『帰ってきたヒトラー』笑えないコメディの大問題作。歴史はなぜ繰り返すのか?

ドイツではナチズム礼賛はタブーとなっている。そのため、ヒトラーはどうしても「絶対悪」として描かれる必要がある。だが、そのような中でもヒトラーを悪魔的な存在ではなく、一人の人間として描き出そうとする試みも近年では増えてきたように思う。

2015年に公開された『帰ってきたヒトラー』はそんなヒトラーを描いた作品の中でも異色のブラック・コメディ映画だ。
原作は2012年に発刊されたティムール・ヴェルメシュの同名小説だ。日本でも24万部を売り上げるベストセラーになっている。
映画版の監督であるデヴィッド・ヴェンドによると、ヒトラーを演じるに当たってあまり有名ではない俳優がいいと思い、舞台で活躍していたオリヴァー・マスッチに白羽の矢がたったという。

1945年、総統地下壕で自殺を遂げたヒトラーは目覚めると2011年のベルリンにタイムスリップしていた。キオスクで働き始めるヒトラーだったが、たまたまそこを訪れたテレビ局スタッフの目に留まり、「ヒトラーのモノマネ芸人」として、テレビ出演することに。
2011年に再び一つにすることとナチズムの復興を目指すヒトラーの演説は評判になり、彼は芸人として国民の人気者になっていく。

現代社会とヒトラー

『帰ってきたヒトラー』は、もし、ヒトラーが今のドイツに舞い戻ったらどうなるのか?という「もしも」をテーマにした作品だが、映画版では実際にそれを試みているのが興味深い。
劇中でヒトラーが街へ出て市民たちと交流するシーンがある。実はこのシーンは台本もないゲリラ撮影。市民も実際にそこで暮らしている一般人だ。
監督は万が一に備えてヒトラーを演じた、オリヴァー・マスッチの周りにボディーガードを配置していたらしいが、マスッチが襲われることはなく、逆にスターのように扱われたという。
「ヒトラー万歳!」「収容所を作るなら手伝うよ」口々にヒトラーへの期待を口にする。

『帰ってきたヒトラー』のレビューを見ると、ヒトラーの再登場をも許容する空気が出来上がっていることに警告を発した、優れた風刺作品だというものが多い。
本編ではカットされているが、マスッチ演じるヒトラーの「強制収容所をまた作るか?」との問いに「いいね!」とさえ答えた市民もいたそうだ。
マスッチはヒトラーを演じるに当たって、普段のヒトラーの声を意識したという。マスッチはヒトラーの普段の声は「深くソフトな声」だったと述べている。撮影で市民に話しかけるときも、マスッチはヒトラーの穏やかな声を意識したそうだ。

ヒトラーを連想する時に激しい演説のシーンを思い浮かべる人も少なくないだろう。 だが、その一方でヒトラーは女性や子供に対しては親切だったという。
同じくヒトラーを描いた映画『ヒトラー~最後の12日間~』では冒頭、彼の最後の秘書であるトラウデル・ユンゲが戦争当時を振り返って「恐ろしい怪物の正体に気づけなかった」と語っている。
ヴェルメシュがヒトラーを悪魔としてではなく、一人の人間として描こうとした理由がよくわかる。
一人の人間だったからこそ、ヒトラーは多くの人の支持を得ることができたのではないだろうか。
監督のデヴィッド・ヴェンドもこう述べている。「そもそもユダヤ人の迫害を可能にしたのはドイツ国民だ。進んでヒトラーに投票する民衆がいなければ、彼が政権を握ることはなかったはず。」

現在ではドイツがヒトラーへ向ける眼差しもいくぶん変わってきている。
2016年にはこれまで発禁だった『我が闘争』が注釈つきで発刊されるようになった。2016年1月1日以降、 『我が闘争』はパブリックドメインとなることから、2012年から復刊の計画が持ち上がっていたが、ホロコースト生存者からの反対を受け、2013年にバイエルン州政府は『我が闘争』の出版を取りやめていた。
また、ドイツではナチスの台頭の反省を踏まえて5%以下の得票率の政党には議席を与えないというルールがあったが、2017年には移民排斥を訴える「ドイツのための選択肢(AfD)」が5%の得票率を得て第三党に躍進したことも話題になった。
ただ、協調よりも分断してでも我が身を守る。これはドイツだけではなく、世界的にも見られることではないか?

