※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています
スティーヴン・スピルバーグの存在を知ったのはいつ頃だろうか。
10歳の頃に『ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク』を観たから恐らくは9歳か8歳の頃にはスピルバーグの名前くらいは知っていたはずだ。当時は「オジサン」というイメージだったスピルバーグも今では70歳を超え、お爺さんと言った方が近い。それでも『レディ・プレイヤー1』に代表されるように、今なお未来に目を光らせ、誰も観たことのない映像を作り出そうとする感性の若々しさには脱帽する。誰が『レディ・プレイヤー1』を観てこれが70歳を越えた人間の作った映画だと思うのだろうか?
一方で70代という年齢にもなると、自分人生を振り返っておきたくなるのだろうか。スピルバーグが「この物語を語らずにキャリアを終えることはできない」と語る映画が2023年に公開された。『フェイブルマンズ』だ。
『フェイブルマンズ』
本作はスピルバーグの自伝的な映画ということでも注目を集めた。今までスピルバーグの映画にはスピルバーグ自身の経験が断片的に反映されていた。『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』、『E.T.』、『ジュラシック・パーク』は両親が離婚した子供が登場するという点で共通しているが、スピルバーグもまた両親の離婚を経験している。『未知との遭遇』では主人公のロイは電気修理工という設定だが、スピルバーグの父親も電気技師だった。また2001年に公開された『A.I.』についても「父の影響と助けがなかったらできなかった」と述べている。
『フェイブルマンズ』はそんな数々の映画のなかに散りばめられていたスピルバーグの人生を集めた、まさに集大成と言える作品だ。
主人公はサミー・フェイブル。物語は彼が5歳の頃、両親に連れられて初めて映画を観に行く場面から始まる。暗闇を怖がるサミーが観たのは『地上最大のショウ』。巨匠セシル・B・デミルが手掛けた、P・T・バーナムの作り上げたサーカス団を舞台にした作品だ。ちなみにP・T・バーナムをテーマにした作品としては2018年に『グレイテスト・ショーマン』がヒットしている。
史実と若干の差異はあるものの、やはりスピルバーグも5歳の時に『地上最大のショウ』を観て映画に大きな衝撃を受ける。当初、本当のサーカスを見に行くと信じていたスピルバーグは、映画だと知ると父親に対して失望の気持ちと裏切られたと感じたらしいが、その気持ちは映画が始まって10分もすると消えたという。特に列車の衝突のシーンはスピルバーグ曰く「人生最大の事故」というほどの衝撃を受けたそうだ。
それから夢の中でも『地上最大のショウ』が頭を離れなくなったサミーはプレゼントに両親からもらった鉄道模型で鉄道と車の衝突という劇中のワンシーンを再現することにする。
何度も「衝突」を繰り返すサミーに母のミッツィは内緒で父のビデオカメラをそっと渡す。これで撮影すれば鉄道模型も壊れずに何度も衝突の場面を観返すことができる。これがサミーと映画の一番最初の出会いだった。
母のミッツィは自由奔放な女性だ。自宅に竜巻が近づいていると知ると、不安がる夫と横目に子供達を車にのせて竜巻見物に向かってしまう。ちなみにスピルバーグは1997年に製作総指揮として『ツイスター』を手掛けている。過去のサミーのエピソードからスピルバーグ映画へのリンクを見つけていくのも今作ならではの楽しい作業だ。
ミッツィのモデルがスピルバーグの母であるのはもちろんだが、共に脚本を務めたトニー・クシュナーの母もミッツィのモデルになっている。ミッツィが過去にピアニストを目指していたが、結婚によってその夢を諦めたという経歴はクシュナーの母のエピソードが元になっている。
クシュナーとスピルバーグは過去に『ミュンヘン』や『リンカーン』『ウエスト・サイド・ストーリー』でもタッグを組んでいる。『フェイブルマンズ』の製作のきっかけはコロナ禍の2020年に父を亡くしたスピルバーグが、「やり残したことをやりたい」と感じたことだが、そこでクシュナーとオンラインでのやり取りを行い、自身の少年時代の思い出などを話していき、映画の構想が出来上がっていったという。
サミーは映画作りに夢中になる。小さな頃は妹達と、少年へと成長するとボーイスカウトの仲間と劇映画を作り上げる。サミーは『リバティ・バランスを射った男』を観たらそれと同じような映画を作るなど、興味や好奇心のままに映画に情熱を傾けていた。
この頃、フェイブルマン一家は父の仕事の都合でアリゾナへと住居を移していた。引っ越しの道中では道路に死んだアルマジロが映る。ん?『悪魔のいけにえ』のパロディなのか?
