『エイリアン』

※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています


小学生の時から『エイリアン』シリーズのファンだ。具体的にいつから好きになったかは記憶にないが、『エイリアン4』を映画館に観に行ったことを覚えているから、少なくても10歳のころにはそうだったのだろう。
『エイリアン』シリーズの何が魅力だったのか。それは今思うとホラー描写とエイリアンというキャラクターの不気味さだ。
キャラクターで言えばゴジラも小さい頃から一貫して好きなのだが、ゴジラにはかっこよさこそ感じれど、直感的に不気味さや危なさは感じなかった。ちょうど思春期に差し掛かった男子がちょっと背伸びしたり、スリルを求めるような感覚だろう。それが僕にとってはエイリアン(とロックミュージック)だっただけだ。

『エイリアン』シリーズも作品によって雰囲気が大きく変わる。アクション要素の強い『エイリアン2』、SFホラー色の強い『エイリアン3』、グロテスクな恐怖が加わった『エイリアン4』といった具合に。
しかし、今回解説してみたいのは全ての原点となる第一作目の『エイリアン』だ。

『エイリアン』

1979年に公開された『エイリアン』は監督のリドリー・スコット、主演のシガーニー・ウィーバー両者のブレイク作としても有名だ。特にシガーニー・ウィーバーに関してはその後『エイリアン4』まで約20年間主人公を務め続けることになる。
一方のリドリー・スコットは映画監督として巨匠とも言える地位を築き上げた後もなかなか『エイリアン』シリーズに戻ってくることはなかった。
そんなリドリー・スコットがシリーズに復帰したのが2012年に公開された『プロメテウス』だ。その後、2017年に『プロメテウス』の続編で『エイリアン』の前日譚となる『エイリアン:コヴェナント』が公開された。同作でもリドリー・スコットは『プロメテウス』に引き続き監督を務めている。
物語の時系列としては『プロメテウス』→『エイリアン:コヴェナント』→『エイリアン』の順だ。そう考えた場合、この3作はリドリー・スコットの『エイリアン』三部作とも言える(本来であれば『エイリアン:コヴェナント』と『エイリアン』を繋ぐ作品がもう一本製作される予定だったのだが、そちらの方は現在製作の見通しは不明だ)。

『エイリアン』の影響

『エイリアン』について、名作であることにもはや異を唱える人は少ないだろう。SFホラーというジャンルの代表でもあると同時にストーリー展開やモンスターの造形など、数多くのフォロワーを生み出した映画だ。恐らくあまりに一般化し過ぎて『エイリアン』の影響を自覚していないクリエイターも少なくないのではないかとさえ思う。一例だが、1984年に公開された『ターミネーター』のストーリーは明らかに『エイリアン』の影響を受けている。『エイリアン』は全てが終わったと思わせておいて、観客が安心したところで予期せぬ最後の戦いが幕を開ける。
『ターミネーター』では未来から来た殺人アンドロイドであるとの戦いが描かれる。T-800の追跡から必死の思いで逃げるサラとカイルは、T-800が運転するタンクローリーを爆発させることに成功する。全てが燃え尽き、何もかも終わったと抱き合う二人の背後には、骨組みだけになったT-800が起き上がっていた。
このように『エイリアン』の全てが終わったと見せかけて実はもう一幕あるというストーリー構成はその後の映画に大きな影響を与えた(ちなみに『ターミネーター』の監督であるジェームズ・キャメロンは『ターミネーター』のヒット後に『エイリアン2』の監督に抜擢されている)。
もちろんエイリアンの造型もその後のモンスターの一つのベースを作ったという意味では極めて重要だ。美しさと不気味さが両立したそのビジュアルは他の映画やマンガのモンスターのどれとも異なっていて衝撃だった。
『エイリアン』について放っておくとこのままとりとめなく話を続けてしまう可能性が高いので、いくつかに分けて解説をしてみたい。特に『プロメテウス』や『エイリアン:コヴェナント』から見た場合の三部作の完結作としての『エイリアン』は『エイリアン2』や『エイリアン3』との比較とはまた違う視点で見ていくことができるのではないかと感じている。
まずは『エイリアン』が作られた背景から見ていこう。

