『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』スコセッシが描くアメリカの闇「オセージ族連続殺人事件」の実話

※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています


ジョニー・デップの初監督作品となった『ブレイブ』はデップ自身のルーツでもあるアメリカインディアンをテーマにした作品だ。しかし、『ブレイブ』は批評的に失敗し、監督のデップは北米での劇場公開を断念する結果となった。
『ブレイブ』は美しい作品ではあるものの、どうしょうもなく救いのない作品でもある。その重さに加え、アメリカインディアンをテーマとして取り上げたことも低評価の原因の一つにあるのかもしれない。『ブレイブ』で取り上げられているのは、職もなく貧しさの中で暮らすアメリカインディアンの姿だが、その根本には入植してきた白人が、彼ら先住民を迫害し、その資源や土地を奪い去ってきた歴史に向き合わねばならないからだ。
だが、ここ数年で流れは大きく変わった。マイノリティの存在が常に意識されるようになり、有色人種をメインキャストに含めた映画や、様々な肌の色、体型の人がモデルとして活躍するようになった。もし今の時代に『ブレイブ』が公開されていれば評価も違っていたかもしれない。

『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』

さて、今回紹介したい作品は2023年に公開された『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』だ。監督はマーティン・スコセッシ、主演はレオナルド・ディカプリオとロバート・デ・ニーロが務めている。
原作はデヴィッド・グランの『花殺し月の殺人 インディアン連続怪死事件とFBIの誕生』だ。

1920年代のアメリカ、オクラホマ州に暮らすアメリカインディアンのオセージ族。彼らの住む土地の下から採掘される石油の権利によって、オセージ族はアメリカでも有数の裕福な部族になっていく(デヴィッド・グランの原作によると、部族全体で4億ドルもの資産を持ち、自家用飛行機すら所有する者がいたという)。また、オセージ族で無能力者と見なされたものには白人の後見人を付かさねばならず、その白人が財産管理なども自由に行えるという法律があった。
元々寂しい土地だったオクラホマのオセージ族の居住区には石油業者などの白人が押し寄せ、オセージ族と結婚しようとした。それらは政略結婚とも言うべきもので、もしオセージ族の妻が死ねば、石油の権利は夫の元に入ってくることになる。

だが、スコセッシは「本当に全ての結婚が政略結婚だったのか?」という疑問を抱いた。これが映画化のきっかけになったという。
アーネストは第一次世界大戦での軍務を終え、仕事のために叔父を頼ってオセージ郡へやってくる。史実ではこの時アーネストは19歳だが、ディカプリオはもうすぐ50歳に手が届こうかという年齢だ。
叔父のウィリアム・K・ヘイルは「オセージ・ヒルズの王(キング)」と呼ばれ、オセージ郡において抜群の名声と権力を手にしていた。

ロバート・デ・ニーロとレオナルド・ディカプリオの共演

ウィリアム・K・ヘイルを演じたのはロバート・デ・ニーロ。マーティン・スコセッシ監督の『タクシードライバー』や『キング・オブ・コメディ』『レイジング・ブル』など中期の監督作の常連で、スコセッシ自身も「私の人となりを知る唯一の人」と述べている。
2002年に公開された『ギャング・オブ・ニューヨーク』からはレオナルド・ディカプリオとタッグを組むことが多くなったスコセッシだが、そもそもディカプリオをスコセッシに紹介したのはロバート・デ・ニーロなのだ。1993年に公開された『ボーイズ・ライフ』でディカプリオと共演したロバート・デ・ニーロはディカプリオについて「彼はすごくいい。一緒に仕事をした方がいい」とスコセッシに紹介したそうだ。事実、ディカプリオは同年に公開された『ギルバート・グレイプ』で19歳にしてアカデミー賞助演男優賞にノミネートされている。また、ホアキン・フェニックスも子役時代のエピソードとして、いつもオーディションでは「レオ」という名前の子役に合格を奪われていたとスピーチしている。

