『ゆれる』殺人か、事故か、事件の真実とは?

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※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています


本当に素晴らしい邦画は数少ないと思う。テレビドラマの劇場版、タレントや人気者を配した安易なキャスティング、学園ものの不良役は決まって金髪で、サイコパスはすぐにゲームを始めたがる。

洋画の方がテーマも幅広く、演技、演出ともにしっかりしているように感じる。
だが、洋画を100%堪能することはできない。育ってきた文化が違うし、吹替や字幕など翻訳の中で失われた原語ならではのニュアンスもあるだろう。
となると、私たちが心から堪能できるのはやはり邦画なのだろう。
その中でもおすすめしたいのが、今回紹介する『ゆれる』だ。

『ゆれる』

『ゆれる』は2006年に公開された西川美和監督、香川照之、オダギリジョー主演のドラマ映画。
田舎で慎ましく父と暮らす兄と、都会で奔放に生きる弟。一つの事件をきっかけにその関係は崩れ去っていく。

素晴らしい映画なのだが、こうやって解説を書くのはずっと避けてきた。この作品を言い表す上手い表現が出てこなかったからだ。それはずっと私の語彙力が足りないからだと思っていた。
だが、そうではなかった。
『ゆれる』が描いていたのは人間そのものだったからだ。漫画のような分かりやすいヒーローや分かりやすい悪役は現実には存在しない。誰もが様々な一面を持ち、それらが混沌となり、一人の人間を形作っている。そして常にそれは揺らめいて、絶え間なく変わり続ける。
その事を一言で言い表すのは不可能だ。

今回『ゆれる』の考察と解説にあたっては西川美和監督自身が著した小説版も参考にさせてもらっている。この小説版『ゆれる』は映画の原作ではなく、映画の公開後に出版されたノベライズであるが、映画では端折られている登場人物の心情やバックグラウンドまで細かく綴られている。今回はこれを映画の補完として合わせて見ていきたいと思う。

それぞれの事実

さて先に述べたように『ゆれる』は一つの事件をきっかけにそれまで何となく成り立っていた関係に改めて向き合わねばならなくなった兄弟の話だ。
その事件とは、兄弟の幼馴染である智恵行く恵子が渓谷の端から落下して死んだ事件だ。
橋の上には兄の稔だけがいた。そしてその渓谷にいたのは兄の他に弟の猛だけ。
果たして稔は何をしたのか。猛は何を見たのか。
小説版は登場人物それぞれが事件とその経過を語っていくという構成をとっている。語られることはあくまでその人の主観であり、何が真実か判断することができない。真実は語る人によって揺れていく。

吊り橋の向こう

兄の稔は幼馴染の智恵した恵子にずっと想いを寄せていた。だが、母の一周忌で実家に帰省してきた猛は兄の想いを知りながら智恵子を抱いてしまう。
小説には智恵子の想いや生い立ちが詳細に語られている。猛への憧れ、高校時代に猛と関係を持ったこと、そして猛に「自分の意思がなくつまらない」と言われた過去。その言葉は智恵子のトラウマとなって猛が東京へ行き、目の前から消えても残り続けた。一方では稔の自分へ向ける想いにも気づいており、稔と人生を共にすることもある種の諦観にも似た思いで受け入れつつあったのだろう。猛が帰省してくるまでは。東京でカメラマンとして成功した猛と田舎で燻っている自分。智恵子が元々他所から引っ越してきたという過去も余計にそう感じさせたのかもしれない。
智恵子は猛の前で必要以上に稔と仲良くし、猛の心を刺激していく。智恵子を家まで送ることになった猛は車内で智恵子にこう言う。
「兄貴と仲良いんだね。息ぴったりで・・・なんか嫉妬しちゃった」
「兄貴、お前の家に行ったことあるの?」
慌てて否定する智恵子だが、
「じゃあ、俺行ってもいい?」
この言葉が全てを呑み込んだ。
映画では猛のどこか危うい魅力に智恵子が気圧されたようにも見える。実際、智恵子の表情はこれからの時間に怯えているようだ。
だが、実際は智恵子がそうなるように巧みに仕掛けていたのだ。「自分の意思」によって。智恵子の表情が一瞬悦んでいるように映る。