父のバートは映画製作に夢中になるサミーに対して、架空の物語を作ることではなく、もっと実用的なことで人の役に立つことをしてほしいと話す。
ちなみにタイトルにもなっているフェイブルマンズとは主人公の姓「フェイブル+複数形」ということでフェイブルマン家族を表すと同時に、フェイブルには寓話という意味もあることから「寓話を語る人 」という解釈もできる。
「黒い羊」として痛みを伴う覚悟
家族でのキャンプなど楽しく満ち足りた日々を過ごすフェイブルマン家族だったが、母ミッツィの母(サミーにとっては母方の祖母)が亡くなる。
失意に沈むミッツィは夢で祖母からのメッセージを聞く。
「その男を家に入れてはならない」
誰のことだろう?
しばらくしてそのメッセージ通りある男が家を訪ねる。祖母の兄のボリスであった。
ボリスはサーカス団から映画界へ転身した経歴を持つ。サミーが映画製作に興味があることを知ると、サミーにこう語りかける。
「芸術は麻薬だ。俺たちはそのジャンキーなんだよ」
そして、ボリスはミッツィの話をする。ミッツィはピアニストになりたかったが、ミッツィの祖母はそれを許さなかった。ミッツィにはプロになれる才能があったのに、と。
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』や『キャロル』の解説でも述べたように、1950年代以前の社会では女性の自立や社会進出などは今よりずっと抑圧されていた。ミッツィはそんな社会の被害者なのかもしれない。スピルバーグも自身の母親について「当時の男女の価値観の中で、母はとても個性的で現代的な価値観を持っていた」と語っている。
だが、ボリスが本当に伝えたいのは芸術家としての孤独だった。
「芸術に生きるならお前は『黒い羊』になる。痛みを伴う覚悟はあるか?」
ここで言う「黒い羊」とはある集団内において身勝手で異質な存在のことを指す慣用句だ。
サミーは芸術に痛みがあることを知る。そして、それは予期せぬ形で実際に訪れる。果たしてボリスは祖母の言うとおりに家に入れてはならない人物だったのか、サミーは自問する。
サミーは祖母を亡くした母を慰めるために、家族旅行のフィルムを編集し、映画を作る。そこで旅行に同行していた父の親友のベニーと母が親しくしているのをフィルムの中に見つけてしまう。家族旅行の映画を作り終えたサミーは当初予定していた第二次世界大戦をテーマにした映画に取りかかるが、母への疑惑は心の中にくすぶり続けた。
ちなみにこの時サミーが作り上げた戦争映画『地獄への脱出』だが、実際にスピルバーグが作り上げたものを観ることができた。スピルバーグが作ったものの方が当然チープだが、エンターテインメント性も抑えられており、後の『プライベート・ライアン』にも通じる雰囲気が感じられた。
スピルバーグのトラウマ
『地獄への脱出』は絶賛されたが、一方でサミーと母親との不和はピークに達していた。理由がわからないと言うミッツィにサミーは上映しなかった家族旅行のフィルムを見せる。映し出された動画には仲睦まじいミッツィとベニーの様子が映っていた。泣き崩れるミッツィを見て、サミーは「自分の撮ったフィルムでこんなことになるなんて」と自責の思いに駆られる。ボリスの言葉は現実になったのだった。
サミーは映画作りをやめ、父親の仕事の都合でカリフォルニアへ引っ越す。だが、ユダヤ系の住人がほとんどいない地域でサミーはユダヤ系ということもあってクラスメイトから過酷ないじめを受けることになる。また母のミッツィもベニーのいない寂しさから部屋に引きこもるようになる。
サミーは勉強もスポーツもからっきしだったが、スピルバーグ自身も学習障害(ディスクレシア)を抱えていることを公表している。また、『フェイブルマンズ』ではミッツィが寂しさから猿をペットとして飼う場面があるが、実際にスピルバーグの母親も猿をペットにしていたという。
サミーはそんな日々の中でも彼女ができる。だが、楽しい日々の中で突然両親が離婚することが明らかになる。ミッツィはベニーから離れられないと告白する。この経験はスピルバーグのトラウマとなり、彼自身の映画にも強く影響を与え続けることになる。