今作『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』のアーネストは非常に難しい役柄だ。映画を観ているうちにアーネストが善人か悪人かわからなくなってくる。
ヘイルはアーネストにの権利の話をしながら、モリーという純血のオセージ族との娘との結婚を猛烈にプッシュする。しかし、次第にアーネストはモリーそのものに惹かれ、彼女を愛するようになる。
モリーは白人たちがオセージ郡に入植しはじめてから育った女性で、オセージ族の伝統文化も西洋的な文化も双方を理解し、英語も喋れる。
ちなみに劇中のオセージ族の実際の言葉で、主要キャスト人はみなオセージ族の言葉を学んだという。その一人がモリーを演じたリリー・グラッドストーンだ。

リリー・グラッドストーンは1986年にモンタナ州で生まれた。グラッドストーン自身もアメリカインディアンであるネズ・パース族とブラックフィート族の血を引いており、アメリカインディアンの居留地で育ったという。奇しくもグラッドストーンがモリー役に決まった日はモリーが生まれた日(12月1日)であった。そしてモリーとグラッドストーンの生まれた年はちょうど100年違いという偶然もある。

アーネスト自身もモリーを心から愛するようになり、二人は結婚するが、その後モリーの姉のアナが何者かに銃殺される事件が起きる。そして、モリーの家族やオセージ族の人間が次々に殺されたり、不審な死を遂げることになる。
「花殺し月の殺人」の始まりだった。そしてオセージ軍は後に「オセージの恐怖時代」と呼ばれる暗黒時代へ入ってしまう。

アーネストとモリーの関係

グランの小説はノンフィクション小説らしい第三者的な視点からの文章なのだが、スコセッシとエリック・ロスの手掛けた『キラーズ・オブ・フラワームーン』の脚本は元々FBI捜査官であるル・ホワイトの視点から描かれている。レオナルド・ディカプリオも当初はビル・ホワイト役を演じる予定であったが、映画のテーマが「」であることと、それを知ったディカプリオがスコセッシに脚本の変更を提案したため、映画のスタイルも原作通りの捜査官が事件の全貌を解き明かしていくものではなく、アーネストとモリーの関係を中心に事件を描いていく(この映画の企画自体もディカプリオがスコセッシに持ち込んだようだ)。
ディカプリオはアーネストのキャラクターが持つ複雑さに惹かれたという。

今作で顕著なのはそれぞれの登場人物が持つ人間としての複雑さだ。核となる物語自体はそれに比べるとシンプルだが、この人物描写のキメ細やかさこそ、映画人として60年のキャリアを持つマーティン・スコセッシの最大の強みではないかと思う。
タクシードライバー』のトラヴィス、『ギャング・オブ・ニューヨーク』のアムステルダム、『沈黙 -サイレンス-』のキチジローなど、スコセッシの描くキャラクターは善と悪、強さと弱さが複雑に絡み合っている。一言では言い表せない登場人物ばかりだ。
中でもスコセッシはかつてキチジローについて「私です」と述べたことがある。キチジローは江戸時代の日本においては禁教とされたキリスト教の信徒(隠れキリシタン)だが、何度も踏み絵を踏み、何度もイエスを裏切り、しかしまたその都度信仰に救いを求めて戻ってくる人間だ。
キチジローの行動はスコセッシの幼い頃に重なる。神学学校に通い、司教を目指していたスコセッシだが、誘惑に負けてその道を断念する。
スコセッシの映画には常に裏切りがある。なぜ、スコセッシは弱い人間を描くのか?

なぜスコセッシは弱い人間を描くのか?

弱い人物を描くことはスコセッシなりの人間の真実を描く誠実な試みだった(これをイエス・キリストに行わせたのが『最後の誘惑』だ。人間として生きることを選んだイエスは丘を下り、誘惑に負けて複数の女性と関係を持つ。この展開がアメリカでは大問題となり、上映禁止運動まで巻き起こることになった)。
『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』のアーネストも同じように弱さを抱えた男であり、叔父のヘイルとはタイプの異なる人間だった(史実のヘイルは若い頃に事業の失敗で破産。そこからのしあがって今の地位を築いた)。
オセージ族の連続殺人事件を裏で操っていたのはヘイルだった。目的は金だ。オセージ族の均等受益権を得るために次々と邪魔になる者たちの殺害を指示していった。その中にはアナの事件の捜査を担当していた私立探偵などの白人も含まれる。
スコセッシはヘイルについて「オセージ族のことは確かに好きだった」と述べている。

