『最後の誘惑』映画史上最大の問題作

※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています


「聖人としてのキリストより人間としてのキリストに興味があった」
マーティン・スコセッシはキリストについてそう語っている。
スコセッシは弱さや迷いを持った人間としてのキリストを『最後の誘惑』という映画で描いた。
『最後の誘惑』は1988年に公開されたマーティン・スコセッシ監督、ウィレム・デフォー主演の宗教映画だ。

映画史上最大の問題作

スコセッシが『最後の誘惑』の映画化に取り組み始めたのは公開の10年以上も前の1972年のこと。
原作はニコス・カザンザキスによる小説『キリスト最後のこころみ』だ。同書はその内容からカトリック教会から禁書となり、カザンザキス自身もギリシャ正教会を破門された。

もちろんその映画化も製作段階からキリスト教団体により度重なる妨害や抗議を受けている。
2011年に米タイム・アウト誌が発表した「映画史上もっとも物議を醸した映画50本」ランキングでは『最後の誘惑』が第一位にランクインしている。
なぜ『最後の誘惑』はこれほど物議を醸したのだろうか。

宗教家マーティン・スコセッシ

「教会で罪は購えない。我々は街や家庭で罪を購う。それ以外はまやかしだ」
1973年に公開されたスコセッシの自伝的映画『ミーン・ストリート』はそんな言葉で幕を明ける。

マーティン・スコセッシの映画には宗教の要素が大きい。
マーティン・スコセッシは1943年にシチリア移民の2世としてニューヨークに生まれる。スコセッシは同市のリトル・イタリーで育ったが、病弱で薬が手放せず、いじめられっ子で暴力に怯えて過ごす日々を送る。幼いスコセッシはカトリックの教会に安らぎを見いだす。いじめられっ子だったスコセッシにとって、安息の場は映画館と教会だった。こうして幼いスコセッシは神の道を志す。
14歳になると聖職者になることを決意し、初級神学校のカテドラルカレッジに入学する。しかし、ラテン語に苦労し、さらには若い女性にも夢中になってしまい、一年で学校をやめてしまう。
そして、もうひとつの救いである映画への道を歩き始める。

人間としてのイエス・キリスト

スコセッシはニューヨーク大学の映画学科に入学し、『ドアをノックするのは誰?』で長編映画監督としてデビューする。
映画監督となっても信仰はスコセッシにとって大きなテーマだった。
「私はカトリックとしては堕落したが、カトリックであることからは逃げられない。」
そうスコセッシは述べる。

聖職者としての道をドロップ・アウトしたスコセッシだったが、そのような弱き者は神に救われないのか?
カトリック教徒は原則として離婚を禁じているが、スコセッシは三回も離婚を繰り返している。信仰について以下のような発言もある。
「真剣に宗教に取り組むことと、無法地帯のような街で生きていくことは全く相容れなかった。」
日々暴力にまみれたリトル・イタリーで生きてきたスコセッシにとって、教会や聖書では現実に起こる罪と罰を購うことはできなかったのだ。

「教会で罪は購えない。我々は街や家庭で罪を購う。それ以外はまやかしだ」
ミーン・ストリートのこの台詞には続きがある。
「司祭は例によって祈りを十回唱えろと言った。十回唱えれば罪が許されるのか?下らない。祈りは言葉に過ぎない。自分の過ちは自分で償いたい。だから僕は自分に刑罰を科す。刑罰とは地獄の苦しみを味わうことだ。」

聖書における神としてのキリストではない、人間としてのキリストを追求すること。それこそがスコセッシにとっての祈りであり、信仰における誠実さでもあった。

ジーザス・ムーブメント

また60年代から70年代は教会が提示するキリスト像ではなく、個人としてのキリストの人気が高まりを見せた時代でもある。
には同じく人間としてのキリストを描いたロックミュージカル『ジーザス・クライスト・スーパースター』が大きな人気を集め、映画化までされたことはその証明にもなるだろう。
彼らと同じ時代に青春を生き、同じようにロックンロールに夢中だったスコセッシがこのムーブメントの外にいたとは考え辛い。

