映画における暴力は時に現実社会に影響を与え、現実社会の暴力も映画に影響を与えてきた。
その事実自体も非常に興味深いが、映画の中の暴力が現実社会にそのまま暴力として転写されるのは正しい受容のされ方と言えるのだろうか?
『タクシードライバー』とレーガン大統領狙撃事件
まずは映画の暴力と現実の暴力が互いに関連した例として『タクシードライバー』とレーガン大統領狙撃事件から見ていこう。『タクシードライバー』は1976年に公開された。
同作に出演したジョディ・フォスターに夢中になった当時25歳のジョン・ヒンクリーは彼女の気を引くために当時のアメリカ合衆国大統領であるロナルド・レーガンの暗殺を企てる。ヒンクリーはこの映画を15回以上も観ており、当時12歳のジョディ・フォスターへの恋慕を深めていった。
当初はストーカー紛いの手紙や電話でのアプローチだったものの、ヒンクリーの行動はエスカレートしていき、遂にはジョディ・フォスターの前で自殺しようと考える。だが、それも叶わないと知ったヒンクリーは当時の大統領、ロナルド・レーガンの殺害を試みる。
『タクシードライバー』の劇中でロバート・デ・ニーロ演じるトラヴィスもまた大統領暗殺を実行しようとしていた。だが、実行できなかったトラヴィスは代わりにジョディ・フォスター演じるアイリスの所属している売春組織の人間たちを殺す。
トラヴィスはメディアによって少女を救ったヒーローに祭り上げられる。
ヒンクリーもトラヴィスに自らを重ね合わせたのだろうか。
ヒンクリーが放った銃弾はレーガンの右胸の肺の奥に達した。当初は骨折程度かと思われていたが、車中でレーガンの胸から血泡が溢れ出していった。急遽ホワイトハウス行きを取り止め、レーガンをのせた大統領専用車は病院へ向かった。レーガンは病院へ着くなり崩れ落ちたという。そのまま手術が必要なほどの危険な状態だった。
手術が始まる際にレーガンが執刀医に「君たちが皆共和党員だといいんだがね」と言ったエピソードは有名だ。
レーガンは一命をとりとめ、その年齢に似合わない強靭な回復力で公務に復帰した。
『タクシードライバー』自体も現実の事件を下敷きにした作品だった。
『時計じかけのオレンジ』とジョージ・ウォレス暗殺未遂事件
その事件とは1972年に起きたジョージ・ウォレス暗殺未遂事件である。当時アラバマ州知事だったジョージ・ウォレスは大統領候補として立候補していたが、この時負った怪我によって生涯車椅子生活を余儀なくされた(1994年に公開された『フォレスト・ガンプ/一期一会』にもそのシーンが一瞬映されている)。
このジョージ・ウォレス暗殺未遂事件もまた映画に影響を受けたものだった。それは1972年に公開されたスタンリー・キューブリック監督の『時計じかけのオレンジ』だ。
同作は近未来の全体主義国家となったイギリスを舞台に若者達の無軌道な暴力を描いた作品で暴力に対する強烈な風刺(サタイア)でもある。
本来虚構である映画が現実社会に影響を与え、それがさらに虚構として再構築される循環は興味深いが、ここで一つの疑問が浮かぶ。
映画という虚構が描く暴力は現実社会にどう受容されるべきか、という問いだ。
先に挙げた『時計じかけのオレンジ』と『タクシードライバー』は映画と暴力においての極端な例だが、他にも映画が現実社会で暴力を誘発した例は枚挙に暇がない。
例えばデヴィッド・フィンチャー監督の『ファイト・クラブ』だ。
現実社会で暴力を誘発した『ファイト・クラブ』
裕福な暮らしをしながらも日々の生活に空虚さを感じていた主人公はたまたま同じ飛行機に乗り合わせたタイラー・ダーデンという男と知り合う。主人公はタイラーの生き方に刺激を受け、徐々に感化されていく。そして主人公とタイラーはお互いを殴り合う「ファイト・クラブ」を設立。噂を聞き付け、クラブのメンバーは増えていくが、いつしかタイラーとメンバー達の目的は大規模破壊のテロ活動へと変容していく。
1999年に公開された同作は「90年代の『時計じかけのオレンジ』」と呼ばれた。
映画評論家のロジャー・エバートは『ファイト・クラブ』を「性欲の代わりに暴力を刺激するポルノだ」と評した。
『ファイト・クラブ』は次第にカルト的な人気を集め、世界各地で実際にファイト・クラブが設立されたという。