そして猛は智恵子を抱く。そして行為が終わるとあっさりと智恵子の部屋を後にする。
家に着いた猛は稔に適当に遅くなった理由を誤魔化す。「あの子、結構飲めるだろ?」「ああ」
稔の問いにはそう答えた。
そして稔の提案で智恵子と三人で翌日渓谷へ出掛けることになった。

翌日、三人は渓谷に着く。
猛は吊り橋を渡る。「私も渡ってみようかな」心配する稔をよそに智恵子は吊り橋へ向かう。吊り橋の上から智恵子は猛の名を呼ぶ。だが猛はそんな智恵子を避けるようにカメラを携えて渓谷の奥へ入っていく。
智恵子は吊り橋を渡っていく。だが誰かが智恵子の体に触れる。
「智恵ちゃん、危ないよ」
それは自分を心配して付いてきた稔だった。
吊り橋の向こう、それは今までとは違う未来だった。だが、稔は変わり映えしない今までの生活そのものだ。優しいが弱々しく、自分の意思もない、稔は変わりたいと思っている今までの自分の姿そのものだった。もし、猛に再会しなければ、優しいその手を拒絶することもなかっただろう。 だが、今は違う。稔の手を必死に振り払う。
だがー。

人生という呪縛

智恵子の死は事故となった。また変わらない暮らしが戻ってくるはずだった。だが、稔の自首によりそれは一変する。
なぜ稔は自首したのか。「自分が吊り橋の上にいなければ」「自分が誘わなければ」そうした自責の念を誰かから罰を受けることで軽くしたかったのだろう。誰にも言えない罪を背負い続けながら生きるほど過酷で辛いものはない。それは稔の優しさの証明にも見えた。
だが、接見に訪れた猛に、稔はこう言う。「まぁあのスタンドで一生生きていく子のも、織の中で生きていくのも大差ないな。バカな客に頭下げなくていい分だけこっちの方が気楽だよ。あのチンピラ、スーっとしちゃった、どうせなら頭叩き割ってやるんだった」
それは猛も、おそらくは誰も知らない稔の心の奥底だった。

『ゆれる』着想のきっかけ

西川美和監督によると、この作品は監督自身の見た悪夢が元になっているという。
温厚な友人が人を殺す。吊り橋の上から女性を突き落とす。彼の優しさを考えると、一人で罪に耐えて生きていくのはかわいそうだ。自首を勧める。
だが、友人からは意外な言葉が飛び出す。被害女性を口汚く罵るのだ。
驚きと共にかつての彼が失われたことの悲しみ。だがその瞬間、心の中にはもう一つの想いが渦巻く。
「これまでの自分の仕事や歴史、人生はどうなるのか?」
予期せずも殺人者の関係者になってしまった自分の醜い本音。
罪を犯したものはもちろんだが、同時に自分の人生も失われる。その巻き込み事故のような不運を友人に責めてしまう。目が覚めたとき、その利己的な感情を持った自分への失望が残った。
「自分がが夢の中で感じてしまった良心のゆれ、脆さみたいなもの。まったく自分自身に幻滅した。起きて『こんな人間か』と。
でも夢の中で実際そういうシチュエーションにおかれていたときに、そういう感覚に走っていたのは事実で。自分の中には自分が認めたくないような脆さがあるなと」
西川美和監督は「人間の不確かさ」「つながりの不確かさ」について『ゆれる』で描きたかったという。この事は『ゆれる』を考察する際に非常に重要だ。

稔の裁判

稔の公判が始まる。検察と弁護士の間で事件も人間も揺れる。
この検察官を演じた木村祐一の演技もいい。殺人事件の裁判には似つかわしくない軽妙さを感じさせながら、同時に人の心の奥底を引きずり出し、火炙りにするいやらしさもある。
ちなみに裁判というと法廷ものの作品ではしばし「真実を明らかにする」という目的を描かれることが多いが、今作においては真実というよりも弁護士と検察、どちらが合理的なストーリーを描けるかという点に偏っているようにも思える。
弁護士でも検事でもなく、真実を握っているのは猛だ。

