『クレヨンしんちゃん 爆盛!カンフーボーイズ〜拉麺大乱〜』暴走する正義

※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています


『クレヨンしんちゃん』を子供向けの作品だと思って観ていたら痛い目に遭う。
『クレヨンしんちゃん 爆盛!カンフーボーイズ〜拉麺大乱〜』(以下『カンフーボーイズ』)を観ていて改めてそう思った。
クレヨンしんちゃん劇場版の『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』(以下『オトナ帝国』)について映画監督の樋口真嗣は
「誤解を恐れずに言い切ってしまえば、決まったキャラを売る条件さえクリアされていれば、あとは何をしてもオッケー。その「抜け道」を利用して作られたのが宮崎駿監督の『カリオストロの城』であり、押井守監督の『ビューティフル・ドリーマー』であり、原恵一監督の『嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』」
と述べているが、『カンフーボーイズ』もまたそのひとつではないか。

『クレヨンしんちゃん 爆盛!カンフーボーイズ〜拉麺大乱〜』

『クレヨンしんちゃん 爆盛!カンフーボーイズ〜拉麺大乱〜』は2018年に公開された『クレヨンしんちゃん』劇場版第26作目の作品だ。監督は高橋渉、声の出演は矢島晶子らが務めている。なお、矢島晶子は今作が劇場版で野原しんのすけの声を務めた最後の作品となった。
この映画が公開された時期にたまたま私は長崎の中華街を訪れていた。その時に中華街と『カンフーボーイズ』のコラボキャンペーンが行われていたことも個人的には思い出深い。

さて、前述の樋口真嗣の言葉にあるように『クレヨンしんちゃん』は元々ギャグ漫画ではあるので、笑いの要素さえちりばめておけば、かなり自由度の高い「素材」ではある。『オトナ帝国』ではもちろん笑いはあるものの、『クレヨンしんちゃん』ファンの子供というよりも、むしろその親世代をターゲットにしており、昭和の懐かしさとノスタルジーを全面に押し出した感動作となっていた。
またその翌年に公開された『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦』(以下『戦国大合戦』)は感動の要素は『オトナ帝国』に引き続き色濃く残しながらも、戦国時代を舞台にした時代劇にもなっている。しかも本来が子供向け映画とは思えないほど時代考証に力が注がれているのもポイントと言える。
2015年に公開された『クレヨンしんちゃん オラの引越し物語 サボテン大襲撃』(以下『サボテン大襲撃』)ではそれまでの『クレヨンしんちゃん』にはあまり無かったホラー要素が加えられている。『クレヨンしんちゃん』は映画ごとに様々なカラーがあり、決して飽きさせまいとする姿勢が感じられる。
特に今回の『カンフーボーイズ』  についてはアクションでいうと格闘技の要素、マサオくんの視点から観ると、挫折と成長の物語、敵の形態から観るとゾンビ映画の要素も感じられる。

『クレヨンしんちゃん』映画が含む社会的なテーマ

個人的にも『クレヨンしんちゃん』のファンではあるが、そこまで熱烈なファンというわけではない。
それに加えて、本サイトのコンセプトは「映画から『時代』と『今』を考察する」だ。一見『クレヨンしんちゃん』の出る幕はないように思えるが、すでに前述の『オトナ帝国』『戦国大合戦』『サボテン大襲撃』『しん次元! クレヨンしんちゃん THE MOVIE 超能力大決戦 〜とべとべ手巻き寿司〜』(以下『超能力大決戦』、『クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん』(以下『ロボとーちゃん』)、そしてこの『カンフーボーイズ』と累計6作品も取り上げている。
文章からデザインから更新まで何もかも私一人で運営しているサイトではあるのだが、改めて並べてみて「これほど『クレヨンしんちゃん』を取り上げているのか」と驚く。

