ゴジラという戦争『ゴジラ-1.0』敷島が下した判断の理由

※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています


ゴジラ-1.0』がつい11月3日に公開となった。
ずいぶん長い間待っていたような気もするが、実際には情報解禁から半年足らずでゴジラが再びスクリーンに姿を現している。
当初、監督を『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』の山崎貴が務めると発表された時はその出来栄えを不安視する声もあったが、SNSを見ていると概ね好意的なコメントが溢れている。

ゴジ泣き

さて、今回の『ゴジラ-1.0』だが、泣けるゴジラ映画という評価もあるようだ。私も初日に観に行ったが、横の席の若い女性客はエンディングで泣き声を漏らしていた。まさか若い女性がゴジラ映画で泣く日がくるなんて!それが私の率直な感想だが、確かにクライマックスの奇跡続きの演出には涙腺も思わず緩んでしまうのかもしれない。

今回の『ゴジラ-1.0』に関しては「『ゴジラ-1.0』戦後の日本が立ち向かったゴジラという戦争」という解説を書いているが、もう少し考察してみたい部分がある。
それは登場人物の生と死についてだ。

今作は1954年に公開された第一作目の『ゴジラ』以来約70年ぶりに戦後の時代を舞台に描かれるゴジラ映画となる。1954年のゴジラが戦争と核兵器のメタファーであることは今更説明する必要もないだろう。
同じく『ゴジラ-1.0』のゴジラも戦争の象徴である(実際には『ゴジラ』の舞台は1953年、『ゴジラ-1.0』の舞台は1947年と6年間の違いはある)。

同じ時代のゴジラ映画

ここからは作品の結末にも関わる部分なので、まだ『ゴジラ-1.0』を未鑑賞の方はここで引き返していただきたい。
映画を観ていて気になったのだが『ゴジラ』、『ゴジラ-1.0』は同じ時代であるにも関わらず登場人物のとるアプローチは全く逆だ。

『ゴジラ』の芹沢大助

『ゴジラ』における最も重要なキーパーソンが芹沢大助だ。
芹沢は天才的な科学者はあるが、戦争で顔半分に傷を負い、右目も失明している。生きて帰ってきたものの、それが原因で山根恵美子との婚約も破棄している。
芹沢は、酸素を研究する過程で偶然にも酸素を破壊する技術を生み出してしまう。「オキシジェン・デストロイヤー」と呼ばれたそれは原水爆をも上回る威力を持つ兵器としての仕様も懸念されたために、芹沢は恵美子以外誰にもオキシジェン・デストロイヤーの存在を伝えなかった。
だが、ゴジラの圧倒的な力を前に恵美子はオキシジェン・デストロイヤーを恋人の尾形に伝えてしまう。尾形と恵美子は芹沢にオキシジェン・デストロイヤーの使用を直訴するが、芹沢は兵器としての転用を危惧し、その申し出を断る。
しかし、もはやゴジラに対して残された手はなかった。ラジオから聞こえる少女たちの祈りの唄に芹沢はついにオキシジェン・デストロイヤーの一度限りの使用を認める。
芹沢は尾形の反対を振り切り、自らゴジラの眠る海中へ向かう。そして、命綱のロープを切り、オキシジェン・デストロイヤーを作動させ、ゴジラもろとも死を選ぶのだった。

『ゴジラ-1.0』の敷島

一方の敷島も戦争に参加したという点では芹沢と同じだが、こちらは死ぬのが怖くて逃げてきたという設定がされている。
敷島は特攻隊として出撃したが、機体の故障と偽って大戸島の特攻隊機の整備場へ引き帰してきた。

その大戸島に島の伝説の怪物、呉爾羅が襲いかかるが、またもや敷島は恐れて呉爾羅を攻撃することが出来ない。

そして呉爾羅は整備兵の殆どを殺す。
特攻と呉爾羅、この二つが戦後になっても敷島のトラウマとして人生に大きな影を落としている。

興味深いのは、あれほど生にしがみついた敷島が、復員してからは人生に消極的になっていることだ。
そこには自分だけが生き延びてしまった罪悪感がある。
これはいわゆるサバイバーズ・ギルトにもあるだろうが、それ以上に敷島は直接的に自分以外の人が殺される状況を作り出しており、その罪の意識はどこまでも深い。
だが、典子という女性に出会い、生きる希望を持ち始めた矢先に、追い打ちをかけるようにゴジラの来襲によって典子は奪われてしまう。
ゴジラと自分の過去に決着をつけるように敷島はゴジラへの特攻を行う。

ここまではいいのだが、敷島は特攻の際に操縦席の脱出装置を起動させ、生還するのだ。
実は映画のラストで典子は生きていたことが明らかになるのだが、生還した時点で敷島はそれを知らない。
『ゴジラ-1.0』のキャッチコピーは「生きて、抗え」だが、そのとおり主要キャラクターの誰も死なない作品なのだ。

もちろん死ぬことが正しいとは思わない。だが、ゴジラの圧倒的な強さと、それを乗り越えるために命を投げ出す人々の姿もまたあっていい。

ゴジラという戦争

そういう意味では敷島こそ、再び訪れたゴジラという戦争で、この国を、そして幼い子供の未来のために命を捨ててもゴジラを倒すという物語にはふさわしい人物のはずだ。

ゴジラ』の芹沢大助ももしかしたらサバイバーズ・ギルトを抱えた一人かもしれない。
芹沢は戦争中はドイツとともに兵器の開発に携わっていたのではないかという説がある。となると前線で戦うような仕事ではないが、それでもあの傷を見ると、芹沢の研究施設ごと爆破されたのだろうと想像できる。だとすると共に働いた研究員も大勢犠牲になったはずだ。また、芹沢の家族や友人も少なからず戦争の犠牲になっただろう。

戦後、芹沢が隠遁生活で研究のみを行っていたのも、恵美子との婚約を破棄したのも実は芹沢の生き延びてしまった罪悪感から来るものではなかっただろうか。
芹沢にとって戦争はまだ続いていた。その終わりはゴジラによってのみ与えられたのだろう。
海底まで降りて、ゴジラを間近にした芹沢の感情は東京を破壊した怪物への怒りだっただろうか?
違う。それはゴジラへの畏怖であり、共感でもあっただろう。戦争が、核兵器が運命を全く変えてしまった。それが芹沢とゴジラの共通点だ。

お互いの戦争を終わらせるために、芹沢はオキシジェン・デストロイヤーを作動させる。

なぜ敷島は生き延びたのか

そう思うと改めて敷島が生き延びた理由を考えずにはいられない。

『ゴジラ-1.0』の舞台は戦後間もない日本だが、この状況は今の日本にも通じると考えている。
もちろん街は発展し、スマホが普及し、ネットは発達した。だが、果たしてそれで、豊かになったのか?と思えばそれは微妙だ。経済は回復せず、物価高と税金に悩まされ、将来不安も大きい。目に映るものこそ素晴らしいが、目に見えない不安はより増大しているのが今の日本ではないか。
逆に言うと、今の日本の目に見えない不安を可視化したのが『ゴジラ−1.0』で描かれる、戦後の荒廃した日本の街の風景だ。

今の時代を乗り越えるための条件はまずしぶとく生きていくことだ。今は特攻隊のように死ぬことで未来を変えられる時代ではない。とっくに自殺者が三万人を超える今の日本だからこそ、「生きて、抗え」というキャッチコピーは意味を持つ。

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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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