なぜ『紅の豚』は面白くなかったのか?

※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています


幼い頃からジブリ映画には親しんできた。
『天空の城ラピュタ』『となりのトトロ』『風の谷のナウシカ』『もののけ姫』『魔女の宅急便』など、多くは金曜ロードショーで繰り返し放映されていたものだ。当時は小学生。両親が録画してくれたVHSを繰り返し姉弟で観ていた記憶がある。
だが、そんなジブリ映画の中でもあまり楽しめなかった映画もある。
それが『紅の豚』だ。

『紅の豚』

『紅の豚』は1992年に公開された宮崎駿監督のアニメ映画だ。声の出演は森山周一郎、加藤登紀子らが務めている。
いつも主人公が豚の姿をしたおじさんということと、赤い戦闘機に乗っていることは覚えているのだが、どうも肝心のストーリーがそこだけモヤがかかったように思い出せない。
なぜ『紅の豚』だけこんなにつまらないんだろう?小さな頃はそう思っていた。冒頭に挙げた他のジブリ映画は子供が十分楽しめる作品であるだけに余計にそう思った。
だが、『紅の豚』に込められた想いを知ると、また違った一面が見えてくる。『紅の豚』に込められたもの。それは他ならぬ宮崎駿自身の夢だったのだ。

『紅の豚』はそれまでの宮崎駿監督のジブリ映画の中でも確かに異色作だった。
それまでの宮崎駿監督のジブリ映画の主人公は少女が多かったのに、『紅の豚』はそれとは真逆の中年の豚だ。
宮崎駿は熱烈な飛行機好き、そして軍事・兵器マニアでもある。主人公を中年の飛行機乗りにしたことで宮崎駿は周囲から「とうとう我慢できなくなったか」「とうとう本音を出したか」などと言われたという。

確かに宮崎駿監督の映画には「空を飛ぶ乗り物」が多いことに気づく。
『風の谷のナウシカ』のメーヴェ、『天空の城ラピュタ』の『魔女の宅急便』のホウキ、『となりのトトロ』のコマなと、宮崎駿の作品では主人公が空を飛ぶ描写が多い。『紅の豚』はそうした宮崎駿の憧れの集大成とも言えるだろう。

『紅の豚』というモラトリアム

宮崎駿自身としては今作は「モラトリアムの作品」として30分程度の短編で気楽に作れるものを目指していた。
『紅の豚』というタイトルもそうで、当初は様々なかっこいいタイトル案もあったそうだが、主人公が豚というのは避けられないために「豚」をタイトルに含めたという。
このタイトルについて、冗談めかしたタイトルだと宮崎駿自身も認めており、資金提供のために日本航空に企画書を提出したときも「断るに決まっていると思っていた」「(企画が)流れると思っていた」とまで述べている。
上記のエピソードのように『紅の豚』は当初日本航空の旅客機の機内で上映される短編となるはずだったのだが、後述のテーマの追加に伴うスケジュールの遅延や本編の時間が伸びていったりで劇場公開しないと資金回収ができないと判断し、劇場公開作品として長編の物語になっていく。
ここから『紅の豚』についてもっと詳しく見ていこう。

『紅の豚』がモラトリアムの作品ということについて説明を加えると、宮崎駿はいままでの作品で「等身大のキャラクターで物語を作ること」はもう極まったと語っている。『風の谷のナウシカ』、『天空の城ラピュタ』、『となりのトトロ』これらは全て宮崎駿が過去の自分へ出した手紙のようなものだという。
さらに、「その次の段階として『本質的な映画』を作る時期が来た」とも述べている。それは今を生きる子供たちへ、どう生きていくかを示すような作品ということだろう。

