『ブレット・トレイン』から考える「ホワイトウォッシング」批判は妥当なのか?

2022年に公開された映画の中で『ブレット・トレイン』は抜群に面白かった。

『ブレット・トレイン』はデヴィッド・リーン監督、ブラッド・ピット主演のアクション映画だ。
不運な殺し屋のレディバグに与えられた任務は東京発京都行きの新幹線であるブリーフケースを盗むこと。問題なく任務完了するかと思ったが、その列車にはレディバグと過去に因縁のあった殺し屋たちが乗り合わせていた。
原作は伊坂幸太郎が2010年に出版した小説『マリアビートル』。小説の中では木村が主人公だが、映画では原作の七尾にあたる人物(映画版ではレディバグ)が主人公となっている。

感動するタイプの作品ではないが、ハチャメチャな日本描写も含めて、エンターテインメントに振り切っている潔さが心地いい。
製作当時はコロナ渦ということもあり、日本を舞台にした作品でありながらも撮影はすべてアメリカで行われた。日本人キャストとしては真田広之、福原かれん、マシ・オカなどが参加している。だが、原作で日本人だった登場人物のほとんどはアメリカ人という設定になっている(ホワイト・デスはロシア人の設定になっているが、こちらも原作では日本人のキャラクターだ)。

ホワイトウォッシングとは

このようなキャスティングについてはホワイトウォッシングではないかという批判の声も上がっている。
だからだろうか、Metacriticでの評価も100点満点中、半分を割る49点となっている。
ホワイトウォッシングとは、白人以外の役柄に白人が起用されることを指す。
例を挙げれば1961年に公開された『ティファニーで朝食を』でユニオシという日系アメリカ人が登場するが、演じたのは白人俳優のミッキー・ルーニーだった。ユニオシが当時のアメリカ社会における悪い意味での日本人のステレオタイプを体現したキャラクターでもあったことで、ユニオシ役を演じたことは後にルーニーのキャリアに影を落とすことになった。
また2008年に公開された『DRAGON BALL EVOLUTION』ではジャスティン・チャットウィンが孫悟空を演じたことはホワイトウォッシングではないかと批判があった。
こうした例であれば、ホワイトウォッシングという批判についてはそうだろうと思う。どう見ても孫悟空という名前はアジア圏、さらに言えば漢字を使う国以外の俳優では不自然だからだ。また『ティファニーで朝食を』のように役柄が日系アメリカ人という設定であればアジア系の俳優を起用した方がいいだろう。

作品の狙う市場はどこか

一方で2017年に公開された『ゴースト・イン・ザ・シェル』や2014年に公開された『オール・ユー・ニード・イズ・キル』は、日本の漫画や小説が原作でありながらも登場人物の名前はそれぞれアメリカ人でもおかしくないものに変更されていた。今回の『ブレット・トレイン』もそうだ。
だが、個人的にはこうした作品に対してもホワイトウォッシングだと非難の声を上げるつもりはない。むしろハリウッドで世界を照準に映画を製作するならむしろ当然だとも思う。市場をどこに見据えるかで最適解は異なるのは当然だ。逆のパターンとして、日本でリメイクされた場合を見てみよう。
例えば1997年に公開されたドイツ映画の『ノッキン・オン・ヘヴンズ・ドア』は2009年に『ヘヴンズ・ドア』として日本でリメイクされたが、 こちらは長瀬智也と福田麻由子主演で舞台もキャストも日本に変更されている。
また、1990年のアメリカ映画『ゴースト/ニューヨークの幻』も2010年に日本で『ゴースト もういちど抱きしめたい』としてリメイクされている。この時は恐らくアジア市場を意識したのだろう。登場人物はほとんど日本人であったものの、主人公は韓国人の男性という設定である(韓国人俳優のソン・スンホンが演じている)。
このように市場を考え、アメリカであればアメリカ人に見合った設定にすればホワイトウォッシングは必ずしも批判されるものではない。

『ブレット・トレイン』も演じる俳優に合わせたキャラクターの変更はもちろんだが、京都駅やヤクザなどの日本の描写にもいかにも欧米人の思うステレオタイプな日本描写が取り入れられていて興味深い。真田広之はインタビューの中で日本描写について意見を求められることもあると言うが、今作に関してはむしろこの「ヘンな日本」が魅力にすら感じる。個人的には『ブレット・トレイン』の中では刀を鞘に納める真田広之のアクションは日本らしさが滲み出ていて素晴らしいと感じた。

『ブレット・トレイン』はホワイトウォッシュなのか?

さて、ホワイトウォッシングに話を戻そう。『ブレット・トレイン』がホワイトウォッシングだという批判は、これまでに見てきた理由によって当てはまらないと私は考えている。
『ブレット・トレイン』におけるホワイトウォッシング批判について、プリンス役を演じたジョーイ・キングは白人女性が有色人種のキャラクターを演じるべきではないと述べている。その一方で、原作者の伊坂幸太郎は原作の登場人物は日本人かどうかもわからないと答えている。
個人的には多少の誇張はあるにせよ、日本の文化が魅力的に世界に伝えられるのは好ましいとも思う。また『ブレット・トレイン』の実写化にしても製作者やキャストがこの物語に魅力を感じたからでもあるだろう。登場人物の紹介に使われる日本語やエンドロールに使われる漢字やカタカナ表記も日本文化にスタッフが敬意を表していることの証明ではないか。

一方で映画によっては原作でアフリカ系アメリカ人のキャラクターが白人になっていることもある。これはホワイトウォッシングだと言えるだろう。黒人系アメリカ人の中にも世界に通じる俳優は多くいるはずだ。

ミンストレルショーという差別の歴史

かつてアメリカにはミンストレルショーという見世物があった。ミンストレルショーは1830年代に始まったショーで登場人物のほとんどは黒人だった。そこには当時の白人たちが黒人の音楽を求めていたという背景がある。R&B、ロックンロール、ブルース、ヒップホップ、こうした音楽の下地には黒人の音楽がある。
だが、ミンストレルショーにおいて音楽以外では黒人は差別的に描かれた。そもそも、ミンストレルショーにおける黒人自体、白人が顔を黒く塗って黒人を演じていたのだ。ミンストレルショーは公民権の成立と共に絶滅したが、黒人差別が未だに存在していることは誰にも明らかだ。

また日本人としての目線でこうした問題を見ていくと、日本人という設定の役を中国や韓国の俳優が演じるのはやはり違和感がある。
2005年に公開された『SAYURI』は日本の芸者を描いた作品であるが、主演は中国人女優のチャン・ツィイーであった(このキャスティングにはハリウッドの組合協定上ある程度は仕方のないことだとも言えるが)。 アジア系の役柄はアジア系の俳優にという大雑把なくくりではまだ不自然なのだ(そういった意味では『ブレット・トレイン』でロシア人であるはずのホワイト・デスをアメリカ人俳優のマイケル・シャノンが演じるという意味ではこれも一種のホワイトウォッシングかもしれない)。
もちろん、役者の質もあるだろう。日本では人気でも、世界を基準に見た場合にどうしても演技力が見劣りする場合もあると思う。 国際的に活躍するのであれば英語の発音も必要かもしれない(とは言え、2016年に公開された『沈黙-サイレンス-』では日本人俳優が日本語のままで素晴らしい演技を見せていたが)。

『ブレット・トレイン』は素晴らしいエンターテインメント映画だと思う。ただ、そこに寄せられたホワイトウォッシングという批判はどうだろうか?
映画を楽しむと同時に、時にはそうした問題に目を向けてみるのも悪くはないだろう。

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映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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