1972年に公開されたスコセッシの映画『明日に処刑を』に出演したバーバラ・ハーシーとデイヴィッド・キャラダインから贈られたのがニコス・カザンザキスの『キリスト最後のこころみ』だ。キリストの人間としての弱さを描いたこの作品にスコセッシは強く惹かれていく。
聖書と現代のギャップを埋め、今の時代の「キリストの物語」を作りたい。その思いはカザンザキスも同じであったろう。『最後の誘惑』はカザンザキスの次の言葉で幕を明ける。

神の使者ユダ

聖書を現代の視点から捉え直した、スコセッシなりの解釈が『最後の誘惑』では重要になる。
その一つがキリストの裏切り者として知られるユダだ。聖書においてユダは銀貨30枚でキリストをローマ兵に売る訳だが、それはあまりに安易すぎるとスコセッシは言う。
「ユダはイエスを裏切りたくなかった。ただ神がイエスを犠牲に導くためにユダを利用した。ユダはその役割を全うしなければならなかった。」
『最後の誘惑』におけるユダは全くこのような人物設定がされている。

ユダはキリストから、キリスト自身をローマ兵に引き渡すように頼みを受ける。キリストの殉死は神が彼に与えた運命だった。ユダはそれを叶える役目を負う。最も深くキリストを愛したために、最も過酷な役割を引き受けることになる。
ユダはキリストを裏切ったのではなく、キリストとともに神に仕えたのだ。

キリスト教には予定説という考え方がある。全てのことは神によってすでに定められているという考え方だ。

神の遣いとしての悪魔

『最後の誘惑』このタイトルは荒野での誘惑に打ち勝ったキリストが磔刑になった時にもう一度訪れた誘惑のことを意味する。
ここは映画の中でも宗教的なメタファーに溢れた部分だ。少し詳しく解説していこう。

荒野では三度にわたって悪魔からの誘惑を受ける。最初は黒の蛇の姿、二度目はライオン(獅子)の姿、三度目は炎としてだ。
聖書における蛇は悪魔の象徴でもある。旧約聖書において、アダムとイブは蛇にそそのかされて禁断の果実を口にするのは有名だ。キリストの前に現れた蛇も女性と肉欲でキリストを堕落させようと誘惑する。

次にキリストの前に現れるのは獅子だ。旧約聖書の『土師記』においては獅子は悪魔の象徴として登場する。だが、カトリックにおいては獅子は力や権力、そして聖人の象徴でもある。ここでは獅子はキリストへこの世の王国を支配する権力を授けるという誘惑を行う。ここでの獅子は権力の象徴として捉えるのが正解だろう。

キリストを誘惑するこの獅子が聖なるものの象徴か、悪魔なのかは一先ず置いておいて、三回目の誘惑を見てみよう。
最後にキリストの前に現れたのは炎だ。
炎はキリスト教において神の臨在を意味する。

つまり、キリストを誘惑したのは悪魔だが、それを行わせたのは神の意思であると言える。
全てのことは神の定めた予定のままに行われるのであれば、悪魔もまた神の支配する一部だと考えることができる。 だがそれでもキリストはすんなり自らの死を受け入れることができたのだろうか?
この疑問を補完するために最後の誘惑が設定された。この部分こそが『最後の誘惑』の最も論議を呼ぶ部分だ。次はこの最後の誘惑とそれに対するキリスト教団体の反応を見ていこう。

キリスト教右派の台頭と反対運動

このように『最後の誘惑』は従来の聖書とは異なる解釈が多く描かれている。冒頭にはわざわざ「この映画は聖書の福音書に基づくものではない」というスコセッシのメッセージも挿入されている。
人間としてのキリストの弱さを描くことはスコセッシにとって重要なことでもあったが、中でも「キリストが悪魔の誘惑に負け、複数の女性と性的関係を持つ」という内容にキリスト教福音派、保守派は猛反発した。

