赤狩りとハリウッド

今回はハリウッドと赤狩りについてその始まりと終焉までを見ていきたいと思う。赤狩りとは共産党員、またはそのシンパを追放する動きのことだ。
赤狩りについては『波止場』の解説でも触れてはいるが、今回はそれも含めた複数の映画から改めて赤狩りとは何だったかを辿っていきたい。
主に取り上げるのは『ローマの休日』『波止場』『グッドナイト&グッドラック』『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』の4本だ。最初は少しさかのぼって、戦時中のハリウッドから見ていこう。

赤狩りまでの背景

1929年の世界恐慌以来、ハリウッドには共産主義に共感を覚える人々が少なくなかった。もともとリベラルな風土をもつハリウッドなら不思議ではないだろう。また、当時のアメリカの共産党は第二次世界大戦を反ファシズム戦争と位置付けており、戦争に賛成していたことも大きい。今日では共産党=反戦のイメージがあるが、当時は違っていたのである。
しかし、アメリカ共産党は実質的にはソ連追従であり、1939年にソ連とナチス・ドイツが独ソ不可侵条約を結んだときには反ファシズムをしている。この方針変更によって多くのリベラルが共産党と袂を分かっている。そしてこのソ連追従の姿勢であったことが、後年赤狩りの時代に共産党が敵視される原因にもなるのである。

ハリウッドの赤狩り

第二次世界大戦に勝利したアメリカであったが、皮肉なことに勝利して得たものは何もなく、ただ共産主義との戦いを矢面に立って引き受けなければならなくなった。それは対外的にはソ連との冷戦であり、朝鮮半島を舞台にした朝鮮戦争や、後に起きるベトナムを舞台にしたベトナム戦争は実質的にはアメリカとソ連との代理戦争でもあった。
戦後間もない時期にアメリカはすでに国内にも監視の目を光らせていく。
「敵が海から我が国を侵攻するために兵を送ってきたのではなく、むしろ地球上で最も素晴らしい国の恩恵を受けている者達の裏切り行為による」
赤狩りの中心人物であった共和党右派のジョセフ・マッカーシーは共産主義についてこう述べている。
そんな中で目をつけられたのはハリウッドだった。まだテレビも普及していない時代、国民の娯楽として映画は強い影響力を持っていた。

戦時中の共産主義

大恐慌の時代に『或る夜の出来事』『一日だけの淑女』などのヒット作を送り出した映画監督のフランク・キャプラはアメリカが戦争に突入する直前の1940年には『群衆』を公開している。メディアが人々をいかに容易く扇動していくかを描いた作品だが、キャプラの息子によれば、当時アメリカに迫ってきていたファシズムの波に対抗するためにキャプラは『群衆』を作ったのだという。
戦時中はソ連と協力体制を取っていたために、アメリカで共産党員であることはあまり問題視されなかった。むしろ共産党は戦争に賛成していたために、反戦活動家であるよりも共産党員の方がむしろ好ましくさえあっただろう。

ハリウッドでの赤狩りを推進したのはジョン・ウェインを中心とする「アメリカの理想を守る映画連盟」。ちなみにこの同盟のパンフレットを書いたのは急進的な自由放任資本主義者としても知られる小説家のアイン・ランド。後述するダストン・トランボをはじめとする「ハリウッド・テン」、喜劇王として有名なチャールズ・チャップリンらがハリウッドから追放される。

ハリウッド・テン

ハーバート・ビーバーマン、エドワード・ドミトリク、エイドリアン・スコット、アルバ・ベッシー、レスター・コール、リング・ラードナー・ジュニア、ジョン・ハワード・ロースン、アルバート・マルツ、サミュエル・オルニッツ、ダルトン・トランボの11名が証言台に登るが、プレヒトを除く10名は証言を拒否した。彼らはハリウッド・テンと呼ばれる。その中でも特に有名なのは脚本家のダルトン・トランボだろう。トランボに関しては2015年に公開されたジェイ・ローチ監督の『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』という映画で詳しく描写されている。ジェイ・ローチ自身「ハリウッド・テン」の一人、エドワード・ドミトリクに南カリフォルニア大学で師事している。