猛の証言

検察は稔を追い詰めるが、殺意を証明する決定打はなかった。事件は被告の稔に有利になっていく。最後の仕上げが弟である猛の証言だった。

「兄はとても真面目で優しくとても正直な人間でした。
僕は誇れるものが何もない人間です。
が、兄だけは違いました。兄のことだけは信じられたし、兄とだけは繋がってたんです。
それがすっかり変わってしまった。
あんな巧妙な嘘をつく人間じゃなかったんです。
今まで僕は何も知らないふりをして来ました。
兄の事を庇いたいと思って、そして自分の事も庇って来たんだと思います。
でももう嫌になりました。
これを話すことで僕と兄とが引き裂かれて2人とも惨めな人生を送ることになったとしても、僕は元の僕の兄貴を取り戻す為に自分の人生を賭けて本当の事を話そうと思います。
僕は吊橋の上で智恵子さんに兄が詰め寄るのを見たんです。
グラグラ揺れる橋の上で2人は揉み合って彼女は兄に突き落とされました。
悲鳴をあげて落ちていきました。
僕は見ていました」
自分の運命を逆転させる言葉のはずだが、それを聞く稔の顔には微かに笑みさえ浮かんでいる。
「あなたのその記憶は正確なものですか」裁判官が尋ねる。
「先ほど申し上げた通りです」
それが事件の真実だ。皆そう思った。この時は猛自身も。

七年後

そして七年の時がたった。厳しい父親だった勇は痴呆が進んで野菜や新聞紙を物干し竿に干している。
加害者の家族もまた厳しい暮らしを強いられてきたのだろう。
猛の部屋には女っ気もなくゴミも散らかっている。いかにも男の一人暮らしという感じで、アシスタントもなく、かつての人気は盛りを過ぎたように見える。

稔の出所の日が近付き、洋平が猛の元を訪ねる。バイトだった洋平は今では正社員となり、妻と幼い娘と幸せな家庭を築いていた。
場所を変えてファミレスで食事をする。
「稔さん、出所の日が決まりました」洋平は律儀にそう伝えに来てくれたのだ。だが、猛はすでに兄弟の縁は切れたと考えている。切ったのは他でもない自分だ。
「本当の兄を取り戻したいって刑務所にぶちこんだのはあんたでしょうが!」
猛の他人事のような態度に洋平は声を荒げる。
「俺や親父さんの所に稔さんを返してくださいよ。奪いっぱなしですか。それであんた何を手に入れたんです?」
そう言って洋平は席を立った。

家に帰った猛は古いフィルムを見つける。そこには幼い日の自分達が映っていた。あの渓谷で父と無邪気に戯れる稔と猛。
稔が猛の手をとる。その時に猛は気づいた。智恵子が吊り橋から落ちた時、確かに稔は智恵子の手を掴んでいたのだ。
記憶も何もかも儚く揺れる。果たして稔は智恵子を倒したのか、それはわからない。ただ、ただ最後に智恵子を助けようとした。稔の腕に線のような傷跡があった。それこそが確かな証明だった。優しさも確かに兄の本質だったのだ。兄は確かに千恵子を救おうとした。だが、愚かにも猛は兄を救おうとはしなかった。それどころか―。

「誰の目にも明らかだ。最後まで僕が奪い、兄が奪われた。
けれど全てが頼りなく儚く流れる中で
ただ一つ危うくも確かに架かっていたか細い架橋の板を踏み外してしまったのは
僕だったんだ。
今、僕の目には明らかな風景だ。
腐った板が蘇り、朽ちた欄干が持ちこたえることはあるだろうか?
あの橋はまだ架かっているだろうか」

稔はなぜ微笑んだのか?