連続殺人事件はついに家ごと爆破し、家族や給仕もろとも皆殺しにするという凄惨なものへ発展していく。
アーネストもヘイルの指示で殺人に関与していたが、爆発の惨状を直に目にするとその悲惨さに衝撃を受ける。
今作でもスコセッシの乾いた暴力描写は健在だが、ここでは暴力の本当の姿を映している。それはエンターテインメントでも何でもない、暴力の真実と言えるのではないか。

アーネストはモリーを本当に愛していたのか?

モリーを愛しながら、その姉妹の殺害に荷担して、モリーを裏切り続けるアーネストは、弱い人間だ。
モリーは糖尿病を患っていた。アーネストはヘイルの手引きもあり、インスリンを入手し、毎日アーネスト自身が注射を打っていた。その注射の中には、インスリンだけでなく、ヘイルからもうひとつ別の薬を加えるように指示があった。だが一向にモリーの体調は良くならず、悪化するばかり。

アーネストはその別の薬を自身のウィスキーの中に混ぜて飲む。意識が混沌としていく。それは薬ではなかった。
だが、アーネストは殺人に関わった容疑でその翌朝に逮捕される。収監中に、末娘のリトル・アナが亡くなったことを知り、激しく慟哭する。受益権のためなら自分の子供の殺害すら厭わない人物もいる一方で、アーネストが家族に向ける愛情は本物だった。
リトル・アナもあの薬を服用していたのか?アーネスト一家すら亡き者にしようとししたヘイルの真の姿に気づいたアーネストは、裁判でそれまで拒んでいた証言を行うことを決意する。
「人は忘れるものだ」「悲劇の一つになる」ヘイルはそう言ってアーネストの決意を翻そうとするが、もはやアーネストの心には届かない。裁判の日、そこには今はまでとは打って変わって明るいグレーのスーツのアーネストがいた。アーネストはようやく本当のことを話した。
別室でアーネストはモリーと会う。「私に注射した本当の中身は何?」アーネストは「インスリン」と答える。その言葉にモリーは部屋を出ていく。

アーネストの言葉は嘘ではない。アーネストは本当にモリーに投与していたのはインスリンだと思っていた。それ以外の薬もあったが、それについては「知らなかった」のだ。
だが、あれほど殺人計画に深く関与していたアーネストが知らないはずはない。モリーはそう思った。か細く繋がっていた愛情はここで切れてしまったのだ。

インディアンの命は犬より軽い

エンディングはオセージ族に対する「月花の殺人」がラジオドラマになっている様子が描かれる。ここではエピローグとしてそれぞれの登場人物のその後が語られる。
ヘイルのその後を紹介したのは、なんと監督のマーティン・スコセッシ自身だ。ヘイルは終身刑となったが、模範囚となり出所。出所後もオセージ族へ「真の友人」としたためた手紙を送っている。
映画には出てこないが、スコセッシによると、ヘイルの葬儀には何人かのオセージ族も参列したという。
モリーはアーネストと別れた後、違う男性と結婚。こちらも映画では語られないエピソードだが、リリー・グラッドストーンによるとアーネストが後見人として奪った、資産のをモリーは奪い返したという。

しかし、ヘイルの言葉は正しかった。この「花殺し月の殺人」は長くアメリカでは忘れられた事件だった。「インディアンの命は犬より軽い」劇中で何度もこの言葉が出てくるが、それは1920年代当時だけのことではない。忘れ去られるか、ラジオドラマのようにエンターテインメントの一つとして消費されるだけになるのか。
スコセッシはオセージ族の連続殺人事件について「誰もかれもが関わったことだ」という。
「皆が関わったことなら、我々もその一員だと私は言った。つまり、アメリカ人として、私たちすべてが共犯なのだ」

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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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