『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』赤狩りの犠牲者

トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』は赤狩りによってハリウッドを追われたトランボが名誉回復するまでの物語だ。ダルトン・トランボは1905年にアメリカ合衆国コロラド州モントローズで生まれた。第二次世界大戦中にはすでに成功した脚本家としてハリウッドでその地位を築いていた。当時の代表作に『恋愛手帖』や『東京上空三十秒』などがある。

共産党員であったことを理由に公聴会へ呼ばれたトランボだが、アメリカ合衆国憲法修正一条の議会は言論の自由を制限する法律を作ってはいけないという原則を理由に証言を拒んだ。
議会侮辱罪で逮捕され、収監されたトランボだが、出所した彼にハリウッドは見向きもしなかった。そんな中では実名で仕事を続けることは難しかった。トランボは脚本を早く書くことに長けていたため、多くの偽名を用いて脚本家としてB級映画作品の脚本やリライトなど量をこなし糊口を凌いでいた。1954年にはアメリカに戻り偽名で仕事を続けた。

かの名作、『ローマの休日』もトランボの脚本であるが、発表時には脚本家の名前としてイアン・マクラレン・ハンターの名がクレジットされている。
いわばハンターがトランボに名義を貸したものであり、このような役割は「フロント」と呼ばれる。1976年のウディ・アレンの作品『ザ・フロント』はフロントとして名儀を貸しただけの男が公聴会へ召喚される様子を描いたコメディだ。
ハンターもトランボに共感を示し、名義を貸しただけで、脚本料はそっくりそのままトランボに渡し、一切の中間マージンを取らなかったという。

また余談だが、『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』の脚本を務めたジョン・マクナマラはハンターにニューヨーク大学で師事している。
次はハンターが名義を貸したその『ローマの休日』について詳しく見ていこう。

『ローマの休日』作品に込められた想い

ローマの休日』は単なる恋愛映画ではない。時代的な背景を知れば、恋愛の枠を超えた深い意味を持つ作品だということがわかる。
主演のオードリー・ヘプバーンについては『ローマの休日』の解説を見てもらうとして、ここでは監督のウィリアム・ワイラーに注目したい。

赤狩りに最後まで抵抗した映画監督

ウィリアム・ワイラーは1902年生まれ、フランス(当時はドイツ領)出身のユダヤ人である。20歳のときにアメリカに渡米。ユニーバーサルのニューヨーク・オフィスで働いた後、22歳のときにハリウッドへ渡る。そこでまた、第二次世界大戦中にはイギリス空軍に従軍した経験も持つ。戦争中に実家も訪れたが、家屋はそのままであったものの、家族はナチス・ドイツによって連れ去られていたという。
彼は赤狩りに最後まで抵抗した映画監督としても知られている。

前述のとおり、トランボは合衆国憲法修正第1条で保障されている自由権を盾に証言を拒否したのだが、ワイラーもその憲法を盾に映画人を赤狩りから守ろうとした「アメリカ合衆国憲法修正第1条委員会」を立ち上げた発起人の一人でもある。

ワイラーは前述のような経緯もあり、トランボのような赤狩りの犠牲になった人に対しても非常に好意的であったと言われる。戦後、ワイラーは大手映画会社の力に左右されず監督の立場を強化するためにフランク・キャプラやジョージ・スティーヴンスと共にリバティ・ピクチャーズを創設したというエピソードにもそれは表れているだろう。
『ローマの休日』も企画段階ではフランク・キャプラが監督するという話であった。実際にキャプラはエリザベス・テイラーとケリー・グラント主演で製作するという構想を持っていたが、予算面からこの作品を降りてしまう。
もっとも、戦中にプロパガンダ映画を多く作ったキャプラは戦後はそのまま体制側の人間になっており、トランボとの仕事を嫌がったのではないかという説もある。

トランボの手によって『ローマの休日』の脚本は1940年半ばに書かれていた。何年か脚本は中に浮いた状態だったが、ウィリアム・ワイラーはローマでのロケ撮影を条件に『ローマの休日』の監督を引き受ける。当時のアメリカ国内では赤狩りによって制約が多く、のびのびした撮影ができないこともあったのだろう。(もっとも、ローマはローマでひどい猛暑と野次馬でアメリカとは別の意味で過酷な撮影にはなったのだが)
ちなみにキャプラが1935年に監督した『或る夜の出来事』と『ローマの休日』は非常にプロットが似ており、トランボが脚本執筆の時間を短縮するために『或る夜の出来事』の骨子をそのまま持ってきたのではないかとも言われている。