確かに『紅の豚』以降の宮崎駿の作品は変わった。
もののけ姫』『千と千尋の神隠し』これらには当時の子供たちが置かれた社会的な状況がそのまま主人公に転写されている。それは前の世代が遺した負債を子供たちが処理せねばならないという不条理だ。
『もののけ姫』では、主人公のアシタカは村を襲うタタリ神から村の娘たちを守るためにタタリ神に矢を放って倒す。その代償としてアシタカは腕に死へと至る呪いを受けることになる。アシタカが倒したタタリ神は遠い西の地で猪神が人間からの毒礫を受けたことで、人間への憎しみを抱き、タタリ神へと変貌した。つまり、「自分が原因ではない災禍の責めを理不尽にも負う」ことが、アシタカの姿であり、宮崎駿が当時の若者に感じたことであった。
『千と千尋の神隠し』もそうだ。引っ越しの途中で道に迷った千尋とその両親はトンネルを抜けて無人の町へたどり着く。そこが神の町と気づかずに両親は勝手に料理を食べてしまい豚になってしまう。親の責任をとってで働くことになるのが少女の千尋だ。
また、『魔女の宅急便』がヒットしたことに対する負い目もあった。宮崎駿は『魔女の宅急便』が少なからず当時のバブルの世相を意識した作風にしてしまったことを後悔する発言も残している。

『紅の豚』はそうしたメッセージや時代に媚びることも意識しない、文字通り気楽な気分転換的な作品だった。
プロデューサーの鈴木敏夫は『紅の豚』の企画当初は15分程度の短編だったと述べている。また、ジブリとしての前作である『おもひでぽろぽろ』でスタッフが疲弊していたのもあり、気晴らしになる作品をということで企画されたともいう。
宮崎駿の演出覚え書きにもあるように、最初は「疲れて脳細胞が豆腐になった中年男のためのマンガ映画」だったのだが、当時の湾岸戦争やユーゴスラビアの紛争等に影響され、徐々に長くなっていった。
(当初の絵コンテでは劇場公開版の冒頭部分、ポルコが子供達を救出する場面で物語が終わっていたそうだ)。
今作では宮崎駿の個人的な想いがあらゆる角度から垣間見れる。

戦争と戦闘

宮崎駿は戦闘機や戦闘は好きだが、戦争は嫌いなのだと『紅の豚』を観ていると実感する。『紅の豚』で描かれるのはあくまでも戦闘が主であり、それすらもどこか牧歌的で、本来の戦闘の性質である「命のやり取り」という現実からは目を逸らし続けている。また、そもそも戦闘シーンも冒頭の子供を誘拐したマンマユート団との戦闘と、中盤のカーチスとの最初の戦い、クライマックスのカーチスとの再戦の3回しか描かれず、クライマックスの決闘も戦闘機での銃撃から物の投げ合い、ついには拳での殴り合いなど、当初の殺し合いからはどんどん遠ざかって行く(ポルコには殺人はしないというポリシーがあるが)。一方、唯一戦争が描かれるのは、ポルコの回想においてだが、そこでは戦友の死や、自身も死の縁にあったことなど、戦争の悲劇的な面がクローズアップされている。
また、『紅の豚』の時代設定は大恐慌時代のイタリアであり、町の雰囲気の随所にファシズムの空気が描かれてもいる。
いくつか例を挙げると、マンマユート団から子供たちを救出したポルコは、銀行から預金を下ろすが、その時に窓口の銀行員から「愛国国債の購入はどうか」と勧められている。
またポルコはかつての元同僚に対して「ファシストになるより豚の方がマシ」との言葉をかけている。

マンマユート団はポルコを倒すためにアメリカの飛行機乗りのカーチスを雇う。ポルコは不調が続いていた愛機の修理をしにミラノへ向かうが、その途中でカーチスに遭遇する。カーチスとの最初の戦いでポルコの飛行機は遂に撃墜される。
ポルコはミラノのなじみの工房ピッコロ社へ修理に出すが、生憎工房の息子たちは出稼ぎに出ており、17歳の孫娘のフィオが修理に当たることになる。ここで注目したいのは、飛行機の設計から製造まで、すべて女性が請け負っているという点だ。もちろん作中では通貨価値の下落によって男たちはみな出稼ぎに出掛けているという理由が語られている。これに関しては実際のイタリアも第一次世界大戦後の急激なインフレによって不況が長く続いていた(クロアチアで給油したフィオが燃料費がイタリアの3倍もすると驚く場面もある)。しかし、これは『紅の豚』の製作環境とそのまま重なってもくる。実は『紅の豚』のメインスタッフはほとんどが女性だった。プロデューサー鈴木敏夫も「あれは『紅の豚』の製作現場の投影だ」と認めている。

ポルコはなぜ豚になったのか?