『エイリアン』が出来上がるまで

『エイリアン』の原形を作ったのはダン・オバノンだ。オバノンは南カリフォルニア大学在籍中の1971年にジョン・カーペンターと共に短編映画の『ダーク・スター』を製作する。『ダーク・スター』は1974年に撮り足しを加えて長編映画として公開された。
しかし、SFコメディだった『ダーク・スター』で観客は少しも笑わなかった。その様子に落胆したオバノンは観客の誰もが震え上がるようなSFホラーを作ろうと誓う。その想いが後の『エイリアン』を生むことになる。
だが、『ダーク・スター』が生んだのは落胆だけではなかった。同作に感銘を受けたロナルド・シュセットがオバノンにコンタクトを取ってきたのだ。
二人は意気投合し、オバノンは『メモリー』というSFホラーの脚本に取りかかる。救難信号を受信した宇宙船が未知の惑星で怪物に襲われるという筋書きはすでに『メモリー』の時点で出来上がっていた。
だが、『メモリー』の執筆は意外な形で中断する。『ダーク・スター』に感銘を受けたアレハンドロ・ホドロフスキーの映画製作にオバノンがVFXスタッフとして招聘されたからだ。
その映画『砂の惑星』は結局製作が頓挫してしまい、オバノンはショックのあまり入院までしてしまう。ちなみにホドロフスキーの『砂の惑星』は2013年にドキュメンタリー映画『ホドロフスキーのDUNE』として企画から失敗の過程が公開されている。

こうして職をも失くしたオバノンをシュセットは自宅に居候させ、『メモリー』の執筆を再開するように励ました。
オバノンには『メモリー』とは別に作っていた脚本があった。それが『グレムリン』だった。『グレムリン』は第二次世界大戦中に東京から戻るB-17爆撃機の中にグレムリンが潜んでおり、乗組員を一人ずつ殺していくという内容だ。オバノンはシュセットのアドバイスもあり、『メモリー』に『グレムリン』の要素を加え、さらに改修を続けていった。タイトルも『メモリー』から『スタービースト』、『スタービースト』から最終的には『エイリアン』へと変わっていく。乗組員が一人一人殺されるという流れは『エイリアン』にそのまま継承され、Bー17は宇宙船のノストロモ号となった。
当時はSFとはB級の売れないジャンルだと見なされ 、特に見向きもされていなかったが、1977年に公開された『スターウォーズ』と『未知との遭遇』のヒットによりSF映画のブームが起きる。そんな時に20世紀フォックスに唯一あったSF映画の脚本が『エイリアン』の脚本だった。こうして『エイリアン』は本格的に映画化への道を歩むことになった。
それからもヒルはオバノンの脚本にさまざまな手を加えていった。主人公を女性にすることもその一つ。

当初はオバノン自身が監督を務めるつもりだったが、スタジオからはウォルター・ヒルが監督として予定されていると告げられる。実際、ヒルが監督予定ではあったのだが、ヒルはどうしても特撮に興味が湧かず、別の監督を探すことになった。そこで白羽の矢が立ったのがまだ映画監督としては新人だったリドリー・スコットだ。
ちなみに、オバノンが構想した『グレムリン』はなんと40年の時を越えて2019年に『シャドウ・イン・クラウド』というタイトルでクロエ・グレース・モレッツ主演で映画化されてしまった。『シャドウ・イン・クラウド』を観るといかにモンスターデザインが重要かということを痛感させられる。『シャドウ・イン・クラウド』に登場するモンスターはただの人型の巨大コウモリで美しさはおろか、怖さも全く感じられなかった。

H・R・ギーガー

ここからは詳しくエイリアンの造型について見ていこう。デザインを担当したのは前述のようにスイスのデザイナーである H・R・ギーガー。
ギーガーはオバノンから直接電話でエイリアンのデザインの依頼を受ける。ギーガーもまたオバノン同様に『砂の惑星』に関わっており、他にもに関わっていたスタッフの多くが『エイリアン』の製作にも参加している。ギーガーは「この映画はエイリアンこそが主演俳優なのだ」

ギーガーはモンスターデザインに限らず、セットデザインなども担当しているが、肝心のエイリアンのデザインに関しては既に出版していた画集の『ネクロノミコン』のデザインがほとんどそのまま採用されている。だが、『ネクロノミコン』で描かれていた生物とは決定的に違うところがある。それが目だ。

エイリアンの造形

エイリアンのデザインで何より画期的で斬新なのは「目がない」ということだ。「目がない」ことで観る側は感情が読み取りづらくなり、相手に対する不気味さも増す。
ターミネーター』に登場するT-800は目を負傷してからサングラスを掛け始めるが、それによってよりアンドロイドらしい冷たさが際立つようになっている。『ロボコップ』もそうだ。人間の頃の記憶を消され、ロボットとして蘇ったロボコップの非人間性の象徴として目を隠すように顔の上半分のマスクを装着している。
また、ギーガーは自身のデザインするキャラクターに性器をモチーフとすることが多いが、エイリアンやフェイスハガーも性器をモチーフにしている。
エイリアンの頭部は男性器、フェイスハガーの口の部分は女性器だ。余談だが、エイリアン・エッグの開閉口も当初は女性器をモチーフにデザインされていた。
そんなことまでギーガーが意識してはいないと思うが、このようなモチーフもあり、『エイリアン』は非常にフェミニズム的な映画だと指摘されることもある。