だが、そのどれもが表面的な『クレヨンしんちゃん』のイメージの下に、その公開された時期ごとの社会的なテーマを含ませている。そういった意味では実は何より本サイトと相性がいいのかもしれない。
『サボテン大襲撃』ではひろしが双葉商事のメキシコ支社への転勤に伴って、野原一家がメキシコへ引っ越すのだが、現地のサボテンであるキラーサボテンが人々に襲いかかる。このキラーサボテンは原発のメタファーでもあると言われている。東日本大震災で原発の安全神話は崩れ去った。以降、日本人が原発に向ける目は複雑だ。その複雑さを拾い上げたのが『サボテン大襲撃』だと思う。
また『超能力大決戦』では現代の貧困がテーマになっている。例え凶悪犯罪を犯しても失うもののないほど、何も持たざる人のことをネットでは「無敵の人」と呼んだりもしているが、『超能力大決戦』はまさに「無敵の人」が野原一家と対峙する。

では『カンフーボーイズ』は現実社会の何を反映しているのか。
一言で言えば正義の暴走だ。
ネット社会になって誰もが表現者になり発言者になった。だからこそ、こうした正義の暴走も可視化され、時に炎上や誹謗中傷まで至ってしまうことがある。昨今ではそれによって命を自ら絶ってしまうことも多い。

ブラックパンダラーメンvsぷにぷに拳

『カンフーボーイズ』のあらすじを簡単に説明しておこう。
カスカベ防衛隊のしんのすけ達はマサオからカンフーを習わないかと誘いを受ける。カンフーを習っているマサオはいつものいじめられっこのマサオではなく、自分に自信が付き始めていた。
春日部市の外れにある中華街のアイヤータウンでマサオは「ぷにぷに拳」というカンフーを修行していた。
防衛隊のメンバーは乗り気ではなかったが、しんのすけが同じくぷにぷに拳を修行している少女、ランに惹かれたために、カスカベ防衛隊もマサオともに師匠からぷにぷに拳の修行を受けることになる。
その頃、春日部市では人々がラーメンを求めて凶暴化するという事件が発生する。
その元凶となっていたのがブラックパンダラーメンだった。そのラーメンは異常な中毒性を持つが、その副作用で人々が凶暴化していたのだ。 そしてとうとうしんのすけの妹のひまわりまでもがブラックパンダラーメンによって凶暴化してしまう。
師匠、ラン、そしてカスカベ防衛隊はブラックパンダラーメンのボスであるドン・パンパンに立ち向かう。

しんのすけとカンフー

今作で監督を務めた高橋渉によると、『クレヨンしんちゃん』でカンフーを取り上げたいという思いは前々からあったそうだが、しんのすけたちが人を殴るのは画的にどうかという思いがあり、実現していなかったという。
だが、「柔らかい部分で戦うのはどうか?」というアイデアによって、ようやくカンフーというテーマが実現することになった。だが、ぷにぷに拳に決まるまでは尻で戦う「尻拳」や耳たぶで戦うというアイデアもあったという(耳たぶについてはそれで途中まで進んだらしいが、「耳たぶで戦えるわけない!」とのことでボツになっている)。

そして、『カンフーボーイズ』には過去の名作カンフー映画へのオマージュに満ちている。例えばマサオがしんのすけらにカンフーの説明をする場面ではブルース・リー、サモ・ハン・キンポー、ジャッキー・チェン、ユン・ピョウ、ジェット・リー、ドニー・イェンらカンフー映画の代表的な俳優が登場する。また、マサオが劇中で口ずさむ歌はジャッキー・チェン主演のカンフー映画『プロジェクトA』のテーマソングだ。師匠とカスカベ防衛隊の修行の場面では『酔拳』『笑拳』などの引用が見られる。
この師匠について、声優を務めているのは関根勤。関根勤も大の格闘技ファンとして知られているが、師匠の演技について「大滝秀治さんとか千葉真一さんとかそういう方のテイストを混ぜながらリクエストのまま色々やってみて固めていった」と述べている。ある意味では物真似芸から師匠の声へと派生していったとも言えるが、だからだろうか私は終盤まで全く師匠の声が関根勤だとは気づかなかった。ちなみに関根勤は『オトナ帝国』にもカメオ的に声の出演をしているが、今回はほぼ全編にわたって出演している。

