としては初のカラー映画でもある。モノクロ映画だった『ゴジラ』は白黒の画面がある意味ファンタジーのようにも感じてしまうのだが、『空の大怪獣 ラドン』はそうではない。確かにどれもかつて存在した日本の姿なのだと感じられる。『空の大怪獣 ラドン』は公開年を考えると今から70年前近い映画だが、当時の町並みを知る歴史的な資料としても貴重だろう。

物語は熊本県阿蘇市の炭鉱から始まるが、炭鉱業がこのように地域の産業を支えているのもこの時代ならではだと思う(ちなみに実際の阿蘇には炭鉱はないために、長崎県の北松浦郡鹿町町で行われた)。ケータイはおろか、コンピューターもない時代だ。阿蘇のような地方はアスファルトで舗装された道などまだ存在しないように見える。
とは言え、台詞の中に「地球温暖化」という言葉があったり、今に続く社会問題がすでにこの戦後間もない時代に存在していたことには驚かされるが。
『空の大怪獣 ラドン』で登場する町並みは阿蘇、佐世保、福岡だ。特に福岡は私が住んでいる場所なので興味深い。
1994年に公開された『ゴジラvsスペースゴジラ』も福岡が舞台だった。だが、『空の大怪獣 ラドン』に登場するのは70年前の福岡の街並みだ。建物を観ていてももはやどこがどこなのかわからない。わかったのは新天町くらいだが、それほどに福岡の街も時代の中で変わってきたのだと感じる。そういえば当時のゴジラの体長は50mだったが、高層ビルや超高層ビルができるにつれて、平成には120mまで巨大化が進んでいった。

人間を大切に描く誠実さ

『空の大怪獣 ラドン』にはラドンの他にメガヌロンというトンボの幼虫が登場する。本多猪四郎のインタビューによると、「ラドンだけでは興行的に弱いと思われたのかもしれない」とのことだったが、猪四郎自身はメガヌロンのシーンがお気に入りだという。
実は『空の大怪獣 ラドン』というタイトルにも関わらず、ラドンは後半にしか出てこない。前半は炭鉱内での死傷事故とその犯人(メガヌロン)探しに多くの時間を割いている。
例え特撮映画の主な客層が子供だったとしても、決して人間をなおざりにしたい、それは『ゴジラ』にも通じる本多猪四郎の誠実さではないかと思う。後にゴジラ映画が東映チャンピオンまつりという子供向け興行プログラムに加わるのには忸怩たる思いを持っていたようで、「ゴジラを東映チャンピオンまつりの仲間にしてはいけない」と語っていたという。もっとも東映チャンピオンまつりは当時の映画界の斜陽に加え、『ゴジラ』のプロデューサーであった田中友幸が「低予算でもいいからゴジラ映画を残したい」と企画したものではあったのだが。
話を戻そう。メガヌロンのシーンはドキュメンタリータッチで演出したと猪四郎は語っている。本作におけるメガヌロンにはいくつかの役割があると思う。
一つは(これは猪四郎自身も語っているが)ラドンに生物的な理由を加えるためだ。ラドンはプテテラノドンかもしくはそれに近い生物が水爆実験の放射能や地殻変動によって巨大化した生物だとされているが、生物である以上、それが何を食べているのかという問題を解決するための存在がメガヌロンだ。
もう一つは怪物と人間というスリルを描くためだ。怪獣のような巨大なモンスターと遭遇した場合の人間の行動は基本的に逃げるか、それとも自衛隊のような災害対策のプロが応戦するか、大雑把に言えばその二通りしかない。
これでは人間側は作戦会議の姿を映すばかりで、現実的なスリルなどのドラマを描くことは難しい。そこで人とあまり変わらない大きさの怪獣が必要になる。『ジュラシック・パーク』でも最もスリリングだったのはティラノサウルスに襲われるシーンではなく、調理室でヴェロキラプトルなら逃げ回るシーンだったはずだ。

本多猪四郎のヒューマニズム

一方でラドンについて本多猪四郎は「出てきて自分でゴーっとやったら変なのが来て追いかけられるし、降りればいろんなのがバチバチいってるし、なんだよ、オレは飛んできてメシ食いたいと思っているだけだよ」とラドンの思いを代弁しつつ、その存在について語っていた。
ゴジラが原爆のメタファーだとすると、ラドンは(水爆の放射能の影響かもしれないとの共通点はありつつも)より純粋に生物として描かれていることがわかる。

ラドンのエンディングは名場面として名高い。当初は自衛隊の攻撃を尻目に2頭のラドンが噴火する阿蘇山の上空を旋回するエンディングだったが、撮影で中にラドンを吊っていたピアノ線が熱で切れてしまい、ラドンが落下。噴火の熱で焼け落ちるラストになった。撮影のアクシデントが生んだ偶然の賜物だったが、特技監督の円谷英二は「撮ろうとして撮れるものではない」として撮影を続行したという有名なエピソードがある。
焼け死ぬラドンに涙を流す白川由美の演技が印象的だが、これも本多猪四郎ならではのヒューマニズムだと思う。『ゴジラ』ではゴジラを倒すために芹沢博士は命を捨ててゴジラと共に東京湾で果てる。ラストで人々は芹沢への哀悼とゴジラが死んだことに対して安堵するが、一部の観客や製作スタッフの中には「ゴジラがかわいそうだ」という声もあったという。
今回の『空の大怪獣 ラドン』もただ生きていただけであるのに、人間に殺されねばならないという人間の身勝手さと怪獣への哀しみがある。それをよりストレートに表現したのが白川由美の涙だと思う。

本多猪四郎は自身を定義付けるなら徹底的にヒューマニズムの人物だと語る。それは猪四郎の生家がお寺であったことも関係しているのかもしれない。父親には一度も殴られたことはなかったという。
猪四郎自身も温厚な人柄だったことは冒頭でも述べたが、子供と一緒に映画を観に行っても、「本多監督」だと入り口のもぎりの人が気づくと料金を返して指定席に案内しようとしたらしいのだが、猪四郎は必ず「みんなと一緒に観ますから」とそれを断っていたという(『「ゴジラ」とわが映画人生』内の長男 本多隆司氏のあとがきより)。

本多猪四郎は1993年に亡くなるが、その墓所には黒澤明からのこんな言葉が刻まれている。

「本多は誠に善良で誠実で温厚な人柄でした
映画のために力いっぱいに働き十分に生きて本多らしく静かに一生を終えました」

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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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