だが、ここで一つ疑問がある。裁判の場面に戻ろう。なぜ有罪を宣告された稔は満足そうに微笑んだのか?稔は奪われることを望んでいたのか?
撮影現場でも西川美和監督は猛を演じたオダギリジョーに太宰治の『駈込み訴え』を渡したという。
また小説『ゆれる』の解説文はノンフィクション作家の梯久美子氏が手掛けているが、その中も猛の存在は『駈込み訴え』の中のユダに例えられている。
ユダは銀貨30枚でキリストをローマ兵に売った裏切り者だが、『駈込み訴え』のユダはキリストへの憎しみと愛が入り交じり、ついには自分でも何を言ったかわからないと言い出す。恐らくこのユダに本来重ねられているのは人間を呪い、人間を愛そうとした太宰治本人なのだろう。太宰は「ユダの悪が強ければ強いほど、キリストのやさしさの光が増す」と述べている。

ユダが猛なら、キリストは稔なのか?キリストとユダについて、次のような解釈も可能なはずだ。
キリストはユダを許していた。そして磔刑になり、そして復活した。復活のためにはユダの裏切りが必要だった。だから最初から許していたのだ。
同じ解釈が『ゆれる』にもできないだろうか。
稔にも今の自分の人生を呪う気持ちがある。だが、すべてが歪に、しかし完全に絡み合い、一人ではそこから抜け出すことなど到底できない。その意味では智恵子よりもっと重い鎖がまとわりついていた。
確かに自白はした。それで終わるかと思ったが、周囲の人の優しさが無罪という形で自分をまた元の場所に戻そうとしている。それこそが最も脱ぎ捨てたいものなのに。
服役によって店や家族がどうなるかという思いも真実なら、それを機として今の環境から脱け出したいのも本音だろう。
その背中を押すのは弟の猛しかいなかった。
裏切り者のユダこそが自由への鍵だったのだ。猛がその役目を果たした時、稔は微笑んだ。

『駈込み訴え』は2010年にNHKで実写化されたが、その時に監督と脚本を務めたのが西川美和だった。同作ではキリストとユダをボランティア活動の女子学生に重ねている。一人は美人で人気の子、その子を羨ましく眺める目立たない子の代弁者こそがユダなのた。

一方的な期待

ここからは猛の目線で考えてみたい。なぜ猛は稔の証言を否定したのか。
物語の終盤まで一貫して描かれるのは猛の献身だ。弁護士の伯父である修を訪ね、弁護を依頼したのは猛だ。父の勇は兄の修とは確執がある。猛の行動の根本には善良な兄であってほしいという一貫した思いがある。
証人発言の前に、拘置所を訪れた猛。「なぜ兄ちゃんはあの吊り橋を渡ったの?」
その問いに稔は答える。
「裁判で話した通りだよ、お前いなかったっけ」「お前が渡るのを見て智恵ちゃん行きたいって言ってさ、一人じゃ危ないと思って」
その言葉は真実なのか。沈黙を破って稔はこう毒づく。
「智恵子が煩わしかったんだろ、お前『あんな辛気臭いスタンド嫌なの、猛くん、あたしと逃げて』とか言ってきたんだろ?
冗談じゃねぇよなぁ、お前のお荷物にするわけにはいくもんかよ、あんな女。」
兄とは思えない言葉だった。
「ふざけんな、事実を言えよ、事実を」
優しく善良なままの兄でいてほしい。無実であってほしい。だがそれは猛の兄に対する一方的な期待ではないか。それを見透かすように稔はこう言う。
「お前は人殺しの弟になるのが嫌なだけだよ」
その言葉に猛は激昂する。稔のこの言葉は監督の西川美和が夢で感じたことだ。
猛が証言を覆したのは、稔のこの言葉を否定したかったからではないだろうか。