分断してゆく世界

『帰ってきたヒトラー』の公開は2015年6月だが、その約一年後の 2017年1月にはアメリカでトランプ政権が発足する。ドナルド・トランプもまた国際協調よりも自国の発展を優先し、その発言はしばしば人種差別的であると批判された。
また2016年6月にはイギリスのEUからの離脱が決定した。2019年にはEU離脱派だったボリス・ジョンソンが首相に就任する。国民投票で52%がEU離脱を支持したことを受けて2020年1月にイギリスはEUを脱退した。EUからの離脱を主張していたイギリス独立党2014年5月の欧州議会議員選挙では労働党・保守党を抑え第1党になったこともその機運の高まりを証明していただろう。
EUからの離脱の理由としては欧州移民のイギリスへの大量の流入が一因にある。EUの域内での移動であれば自由移動が認められているが、その結果2004年~2015年までの11年間で欧州移民の数は100万人から300万人へと3倍に増えイギリスの社会保障の負担は増大することとなった。
果たしてこのEUからの離脱が果たして正しい選択だったのかどうかはまだ誰にもわからないだろう。

ただ、個人的には分断の空気を憂慮するよりももう少し掘り下げて考えてみたいことがある。
「歴史は繰り返す」というが、それはなぜだろうか?

なぜ歴史は繰り返すのか?

オリヴァー・マスッチは『帰ってきたヒトラー』での撮影について、「僕が役者だということを完全に忘れている人たちもいた。真剣に話しかけてきた彼らの会話から、彼らがいかに騙されやすいか、いかに歴史から学んでいないかがわかった。」と述べている。
ヒトラーは独裁者であり、ホロコーストを画策した戦争犯罪人でもある。
『帰ってきたヒトラー』で彼を称賛した市井の人々は、かつてナチズムを支持したドイツ国民を思い出させる。ナチスには独裁的なイメージが付きまとうが、政権を掌握するまでの過程は概ね民主主義に則ったものだ。ドイツ国民が支持しなければ、ナチスドイツは誕生しなかったのだ。
ナチスドイツは周辺国家を軍事的に侵略・併合していったのは事実だが、中にはドイツによる併合を歓迎した国家もあった。ヒトラーの出身国でもあるオーストリアは1938年にナチスドイツに併合されたが、オーストリアの国民もそれを喜んで受け入れ、ヒトラーがオーストリアを訪問したときは彼を熱狂的に迎え入れた。

戦争ということでいうならば、日本が太平洋戦争に向かっていったのも、日本国民が戦争を支持したからだ。
歴史を後世から見たときにその是非を問うのは簡単だろう。だが、今まさに起きていることが良いのか悪いのかを判断するのは難しい。今の行動が未来にどういう結果を招くからは誰にもわからないからだ。

歴史はなぜ繰り返すのか、「歴史から学ばないから」というのは確かに一理あるかもしれないが、そんなに簡単に学べてしまうほど歴史も単純ではないだろう。個人的には「歴史は全く同じではないから」とも思う。
「歴史は繰り返す」とは古代ローマの歴史家クルティウス・ルフスの言葉だが、後年19世紀の作家、マーク・トウェインはこう述べている。「歴史は繰り返さない。韻を踏む。」と。
マーク・トウェインの言葉には頷ける部分がある。物事の一部分に着目すれば確かに歴史は繰り返すといえるだろうが、全体を見たときにはそうは言えないだろう。
当時と私たちを取り巻く環境は全く同じではない。だから歴史が繰り返すというのは厳密にはそう見えるだけで実際はそうではない。例えばテクノロジーは常に進化しており、100年前に戻ることはない。