人間愛への昇華

『ローマの休日』は訪問先のローマで公務に疲れた王女のアンが宿泊先を抜け出し、新聞記者と一日だけ自由な時間を楽しむという物語だ。
新聞記者のジョーは当初スクープ目当てでアンに近づくが、やがて二人の間には恋が芽生えていく。
アンは私的な恋と公務の間で悩むが、自分の使命に目覚め、私的な恋を諦める。
それはいままでいがみ合っていた国同士の架け橋となること。それをファシズムの国だったイタリアのローマで宣言するのが興味深い。『ローマの休日』を悲恋を描いた作品と捉える人もいるだろう。もちろん、そういう見方も間違いではない。だが、トランボは個人的な恋愛を大きな人間愛にまで昇華させるシナリオを書いた。それも間違いではないはずだ。
『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』ではトランボの不屈の人生が描かれているが、そのメッセージは『ローマの休日』にも確かに刻まれている。

だが、赤狩りについて、ある意味ではトランボは脚本家であった分だけラッキーだったと言えるかもしれない。ジェイ・ローチは赤狩りにおける映画監督と脚本家の違いについて以下のように述べている。
「監督は毎日現場に来ねば撮影は進まない、映画監督は偽名でやるわけにはいかず、ただ職を失うだけ」
実際、公聴会で信念を貫き通した映画監督はエイブラハム・ポロンスキー、ハーバート・ビーバーマンのみと言われている。では圧力に屈してしまった映画監督はその後どうなったのか?
『波止場』の解説でも取り上げたが、エリア・カザンについて、ここでも再度見てみることにしよう。

『波止場』赤狩りの協力者エリア・カザンの釈明

エリア・カザンは1909年にトルコのイスタンブールで生まれた。4歳の時にギリシャ人の両親とともにアメリカに渡った。カザンは所属していた劇団の繋がりから1934年に共産党に入党した。しかし、36年には党の劇団に対する方針と反りが合わずに脱党した。
赤狩りの頃には既に共産主義思想には幻滅していたカザンだが、1952年の1月14日に非米活動調査委員会に最初の召喚を受けている。その時にカザンはかつて18ヶ月間共産党員であったことは認めたが、誰が共産主義者であるかの証言はしなかった。
しかし、すぐにカザンは自ら2回目の召喚を希望し、52年4月10日に行われた2回目の聴聞会ではカザンは自発的に共産主義者の友人の名前をあげた。アート・スミス、フォーブ・ブランド、クリフォード・オデッツなどかつての演劇仲間だ。しかし、ここでカザンがあげた8名はいずれも委員会によって把握されていた名前であった。しかもオデッツとは互いに互いの名を証言するということを示し合わせていたようで、オデッツの証言では、オデッツは共産主義者としてカザンの名をあげている。

2回目の召喚を希望した理由としてカザンは「秘密を守ることは共産主義に奉仕することになる」と述べている。しかし、これは自己を取り繕った言葉であり、カザンの本心ではないだろう。
カザンが明かしたリストのなかには故人も含まれており、また前述のようにすでに委員会によって把握されていた名前ばかりであったため、実害は最低限に留まっていると考えられるからだ。

赤狩りの時代において、共産主義者の嫌疑をかけられ、召喚を受けた映画人が取れた動きは国外逃亡するか、国内にとどまって映画界から追放されるか、もしくは映画業界での仕事を続けるため、共産主義と関わりのないことを誓約し、共産主義傾向のある者やあった者の名前を挙げるかのいずれかだった。
チャップリンはアメリカを捨て、スイスで映画製作をつづけた。トランボは逮捕され、偽名で映画人として活動した。だが、移民としてアメリカにやって来たカザンには仲間を売るしか生き残る道はなかった。
もちろんそんなカザンの行為を「金のために仲間を売った裏切り者だ」とする意見もある。
カザンは自らの行為を正当化し、一度も謝罪の言葉はなかった。

