※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています
2019年の全米映画協会で主演男優賞を受賞したのは『ジョーカー』で主人公を演じたホアキン・フェニックスだった。
授賞式のスピーチでホアキン・フェニックスは次のように述べている。
「僕が演技を再開した頃、オーディションではいつも最後には皆さんどういう感じかわかっていると思うけれど、戦う相手がもう二人いたんです。そして僕はいつもその男に負けていました。そう言うことがあまりに多いから、彼の名を口にする俳優はいませんでした。でもキャスティング・ディレクターはみんなレオナルド、レオナルドって囁いてくる。このレオナルドって一体誰なんだ!?
レオナルド、君は25年以上、僕や大勢の人に刺激を与え続けてくれています。
本当に本当に本当にありがとう」
こう言ってホアキン・フェニックスは同賞にノミネートされたレオナルド・ディカプリオに謝意を伝えた。
子役からブレイクまで
レオナルド・ディカプリオもホアキン・フェニックスも共に子役からそのキャリアをスタートさせている。
ディカプリオは1992年の映画『ギルバート・グレイプ』で19歳にしてアカデミー賞助演男優賞にノミネートされる。
1997年の『タイタニック』で端正な顔立ちと悲劇的な運命を辿る主人公ジャック・ドーソンを演じ、アイドル的な人気を得て世界的なブレイクを果たす。
だが、ディカプリオ本人はこのブレイクに違和感を持っていた。
「自分の顔がキーホルダーになっているのを見るのに慣れるなんてできない」
そもそもディカプリオは『タイタニック』のジャック役にあまり乗り気ではなかったという話もある。
実際に『タイタニック』後も本来の自分の足取りを辿るように、超大作よりも比較的小規模の作品に軸足を戻している。1998年に公開された『仮面の男』、2000に公開された『ザ・ビーチ』がそうだろう。
2002年には名匠マーケティン・スコセッシと初のタッグを組み、『ギャング・オブ・ニューヨーク』に主演。しかし、その年のアカデミー賞主演男優賞は同映画で共演したダニエル・デイ・ルイスに奪われることになった。…ん?ディカプリオが主役ではないのか?
当のディカプリオ本人は「ダニエルが受賞して当然」と答えているが、アカデミー賞受賞への想いは人一倍強かったに違いない。
オスカーへの道のり
ディカプリオはアカデミー賞ノミネートまでは行くが、受賞までのあと一歩を逃してしまうことが多かった。
『タイタニック』はアカデミー史上最多の11部門受賞という快挙を成し遂げたが、ディカプリオだけが主演男優賞を獲得できなかった。
だからだろうか、ディカプリオが以降の出演作品で演じる役柄はクセの強い役が多く、遮二無二オスカーを狙っているようにも見えてくるのだ。
2004年の『アビエイター』ではハワード・ヒューズを、2006年の『ブラッド・ダイヤモンド』ではそれまで演じたことのない悪役にも挑戦している。また、クリント・イーストウッドと組んだ2011年の『J・エドガー』ではFBIの初代長官ジョン・エドガー・フーヴァーを演じた。フーヴァーは大統領をも怯えさせるほどの圧倒的な権力を持ちながら、一方では同性愛や服装倒錯者であるという噂も絶えなかった。ディカプリオは映画の中で男性とのキスシーンや女装姿も披露している。 『ウルフ・オブ・ウォールストリート』ではドラッグ中毒の株式ブローカーであるジョーダン・ベルフォートを演じた。
特に『アビエイター』『ブラッド・ダイヤモンド』『ウルフ・オブ・ウォールストリート』ではアカデミー主演男優賞にノミネートはされたものの、いずれも受賞にはならず。
だが、ディカプリオは2015年にようやく主演男優賞のオスカーを手にすることができた。まさに悲願だったろう。その作品が今回紹介したい『レヴェナント: 蘇えりし者』だ。
『レヴェナント: 蘇えりし者』
『レヴェナント: 蘇えりし者』は2015年に公開された伝記映画。監督はアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ、主演はもちろんレオナルド・ディカプリオ。
原作はマイケル・パンクが2002年に著した『レヴェナント』。
パンクはマサチューセッツ大学やジョージ・ワシントン大学で貿易法を専攻、卒業後はマックス・ボーカス上院議員のスタッフとなり、国際貿易の法律顧問を務め、クリントン政権ではホワイトハウスで官僚として通称代表部の政策アドバイザーとして働いた、貿易の専門家だった。
一方でパンクはヒュー・グラスの人生に興味を持ち、彼をテーマにした小説を書き始める。それが『レヴェナント』だ。
ヒュー・グラスは実在の人物であり、熊に襲われながらも復讐のためにを移動したのは事実だが、謎も多い。半ば伝説化しているとも言っていいだろう。史実では報復を断念したという話もある。グラスはその後開拓地を離れて毛皮の取引を行うようになるが、1833年、イエローストーン川の近くでネイティブ・アメリカンのアリカラ族に襲われ、処刑されて命を落としている。