プロムの日、サミーは彼女のモニカ卒業後はハリウッドへ一緒に行かないかと誘う。だがモニカはテキサスの大学への進学が決まっており、二人は別れることに。
サミーは失意の中で自身が手掛けたクラスのイベントを映した映画が上映されるが、クラスメイトのローガンは実際より遥かに良く編集された自分の姿に戸惑う。
「お前をいじめた仕返しか?」と問い詰めるローガンにサミーはこう言う。
「映画はありのままを映す」「(上映時間である)5分間だけでも友達になりたかった」と。
ローガンはサミーの映画によって自分自身を誤解される恐さと同時に本当の自分と向き合うことにもある。それは辛く重い行為だ。サミーに泣き顔を見られたローガンはある意味でサミーと秘密を共有することになった。サミーとローガンはここで初めて心を通わせる。
フォードとの邂逅
大学生になり、ハリウッドで父親と暮らすサミーだが、学業に興味が持てずにいた。父親は大学をやめていいと言い、サミーは映画業界へ片っ端から自分を売り込んでいく。
この辺りのエピソードはフィクションの割合が高い。実際にスピルバーグは両親の離婚後、父とは疎遠になっており映画業界へ入るきっかけも『フェイブルマンズ』以上に面白いものとなっている。スピルバーグの映画業界入りのエピソードは有名だが、知らない人はぜひ調べてみてほしい。
ついにある日、製作会社から声がかかる。テレビ映画製作で監督の助手の助手だったが、サミーにとっては紛れもない夢への一歩だ。
そして名監督であるジョン・フォードと面会する機会にも恵まれた。フォードはサミーが幼い頃夢中になった『リバティ・バランスを射った男』の監督でもあり、『怒りの葡萄』や『静かなる男』などの作品でアカデミー賞の監督賞を史上最多となる4回受賞という記録も持つ(ちなみにスピルバーグは『シンドラーのリスト』と『プライベート・ライアン』で2回受賞している)。
『フェイブルマンズ』でジョン・フォードを演じているのはなんとデヴィッド・リンチだ!カルト映画の帝王とも呼ばれる、現代映画史の紛れもない巨匠である。リンチ演じるフォードのアドバイスがまたいい。「地平線が上にあっても下にあってもいい!真ん中にあるのはクソだ!」
名監督との邂逅を果たしたサミーの目には未来への希望で満たされていた。軽やかなステップで通りを行くサミーの後ろ姿で『フェイブルマンズ』は幕を閉じる(この時に地平線が調整されるのがコミカルで可愛らしい)。
スピルバーグの私小説
『フェイブルマンズ』だが、率直に言うと地味だ。スティーヴン・スピルバーグの作品にエンターテインメントやあるいは社会的なメッセージ、感動を求めるならば肩透かしを食らうかもしれない。
この作品はスピルバーグの私小説なのだ。それがわかっている人だけが楽しめるだろう。
地味ではあるが、だからこそリアルに感じることもあった。『フェイブルマンズ』では国家の危機に陥るような陰謀や何十人も亡くなるようなアクシデント、息を呑むような未来世界や冒険は一切ない。
私もサミーと同じ頃の年に両親の離婚を経験した。極論かもしれないが、世界の裏側で1000人が亡くなることよりも、それまでの生活の基盤だった家族の形が崩壊することの方が遥かに衝撃的で重く苦しい体験だった。
スピルバーグが稀代のヒットメーカーであり、名映画監督となれたのは映画作りの才能だけではなく、こうした悲しみを常に抱えて生きていたからだろう。
「一度観たら忘れられない、素敵な夢」
初めて映画を観るサミーに母のミッツィがかけた言葉だが、スピルバーグも今なお同じ気持ちで映画を作っているのだと思う。
夢とはささやきに近いとスピルバーグは言う。目の前で叫んだりせずに、後ろからついてくるもの、その勘や本能からの小さなささやきの声を聞いて、人生でそれをやりたいと感じたら、それがまさに夢なのだと。
多くの映画監督がデジタルで映画を撮るようになった今でも、スピルバーグは幼い頃からのようにフィルムでの撮影にこだわっているという。