生きづらさと言う言葉が叫ばれて久しいが、『ファイト・クラブ』はその生きづらさを正当化するための「豊かさ」や「富」を虚構として否定する。そこで社会的なヒエラルキーや格差は(クラブ内においては)消失する。これは現在社会に対する強烈なアンチテーゼでもある。ではクラブ内の人物を計る物差しは何か?それこそが暴力だ。『ファイト・クラブ』はマッチョイズムを肯定的に描いていると呼べなくもないが、それよりもより原始的な男らしさである暴力を描いていると言うべきだろう。生物の歴史のなかで私たちヒトが生まれるはるか以前から生き物は暴力で相手を殺し、生き延びてきたのだ。いわば、『ファイト・クラブ』は生物の本能的な部分を否応なしに刺激する映画なのだ。
『ジョーカー』弱き者にとっての禁断の誘惑
近年における映画と暴力の関係を語るときに外せないのは2018年に公開されたトッド・フィリップス監督の『ジョーカー』だ。
『ファイト・クラブ』同様に社会的なヒエラルキーを否定し、絶望的な状況から一気に時代のカリスマに祭り上げられる姿は「持たざる者」の逆転劇であり、歪んだ理想の姿でもあっただろう。
また、日本でも『ジョーカー』に影響を受けて犯行に及んだ事件があった。
だが、『ジョーカー』で描かれた持たざる主人公への熱狂と反比例して、現実社会的の醒めた反応はあくまで映画は映画とも言うことができたのではないだろうか。
映画の中の暴力はあくまでもエンターテインメントの一つだと思う。 例えばアクション映画はその典型だろう。そこでは暴力は爽快感を伴う楽しみとして提供される。またアクション映画でなくとも、『ジョーカー』における暴力は抑圧されたものの復讐の爆発というカタルシスを観るものに感じさせる。
暴力の魅力と真実
暴力は甘美な誘惑だ。社会的身分、学力、地位、そんなものを飛び越えて他人を支配できる可能性を得る手段だ。
銃や武器を含めると本当に何の努力もなく「力」を手に入れることができる。テロはその典型といえるだろう。
だからこそ、暴力の行使は法によって厳しく規制されている。
このように暴力がある種の魅力を持っていることは認めるが、ここで忘れてはならない2つの事がある。
ひとつは作品のメッセージをきちんと理解できているか、そしてもうひとつは現実の暴力は必ずしもエンターテインメントではないということだ。
『ジョーカー』の監督であるトッド・フィリップスはこう言っている。
「映画の始まる時点ではアーサーは有名な犯罪者ではなく、アスファルトに咲いた小さな花。その花にあなたは水をあげるのか、光を当ててあげるのか、それとも無視するのか。どれくらいの間、その花を好きでいられるのか。」
それは暴力の肯定ではない。暴力の肯定のみを『ジョーカー』から感じるのであれば、それは映画の鑑賞としては浅薄だろう。
また、本当の暴力は多くの痛みや残酷さも伴う。肉体的にだけでなく、精神的にもだ。
そのことを残酷なまでに知らしめたのが映画監督のミヒャエル・ハネケだ。
ハネケは1997年に『ファニーゲーム』という映画を発表した。
家族のもとに見知らぬ二人組が訪れる。彼らは「明日の朝まで君たちが生き残れるか、ゲームをしないか?」と言い、理由もなく家族を一人ずつ殺していく。その圧倒的な理不尽さ、絶望はエンターテインメントとは対極だと言える。
また日本の映画監督では北野武監督が同様にエンターテインメントではない暴力を描いている。
戦後間もない東京の下町で育った北野武にとって暴力は日常だった。
「俺の実家のあったあたりはガラがとんでもなく悪くて、ヤクザの喧嘩は日常茶飯事だった」
だから映画などの暴力表現が嘘臭くて仕方ないと北野武は言う。
北野映画の暴力は突然に始まり、あっけなく終わる。見栄を切ったりしない。それはリアルな暴力ではないからだ。だからこそ北野映画には独特の緊張感がある。それは恐さと言っていいかもしれない。いつ暴力が始まるかわからない恐怖だ。その感覚は前述の暴力の全能感やカタルシスとは真逆のもの。ここまで描いてこそ、暴力のなんたるかを知ることができると思う。
だが、映画における暴力の受容を謝り、現実社会でそれを模倣してしまうと、映画が責任をとらねばならなくなるケースが多い。『ジョーカー』は前述の事件の影響で地上波での放送は絶望的だという。
映画監督の押井守は著書『ビジネスで大切なことは全て映画で学べる』の中で映画を観る意味として、経験を得るためと述べている。
人間に関する教養を得るには経験が必要であるが、人が生涯を通して得られる経験などたかが知れている。より多くの経験を得るには、映画と言う虚構を通して、他者の人生を生きる経験が不可欠だという。だとすれば、映画の表現の幅が狭くなることは、私たちが経験できる他者の幅が狭くなるということだ。 プロパガンダ映画は別として、積極的に暴力の行使を勧めている映画はほぼ無いだろう。
映画のメッセージは別のところにある。暴力は結果でしかない。そこに至る過程で自分なら何を考え、何を選択していくかだ。