レヴェナントとは「死から蘇った人」という意味を持つ。
そこに描かれている内容はパンクの創作も多分にあるが、基本は事実を基にしたものだ。
19世紀初頭 西武開拓時代
『レヴェナント: 蘇えりし者』の舞台は1823年のアメリカ。当時のヨーロッパではビーバーの毛皮を加工したフェルト帽子の需要が高く、多くの毛皮業者がビーバーを目当てに北アメリカへ押し寄せてきたという。
大西洋岸からミシシッピ川に至るまでのビーバーを獲り尽くしてしまった彼らは、やがてミズーリ川流域、さらにその奥地へと向かうことになる。彼ら遠征隊を待ち受けていたのはネイティブ・アメリカンだ。毛皮はネイティブ・アメリカンにとっても重要な交易品でもあった。
ネイティブ・アメリカンの描かれ方
まず冒頭の毛皮をめぐる遠征隊とのネイティブ・アメリカンとの戦いが凄まじい。遠征隊側には銃があるが、四方八方から弓矢で狙われ続ける恐怖と臨場感はこの上ない。この場面はカメラワークも秀逸だ。下から上を見上げるアングルの多用で、背の高い木々がフレームの中に入り、まるで木々に囲まれているようだ。それは自然と共にに生きてきたネイティブ・アメリカンの象徴のようにも見える
私は『レヴェナント: 蘇えりし者』に関しては公開時に映画館でリアルタイムで観たのだが、このネイティブ・アメリカンたちの描き方は新鮮だった。
『駅馬車』や『北西騎馬警官隊』のようにネイティブ・アメリカンを悪として描いた映画は既に絶滅状態だ(1960年代の時点でそのような映画はほぼ減少していたという)。
代わりにネイティブ・アメリカンのイメージとして主だったのは白人に迫害され、細々と伝統を受け継ぐ「弱々しい善人」とでも呼べるものだ。
歴史の本ではネイティブ・アメリカンたちは白人に虐殺され、居住区を追われた犠牲者として登場した。
映画ではネイティブ・アメリカンが登場する作品そのものが少なかったが、例えば2003年に公開された『ラスト サムライ』では主人公のネイサン・オールグレンは無抵抗なネイティブ・アメリカンを殺害した罪の意識に苛まれ、避け浸りの生活を送っているという設定だ。ここではネイティブ・アメリカンは弱い存在として描かれている。
自身もチェロキー族の血を引くジョニー・デップは『ブレイブ』で貧しさのなかで家族のために懸命に生きるネイティブ・アメリカンを演じた。
では『レヴェナント: 蘇えりし者』で描かれるネイティブ・アメリカンはどういう姿なのか。
一言でいえば、脅威だ。恐怖と言ってもいいかもしれない。そこには今で見てきたような悪役であったり、弱い者、犠牲者としてのネイティブ・アメリカンのイメージはなかった。
ネイティブ・アメリカンを虐殺し、迫害したその裏には彼らへの恐れや恐怖もあったことがよくわかる(もちろんネイティブ・アメリカン虐殺は白人の恥じるべき歴史の一つではあるが)。
実は原作ではこのシーンにはほとんど紙幅が割かれていない。
監督のアレハンドロ・G・イニャリトゥは19世紀の時代のありのままのネイティブ・アメリカンをここで敢えて見せようとしたのだろう。そうでなければ白人に野蛮人と言われ、虐殺される姿か、負傷しているグラスを助ける言わば白人をサポートするためだけの役かのイメージしか残らなかった可能性もある。
復讐は神の手に委ねる
その後、グラスが熊に襲われ重傷を負うのは史実の通りだ。
同僚のフィッツジェラルドは30枚でグラスの最期を見届ける役割を負うが、仲間に早く追い付きたいがためにまだ息のあるグラスを殺そうとし、それを咎めたグラスの息子のホークスを殺し、グラスを生きたまま土に埋めて見捨てる。このフィッツジェラルドには銀貨30枚でキリストを裏切ったユダが重ねられている。
原作ではグラスの息子は登場しない。ただグラスは見捨てられた恨みから復讐のために蘇る。先住民の妻との間に生まれた息子、ホークスが殺されるという設定は監督のアレハンドロ・G・イニャリトゥのオリジナルだ。
イニャリトゥの映画は家族が亡くなる筋書きのものが多い。2003年に公開された監督デビュー作『21グラム』では娘が亡くなり、2010年に公開された『ビューティフル』では子供たちを残して父親が亡くなる。イニャリトゥ自身が生まれたばかりの息子を亡くすという悲劇を経験しているからだろう。
この喪失というテーマはイニャリトゥの映画の根底に共通して流れる重低音だ。
信仰を揺るがす誘惑
磔刑に処せられたキリストが復活したように、グラスも死の淵から生還する。 だが、グラスへの受難はまだ終わらない。急流の川を進んだり、ネイティブ・アメリカンに追われ馬ごと崖の下へ転落したり、癒えない体に容赦なく困難が降りかかる。
グラスは旅路の途中、朽ち果てた教会で妻と子供の幻を見る。
朽ちた教会はグラスの信仰への揺らぎを表している。グラスの喪失は祈りによって癒せるものなのか?