証言台での猛の言葉―例え僕と兄の人生が惨めなものになったとしても―その言葉に猛の覚悟が表れている。
稔の微笑みには安堵の色も浮かんでいた。

『ゆれる』は弟への兄の復讐を描いた映画ではないかという考察も目にする。確かに稔と猛の人生はあまりに対称的だ。猛に対する嫉妬や羨望も確かにあった。
「裁判が落ち着いたら線香でも上げにいこう、酒でも持ってさ」
そう父に話しかける猛だが、父の勇からは智恵子がほとんど酒を飲めないことを聞かされる。
「あの子、結構飲めるだろ?」
稔は自分と智恵子の関係に気づいていただろう。猛は稔の言葉を思い出し、愕然とする。
だが、稔の行動の動機が復讐だとはあまりに安易だと思う。復習だとしてそれはいかなる形で果たされたと言えるのか?猛の生活はさほど変わらず、刑に服すことになったのは稔なのだ。昔の映像を見て真実に気づき、猛は罪悪感を抱く。だが、それは稔が意図したことではない。稔ならもっと巧妙に「罠」を仕掛けられるだろう。
個人的には『ゆれる』は再生の物語だと思う。家族というフィルターでぼやけていた互いの関係にもう一度焦点を合わせていく物語ではないか。それは兄とか弟ではなく一人の人間の心に踏み入っていくことだ。そこへ続く道は平坦な道もあれば棘道や獣道もあるだろう。その痛みを『ゆれる』は真っ直ぐに描いている。

事件の真相に関する考察

ここまで書いて、改めて事件の真実は映画的にはほとんど意味をなさないことがわかってもらえたかと思う。
とはいえ真実を考察する楽しみもこの作品は持ち得ているだろう。映画でははっきりとは描かれないが、小説にはそのヒントが書かれている。
智恵子が橋の上で稔を拒絶した時、その後、稔は再び智恵子の肩を掴んだ手に力を込めた。それは猛でも稔でもなく智恵子の視点で描かれる。
智恵子に対して憎しみが瞬間的に沸き上がったのは事実だろう。それでも最後は智恵子の手を掴み、助けようとした。それ以外のことはわからない。だが、この二つは揺るがない事実だと思う。

途切れた先

映画の内容に話を戻そう。稔の出所の日、猛は実家へ車を走らせる。愛車のムスタングは壊れかけていて中々エンジンもかからない。ようやくたどり着いた実家のガソリンスタンドでとうとうムスタングは息をあげ、洋平と軽トラックで稔を迎えに行く。刑務所につくと入れ違いで稔はすでに出所していた。
諦めて実家へ戻ろうとする猛だが、不意に人影を見つける。稔だった。
兄ちゃん!兄ちゃん!必死に呼び掛けるが、その声は稔には届かない。
「兄ちゃん!家に帰ろうよ!」その言葉はまるで幼い子供が兄を呼ぶ時のようだ。その叫びにバス停で立ち止まった兄は気づく。道路の向こう側に弟がいることを。
稔の顔に微かに笑みが浮かぶ。その表情を遮るようにバスが到着する。
そこで映画は途切れ、エンドロールを迎える。果たして稔はバスに乗ったのか。

監督の西川美和は何度もこの問いを質問されたという。その先は闇だとその度に答えていたと述べている。本当に観る人に結末は委ねられている。結末すら揺れている。映画にふさわしいこの上ない結末だと思う。
野暮を承知で少し私の思いを述べるなら、どちらの結末もありえると思っている。
7年の間に何が変わったのかだと思う。
もし、稔がそれに気づかなければバスに乗っただろう。もし、気づいたなら猛と一緒に家に戻ったかもしれない。
猛は子供のように兄に呼び掛けた。それは再び兄弟の絆が再構築される過程にも聞こえる。子供の頃まで戻ってもう一度やり直そうとする表れではないだろうか。

人間とは何か

西川美和監督は映画を通して「親しい人の本当の姿」を繰り返し描いている。皆、その人がいなくなるまで、その人のことを何も知らなかったという事実に気づかない。
2009年に公開された『ディア・ドクター』では、笑福亭鶴瓶演じる医者の伊野が失踪してから、その医者が何者なのかが明らかになる。2015年に公開された『永い言い訳』では、妻の死によって夫である主人公の衣笠は妻の本当の姿を知っていくことになる。
そこにあるのは「人間とは何か」という問いだと思う。『ゆれる』もその一片だ。私たちは移ろい続ける現実にゆれながら、それでも「人間」を再発見する物語に足を踏み入れているのだ。

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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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