今の時代を取り込んだ『カンフーボーイズ』

『カンフーボーイズ』は今の社会における「正義の暴走を反映している」と書いたが、映画に表れているのはそれだけではない。
「正義の暴走」についてはあとで詳しく見ていくことにして、それ以外に込められた「今の時代」について見ていこう。
まずは父親の役割だ。監督の高橋渉は意図的にひろしがマグカップを洗っていたり、ひまわりを抱く役割を担っていたりと自然に家事や子育てに参加している描写を増やしている。これは高橋監督自身の育児体験が反映されたものだという。

次にブラックパンダラーメンのボスであるドン・パンパンだ。高橋監督はドン・パンパンについて「金儲けだけが目的のある意味純粋な男」と述べている。金のためならコンプライアンスも無視し、クレームも物理的に排除するなど、いかに金を手に入れるか(=ブラックパンダラーメンを食べさせるか)しか頭にない。これは昨今の迷惑系YouTuberを思わせる。彼らもいかに金を集めるか(=動画再生数を伸ばすか)しか頭になく、コンプライアンスや常識が欠如している。

『カンフーボーイズ』の終盤においては春日部市の町全体がブラックパンダラーメンの中毒者で溢れかえる。
その様はゾンビの群れを思わせる。1979年に公開されたジョージ・A・ロメロ監督の『ゾンビ』はショッピングモールを舞台に現代の大量消費時代を皮肉った映画だったが、今作におけるブラックパンダラーメンの中毒者も現代のゾンビだと言える。現代のゾンビに込められているものは情報に流されてしまう私たちの姿ではないだろうか。となれば、彼らが摂取しているブラックパンダラーメンとは「情報」のメタファーとも言えるだろう。
ブラックパンダラーメンにはドン・パンパンの手によって中毒性を催させる秘孔が突かれていた。まるで事実に対して印象操作を加えるメディアのようだ。そして、その情報を鵜呑みにし、思考停止に陥った状態こそ、現代のゾンビなのだ。

師匠は秘孔を突かれ、「パンツ丸見え」しか言えない体にされてしまう。
ランと野原一家はぷにぷに拳の最強の技、ぷにぷに真掌を得るために中国へ渡る。そこでぷにぷにの精からしんのすけへぷにぷに真掌を使うための秘薬が授けられるが、しんのすけは飲むのを拒否する。「心がやわらかくない」とぷにぷに真掌の伝授を拒まれたランは悔しさのあまり、秘薬を飲んでしまうが、強大な力を得る代わりにその副作用として小さな悪も見逃せずに倒してしまう独善的な性格へと変貌してしまう。

暴走する正義

ドン・パンパンが迷惑系YouTuberのようなものだとしたら、そこに過剰に反応するのが変貌したランだと言える。善と悪の境目はとても曖昧だ。劇中では透かしっ屁をした者、映画のネタバレをした者も迷いなく排除していく。監督の高橋渉は「ヒロインの『正義』が途中でひっくり返ってしまうのが、昨今の世相や時代性を反映している」と述べている。ランが自身の劣等感を圧倒的な力と価値観で克服しようとしたのとは対になる存在が今作のマサオだ。
マサオはカスカベ防衛隊より先にぷにぷに拳の修行を始めたにも関わらず、防衛隊にどんどん抜かれていく。マサオは劣等感を募らせ、自暴自棄になりかけるが、師匠の面倒を見ていくうちに修行の達成とは別の自分の役割を見いだしていく。

本当の柔らかさ

カンフーに限らず「やわらかさ」は本作の大事なキーワードだ。一つの考えに固まってしまうことの危うさは様々な軋轢を生む。多様性の大切さが説かれる現在だが、多様性そのものが絶対的な物差しと化すことすらある。
皮肉にも、今作の公開から2年後に新型コロナが社会を混乱に陥れることになる。その中で「マスク警察」という名前の正義が暴走する。

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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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