密告の正当化

1954年に監督した『波止場』にはそんなカザンの意志が感じ取れる。
『波止場』はマーロン・ブランド演じる元ボクサーで港湾労働者のテリーが、自らが働く波止場を取り仕切るマフィアを告発する物語だ。
いわば、会社の不正を内部告発する従業員のようなものだが、そこはマフィアなので要注意人物は片っ端から殺していく。
『波止場』のテリーにはカザン自身が投影されていると言われる。カザンはそのことを否定したが、マーロン・ブランドの自伝によるとカザンとリハーサル前に二人で話し合ったときに、カザンは非米活動調査委員会で自身が行ったことと、『波止場』の内容には重なる部分があると認めたそうだ。
確かにテリーが圧力に負けずにマフィアを告発する場面は同じく非米活動委員会で共産主義者の名前を証言したカザンの姿を重ねることができるだろう。テリーはその後、報復として飼っていた鳩を殺され、自身もマフィアからのリンチで半殺しの目に遭う。鳩は内通者の隠語でもある。テリーの裏切りに対して制裁を加えようとしたマフィア達には共産主義者達の姿が重ねられてはいないだろうか。

実際に非米活動委員会でのカザンの証言には当時から賛否両論があった。
友人らを売った「裏切り」には当時から批判の声も大きかった。
「私も当時は非難の的だった」
カザンは『波止場』の撮影を振り返ってそう言う。『波止場』の撮影中でも共産主義者に襲われたことがある。この事もありカザンはボディーガードを雇って撮影を行っていたという。
ちなみに『波止場』の脚本を務めたバッド・シュールバーグも赤狩りの圧力に負けて仲間を売った一人だった。

ブランドはカザンが『波止場』で裏切り行為を正当化していると後に知り、カザンに深く失望している。ブランドとカザンは『欲望という名の電車』『革命児サパタ』『波止場』でコンビを組んでいるが、『波止場』を最後に二人がコンビを組むことはなかった。

カザンは自らの行為について70年代にも「共産主義者と呼ばれるくらいなら裏切り者と呼ばれる方がまし」
「同じ事態が起きれば何度でも同じことをする」と述べている。

体制側への歩み寄り

また『波止場』にはキリスト教の要素が色濃く反映されている。カザン自身はキリスト教を嫌っていたにも関わらずだ。
公聴会で共産党シンパの名前を告白したとはいえ、そもそもが移民であるカザンに元のような活躍が取り戻せる保証もない。
そこでカザンは映画で体制側に強くすり寄っていった。
『波止場』ではマフィアを告発したテリーは返り討ちで半殺しの目に遭うが、その様はキリストの受難を思わせる。
『波止場』はアカデミー賞で作品賞、監督賞、脚本賞、主演男優賞、助演女優賞など8部門を受賞した。

『グッドナイト&グッドラック』赤狩りの終焉

1950年代になると赤狩りは一般市民からの支持を失いかけていたが、自分自身が標的にされることを恐れて誰も表立って赤狩りを推し進めていくマッカーシーを批判できない状態にあった。そんな中で最初に表立ってマッカーシーを批判したのがCBSの人気キャスターであったエドワード・R・マローだ。

マローと赤狩りの中心人物であるマッカーシーの直接対決を描いたのが『グッドナイト&グッドラック』だ。監督・脚本・出演をジョージ・クルーニーが務めている。
このタイトルの『グッドナイト&グッドラック』はマローがキャスターを勤めていた番組『シー・イット・ナウ』でマーロウが毎回最後に視聴者に向けて発していた締めの言葉である。

マローがマッカーシーを批判したきっかけは空軍でマイロ・ラドゥロヴィッチ中尉が「父親と姉が共産主義者だという内部告発があった」というだけの理由で空軍から理不尽な除隊勧告を受けたことだった。 赤狩りの時代、少しでも共産主義と関わった者は職を追放される。劇中にはこのようなセリフもある。
「すでに離婚しているが、私の前妻の母親が昔共和党が主催した集会に出席したことがあるから私はブラックリストに載せられるかもしれない。」
まるで奴隷制の時代に「1%でも黒人の血が入っていれば黒人と見なす」とされたワンドロップルールを彷彿とさせる。当時の赤狩りが如何にヒステリックで極端なものであったかがわかるだろう。