『エイリアン』とフェミニズム

シガーニー・ウィーバーの演じるエレン・リプリーは『エイリアン』で二つの敵と戦う。一つはもちろんエイリアン、そしてもう一つはアンドロイドのアッシュだ。
有名な話だが、アッシュがリプリーの口に丸めた雑誌を押し込んで殺そうとするシーンは性器を持たないアンドロイドにとって、レイプの代替行為だと言われている。
エイリアンもそうかもしれない。エイリアンの頭部は男性器がモチーフだが、エイリアンにも性器らしいものは見当たらない。
また、エイリアンがランバートを襲うとき、彼女の足の間へとエイリアンの尾が上っていくのが映し出される。これもレイプを連想させる演出だ。
『エイリアン』に登場するエイリアンやアッシュは言わば男性性の象徴であり、それらに打ち勝つのが女性であるリプリーというわけだ。ちなみにシガーニー・ウィーバー自身はそういった見方に懐疑的だったりもするのだが。
ちなみにほぼ同時期に公開された、ジョージ・A・ロメロ監督の『ゾンビ』もホラー映画にフェミニズムの主張を取り入れた作品だ。
『ゾンビ』におけるフランのキャラクターはまさにそれを体現している。フランを演じたゲイラン・ロスは『ゾンビ』のフランについて「ただ泣いたり叫んだりするホラー映画のヒロインを演じたくはなかった」という。ロメロにも「男性と対等の女性を演じたい」と要望した。『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』のヒロイン、バーバラが弱々しいのとは対称的だ。もちろん『ゾンビ』以前に男性と対等の女性を描いた映画が全くないかと言われればそうではないだろうが、それでも『ゾンビ』はひとつのエポック・メイキングだと言えるだろう。

『プロメテウス』『エイリアン:コヴェナント』を踏まえての『エイリアン』

さて、アッシュは起動停止する直前にエイリアンを「完全生物だ」と称賛する。アッシュだけは元々エイリアンの存在を知っており、その捕獲が目的だったのだ。
プロメテウス』『エイリアン:コヴェナント』を観るとこの場面がより深く理解できる。
『プロメテウス』『エイリアン:コヴェナント』ではエイリアン(ゼノモーフ)がどうやって誕生したかが描かれる。結論から言ってしまえば、エンジニアが創造したのがエイリアンであり、それに改良を加えて再現したのが『エイリアン』以降に登場するエイリアンだ(『プロメテウス 』で壁画のレリーフにエイリアンらしき存在が描かれていたことから、ベースはエンジニアがすでに作っていたと見るのが自然だろう)。
エイリアンを改良し、完成させたのはアンドロイドであるデイヴィッド。アンドロイドには性器がないとは前に述べた。果たしてデイヴィッドもそうなのかは不明だが、愛の概念を持たないアンドロイドにとっては、雌雄が揃わねば子孫を残せないというシステムは非効率にも見えたのだろう(余談だが、デイヴィッドを演じたマイケル・ファスベンダーはハリウッドでも●●●が大きいことで有名だという)。
アッシュもデイヴィッドも製造元はウェイランド・ユタニ社だ(デイヴィッドの製造元は正確にはウェイランド社。そのあとで日系企業の湯谷社と合併し、ウェイランド・ユタニ社となった)。とすると、なぜウェイランド・ユタニ社がエイリアンの存在を知っていたのかがわかりやすくなる。

興味深いのは『エイリアン』のディレクターズカットではエイリアン・エッグは繭にされた人間が変形して出来たものだということだ。
『エイリアン2』ではエッグはクイーンから産み出され、エイリアンが蟻や蜂などの昆虫と似たような生態であることが明かされる。『エイリアン2』以降もこの設定は踏襲されている。
だが、『エイリアン:コヴェナント』で示されたように、エイリアンは遺伝子実験を繰り返して産み出されたものだ。 エイリアンが生物として完成する前にすでに多くのエッグがデイヴィッドの手で作り出されていた。そのことを考えると、『エイリアン』の人間が繭にされエッグになるという設定の方が自然だ。

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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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