『最後の誘惑』がキリスト教団体から反対を受けたその時代背景についても見ておこう。
『キリスト最後のこころみ』がアメリカで出版されたのは1960年代のことだ。当時はカウンターカルチャーの全盛期であり、先に述べたジーザス・ムーブメントとともに『キリスト最後のこころみ』も性を通した宗教的な啓蒙のひとつの形として受容された。
だが、愛と平和を叫び、既存の価値観を否定したカウンターカルチャーはその勢いを失っていく。彼らが情熱を注いだ反戦運動の対象であるベトナム戦争が終結したこと、1969年に起きたシャロン・テート殺害事件を機にヒッピーが危険な存在だと見なされるようになったこと、またアメリカ建国200年のタイミングで愛国心が盛り上がりを見せていたなどあらゆることがその理由として挙げられるだろう。

1981年に「アメリカを再び偉大に!」のスローガンを掲げたロナルド・レーガンが大統領になったことは、カウンターカルチャーの終焉と保守的なアメリカの台頭を象徴している。
ローガンの当選に大きな役割を果たしたのがキリスト教福音派の牧師として政治的に絶大な影響力を持っていたジェリー・ファルエルだった。ジェリー・ファルエルは1979年にロビー活動団体「モラル・マジョリティ」を設立し、1980年の大統領選挙では保守主義者であるロナルド・レーガンを強力に後押しした。

このような時代にあって『最後の誘惑 』はあまりに危険な映画でもあった。製作当初よりキリスト教福音派からの抗議を受け、撮影の4週間前には当初予定していたパラマウントが映画化の企画をキャンセルした。
スコセッシは『最後の誘惑』の製作中止のあとに2本の映画を撮っている。それが『アフター・アワーズ』と『ハスラー2』だ。『ハスラー2』の成功によって再び『最後の誘惑』実現への扉が開く。
パラマウントから中止を言い渡されていた『最後の誘惑』に対して、次に持ち込んだユニバーサルがゴーサインを出したのだ。もちろんそれですべてが順調に行くわけではない。

キリスト教右派の「米国家族協会」のドナルド・ワイルドモンや、バプテスト・タバナクル教会のR・L・ハイマーズ・ジュニア牧師らがユニバーサルに抗議活動を行ったのに加え、「キャンパス・クルセード・フォー・クライスト(CCC)」のビル・ブライトに至っては破棄することを目的としてこの映画の権利を買い取りたいという申し出を行ったという(ブライトは映画の買い取りに失敗すると、『最後の誘惑』公開後にのメンバー25000人を導入して、映画館の前でボイコット活動を展開した)。
このように映画の公開後もキリスト教保守派、福音派からの抗議は続いていた。キリスト教メディアは映画の内容を酷評し、レンタルビデオ店にも『最後の誘惑』は置かれなかった。その抗議活動の激しさは劇場の爆破予告まで起こったほどだ。

本当に弱き者

スコセッシは『最後の誘惑』についてこう語っている。
「私はこの映画を神への祈り、あるいは礼拝のように作った。私は司祭になりたかった。私の人生はずっと映画と宗教が占めていて、それ以外は何もないんだ。」

だが、スコセッシのこの思いは当のカトリック教会には理解されなかった。
確かに「キリストが悪魔の誘惑に負け、複数の女性と性的関係を持つ」という描写は刺激的でスキャンダラスだ。しかし、スコセッシのメッセージはそこではない。抗い難い性の欲求にも打ち勝ち、磔刑に処されるイエスの姿こそがスコセッシにとっては真の救世主としてのキリストの姿であった。

もちろんすべての人が『最後の誘惑』を批判したわけではない。ニューヨーク聖公会主教ポール・ムーアは「この映画は、キリストは完全に人間であり、かつ完全に神であるという教会の教えの核心を脚色したもだ」とニューヨークタイムズに書簡を寄せた。
「当時は私の信仰心が揺らいでいた」そうスコセッシは述べている。そんな彼にポール・ムーア大司教は一冊の本を手渡す。それが遠藤周作の小説『沈黙』だった。
信仰とは何か、人間のありようとは何か、スコセッシが考えていたことは遠藤周作の『沈黙』のテーマでもあった。

マーティン・スコセッシが問い続けた「信仰」とは何かというテーマ。その追求は『最後の誘惑』から26年の時を経て『沈黙 -サイレンス-』へと繋がっていく。

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