過ちは星のせいじゃない

共産主義との戦いを盾にして正当な根拠なく人々を追い詰めていくマッカーシーの横暴さに対してマローはこう言う。
「これはマッカーシー議員一人の責任でしょうか?彼は恐怖を生んだのではなく利用しているに過ぎない。カシアスの言う通り、悪いのは運命の星ではなく我々自身なのです。
グッドナイトそしてグッドラック。」
これはシェイクスピアの戯曲『ジュリアス・シーザー』の中に「過ちは星のせいじゃない、我々の責任だ」というセリフからの引用だ。シーザーの独裁的政治を止めるには彼を暗殺せねば。そう考えたカシアスは「過ちは星のせいじゃない、我々の責任だ」と言ってブルータスにシーザーの暗殺を持ち掛ける。ここでいう星とは運命のことだ。シーザーの独裁を招いたのは運命ではない。他ならぬ自分達の行動が生んだ責任なのだ。

エドワード・R・マローの批判をきっかけに多くのメディアもマッカーシー批判を繰り広げることになる。
対するマッカーシーも赤狩りの動きを空軍のみならず、陸軍に対しても見せるようになった。 次第にマッカーシーの主張は攻撃的かつ侮辱的なものになり、また告発内容の信憑性にも疑いを持たざるを得ないものになっていく。
「君、ちょっと話を止めて良いかね?……もう沢山だ。君には品位というものが無いのかね?」
『グッドナイト&グッドラック』では陸軍の弁護士であったジョセフ・ウェルチにこう叱責されている。
そのようなマッカーシーの言動は上院の中にも反感を広げ、その結果、上院はマッカーシーに対して65対22で「上院に不名誉と不評判をもたらすよう行動した」として事実上の不信任を突きつける。ここにマッカーシーがもたらした赤狩りは終焉を迎えることになる。
個人的にはハリウッドをはじめとする映画人から始まり、テレビが止めを刺したのが興味深い。人々の娯楽の中心も50年代になるとテレビになった。

犠牲者の名誉回復と密告者の十字架

そして60年代にはトランボなどの赤狩りの犠牲者の名誉回復がなされる。
トランボはそれまで偽名で脚本を書いていたが、1960年の映画『スパルタカス』でようやく実名でクレジットされるようになる。
一方で、非米活動委員会に従い、彼らを裏切った者や追い詰めた者は非難を受けることになる。

トランボの名誉回復と時を同じくして、カザンなどの赤狩りの「告発者」はハリウッドでの地位を失うことになった。カザンについた「密告者」「裏切り者」というレッテルは以後40年近くもカザンにのしかかることになる。トランボの名誉回復がなされたのが1970年、全米脚本家組合功労賞の授与式のこと。

その後カザンの名誉回復がなされたのは1999年。弟子であるマーティン・スコセッシの尽力により、アカデミー賞名誉賞がカザンに授与されました。当時、『波止場』でバリー神父を演じたカール・マルデンが、映画芸術科学アカデミーの要職についていたことも追い風になった。
そして1999年の第71回アカデミー賞でデ・ニーロとスコセッシは名誉賞のプレゼンターとしてエリア・カザンを紹介した。名誉賞の授与式では会場全体でスターディング・オベーションで受賞者を舞台に迎えることが慣例となっているのだが、エド・ハリス、イアン・マッケランは腕組みをして座ったまま拍手すら拒んだ。スティーヴン・スピルバーグ、ジム・キャリーらは拍手はしたものの、立ち上がるのは拒否している。これはかなり異常なことだった。
スピーチの最後にカザンは弟子でもあるスコセッシを抱きしめ、「これで静かに立ち去ることができる」と述べた。
トランボに遅れること30年の月日が経っていた。その後の2003年にエリア・カザンは亡くなっている。

『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』のクライマックス、1970年の全米脚本家組合功労賞授与式でのスピーチでトランボは赤狩りを振り返ってこう言う。

「あの暗黒の時代をふりかえる時、英雄や悪者を探しても何の意味もありません。
いないのですから。いたのは被害者だけ。
なぜなら誰もが追い込まれ意に反したことを言わされ、やらされたからです。
ただ傷つけあっただけ、お互い望んでもいないのに。」

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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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