『紅の豚』への批判的な意見の中で多いのはカタルシスが少ないというものだ。
確かに『紅の豚』はいくつかの謎を残したまま終わる。そのひとつがポルコはなぜ豚になったのかということだ。
裏設定として、ポルコは自分自身に魔法をかけて豚になったのだという宮崎駿の言葉がある。
ポルコは元々イタリア空軍のエースパイロットであったが、前述のように戦争で戦友を亡くしている。その戦友のベルリーニは昔からの友人であるジーナの結婚相手だった。
この悲劇がポルコに人間に対する嫌悪感と罪の意識を抱かせたのだろう。それは宮崎駿自身にも重なる部分がある。宮崎駿は「豚より人間の方が価値があるとは思っていない」という。 また、ポルコが純粋な人間だとも思ってはいない。宮崎駿は戦争を憎む一方で戦闘や兵器を好んでいるとは先に述べたが、よくよく考えるとこの二つを同時に描くことは非常に難しい。『紅の豚』では戦闘機に当たるが、それ自体を戦争と切り離すことはできないからだ。
ボルコも軍人として、イタリアのために命を捧げ、また多く敵の命を奪ってきた男だろう。それは国家を守るための任務でもあるので否定はできないのだが、だが、その事が無意味だったと思ってしまったなら、奪ってしまった命の意味はどうなるのだろう?
戦争の虚しさを知ったポルコにのし掛かったのは戦友のベルリーニだけではなく、その手で奪った多くの命の重みではないか。その罰としてポルコは自ら豚になったのだろう。そして国家に組み込まれることなく、自由に生きることを選んだのだ。
エンディングでフィオがポルコにキスをする。その後でカーチスはポルコの顔が人間になっているのに気づく。

「魔法」は解けたのか?

『紅の豚』のエンドロールで、人々の顔がみな豚になっているカットがある。宮崎駿はこの点を問われて、飛行機が普及するにしたがって、やがて戦争などの道具になっていく、飛行機乗りが飛行機に乗っていることだけで、そうやって戦争などに荷担していくことにある種の苦々しさを感じなければならないと述べた。その苦々しさ、つまりは罪の意識や後ろめたさが豚として描かれているのだと思う。
宮崎駿はポルコがずっと人間の顔に戻っているとは思わないとも述べている。フィオからのキスで束の間、人間も捨てたものではないと思ったとしても、もしくは自身の罪の意識を忘れたとしても、ポルコの罪が消えたわけではなく、またその意識が現れたときにポルコは豚になるのだろう。そもそも宮崎駿は『美女と野獣』で最後に野獣が人間になるのが気にくわないとも発言しているのだから、人間に戻ることが『紅の豚』のハッピーエンドの条件ではないのは明らかだ。余談だが、ジブリ映画のファンとして知られるギレルモ・デル・トロも『美女と野獣』のアンチテーゼとして、『シェイプ・オブ・ウォーター』を製作している。

ジーナとの賭け

夜、ジーナのお店に来るのではなく、昼、ジーナのプライベートな庭にポルコが現れたら、もしそうなったらポルコと結婚する。
ジーナのその賭けはジーナとカーチスとフィオしか知らない。そして、その結果を知るのはジーナとフィオだけだ。
宮崎駿は「あの後、ポルコはジーナを訪ねると思うか」とスタッフに尋ねた。スタッフが「行くと思います」と答えると、宮崎駿は「そうかな」とだけ答えたという。
別のインタビューでは宮崎駿は「ジーナに会いに行ってもいいと思う」としながらも、人間の顔に戻ってすぐに会いに行くのではない。ジーナが出てきたらすぐ豚になって飛んでいってしまうの答えている。
ポルコは自分を何処かで許せないまま、そのまま生きていくのだろう。

宮崎駿の夢

『紅の豚』は続編を作るためにあえて中途半端にしたと、宮崎駿は語っていた。ちなみに『借りぐらしのアリエッティ』でも『紅の豚』の続編をやりたいと発言している。

『紅の豚』から零戦の設計者、堀越二郎を主人公にした『風たちぬ』に宮崎駿の夢は結実するのだ。

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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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