運命の過酷さに信仰を諦めるのは人間の普遍的な弱さでもある。グラスが例えキリストだとしても、キリストもまた人間であり、人間的な弱さと常に戦っていただろう。
マーティン・スコセッシ監督の映画に『最後の誘惑』という作品がある。アメリカで大論争を巻き起こし、上映反対運動まで起きた問題作だ。『最後の誘惑』では磔刑に苦しむキリストの元に現れた少女がキリストを十字架から下ろし、人間として暮らすことを許す場面が描かれた。神の子として殉教せずに、人間として暮らし、特に複数の女性と関係を持つという展開は敬虔なキリスト教徒らからの反発を招いた。
実は少女の正体は悪魔であり、悪魔の誘惑に負けたキリストの姿をスコセッシは描いたのだった。
キリストの弱さも描き切ることがスコセッシなりのキリスト教への誠実さだったが、当のキリスト教には理解されなかった。
スコセッシは2016年にも江戸時代のキリシタン弾圧を描いた『沈黙 -サイレンス-』を監督している。ここでもスコセッシはキリスト教を棄教した「弱き者」を作品の中心的なテーマとして取り上げている。
スコセッシはこれらの映画を通して弱き者への慈悲を問い続けた。
グラスも同じく問いかけたに違いない。なぜこれほどの試練を神は与えるのか?
新約聖書にヨブ記というがある。
善人のヨブは篤い信仰心を持っていたが、サタンはその信仰心は何らかの利益を期待するための邪な想いからではないかと考え、ヨブを苦しめることで彼の信仰心を試すことを神に打診する。神からの許しを得てサタンはヨブの財産や愛するものを奪う。だが、それでもヨブの信仰は揺るがなかった。次にサタンはヨブの心身を傷つけることにし、ヨブは皮膚病に冒されてしまう。湯治は皮膚病は社会的な死を意味した。そんなヨブのもとを三人の友人が訪れる。これほどまでに不幸に見舞われたヨブを友人たちは「何か悪いことをしたのではないか?」と問い詰める。それでもヨブは神を信じ、自身の潔白を訴える。
そしてヨブの前に神が現れる。神はヨブに神の計画は人間には理解もできないことを説いた。ヨブはその時に神を理解する。神の為すことは自分には理解できないという理解だ。すべては神の計画の中にあることにヨブは満ち、不安を捨て去ることができた。
信仰を揺さぶる誘惑 『レヴェナント: 蘇えりし者』のグラスは信仰を保ち続けたわけではない。そこには聖人ではなく、人間としてのグラスが描かれている。キリストはユダをも愛したが、グラスは自分の手でユダを殺そうとする。
フィッツジェラルドは隊長を殺し、その頭の皮を剥ぐ。なぜか?ネイティブ・アメリカンの仕業に見せかけたかったからだ。フィッツジェラルド自身、頭部には頭の皮を剥がされた跡がある
聖書においてユダの最期は「」と書かれているが、フィッツジェラルドも真っ白な雪の大地を赤い血で染めていく。止めを刺そうとしたグラスの脳裏にネイティブ・アメリカンの言葉が蘇る。
「復讐は神の手に委ねる」
「復讐は神の手に委ねる」劇中ではネイティブ・アメリカンの言葉として数回登場するが、これは実は聖書に登場する言葉だ。
聖書の中の「ローマ信徒への手紙」に
自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐は私のすること、私が報復する』と主は言われる」と書いてあります。
という言葉がある。
実は『レヴェナント』の原作小説において、冒頭にこの言葉は登場する。
やはり『レヴェナント』はキリスト教的な作品でもあったのだ。
すべての運命の救済
グラスは対岸にアリカラ族の一団を見つける。そして、フィッツジェラルドに止めをを刺さずに川に流す。
フィッツジェラルドをためらいなくアリカラ族は殺していく。グラスもまた死を覚悟する。
だが、彼らはグラスを襲わなかった。復讐の旅路でグラスは白人にレイプされていたネイティブ・アメリカンの娘を助けた。彼女はアリカラ族の長の娘だったのだ。グラスの命は助けられた。グラスはここで初めて神の計画を知ったのだと思う。ヨブがそうであったように。
すべてのことはこの一瞬のためにあったのではないか?
グラスの前に亡き妻が現れる。その姿は聖母マリアのようだ。グラスの目に涙が流れる。そして、グラスの呼吸は次第に穏やかになっていく。