もし、手元に世界史の教科書がある人は見てほしいが、歴史の中では幾度となく戦争や争いが繰り返されている。 その原因や背景は時代とともに変わっていく。ただ、どれだけ時代を経ても変わらないものもある。
その最たるものが私たちの感情ではないだろうか。喜びも楽しさも古代の人も今と同じように感じていただろうし、妬みや悲しみ、憎しみといった感情も今の私たちと変わらずに感じていただろう。
2000年も前にキリストや仏陀は煩悩からの解脱を説いた。キリスト教で示される七つの大罪とは「傲慢・強欲・嫉妬・憤怒・淫蕩・貪食・怠惰」を指す。これらはいずれも人間を罪に導くものとされている。
だがその宗教ですら幾度となく、戦争のきっかけになってきたのは言うまでもない。

1941年に公開されたフランク・キャプラ監督の映画『群衆』で描かれる人間の愚かさは今と全く変わっていない。この映画の中ではメディアによっていかに人間が扇動されやすいかが描かれている。
キャプラは当時アメリカに台頭してきていたファシズムへの警報として『群衆』を撮ったというが、『帰ってきたヒトラー』に映し出されるのはヒトラーへの熱狂そのものだ。

星のせいじゃない

シェイクスピアの戯曲『ジュリアス・シーザー』の中に「過ちは星のせいじゃない、我々の責任だ」というセリフがある。シーザーの独裁的政治を止めるには彼を暗殺せねば。そう考えたカシアスは「過ちは星のせいじゃない、我々の責任だ」と言ってブルータスにシーザーの暗殺を持ち掛ける。ここでいう星とは運命のことだ。シーザーの独裁を招いたのは運命ではない。他ならぬ自分達の行動が生んだ責任だ。
シーザーが台頭した時代はローマの内乱の時でもあり、不安定な国家の中で独裁も辞さない強いリーダーシップが求められたのも事実だ。元老院から独裁官に任命されたシーザーはローマを共和制から君主制に変えていき、独裁体制を強化してゆく。
これはヒトラーが国民に支持され、ヒンデンブルク大統領から首相に指名された後、独裁政治を始めたのと同じではないか。

ちなみに俳優のジョージ・クルーニーは同じセリフを自身の監督作である『グッドナイト&グッドラック』でも使っている。
同作は戦後アメリカでは巻き起こった赤狩りに抵抗したCBSの人気キャスター、エドワード・R・マローを取り上げた作品だ。
赤狩りとは、1948年頃より1950年代前半にかけて共和党右派のジョセフ・マッカーシーが中心となって推し進めた行われた、アメリカ国内の公職から共産党員、およびそのシンパを排除しようとする動きのことだ。マッカーシーの名前から「マッカーシズム」とも呼ばれる。少しでも共産主義と関わったとみられる者は職を追放される。その極端なヒステリックさに辟易する国民も少なくなかったが、表立って声を上げることには相当のリスクも孕んでいた。
共産主義との戦いを盾にして正当な根拠なく人々を追い詰めていくマッカーシーの横暴さに対してマーロウはこう言う。
「これはマッカーシー議員一人の責任でしょうか?彼は恐怖を生んだのではなく利用しているに過ぎない。カシアスの言う通り、悪いのは運命の星ではなく我々自身なのです。
グッドナイトそしてグッドラック。」
赤狩りは現代版の魔女狩りとも呼ばれた。隣人への疑いと差別の感情は現代でも悲劇を生んでいる。例え魔女狩りそのものはもう起きないとしても。

オリヴァー・マスッチは「国民が選んでいなければこうはならなかったはず。ヒトラーが怪物であるなら、選んでしまった国民も怪物だ」と語っている。

『帰ってきたヒトラー』はコメディの衣の中に毒を隠している。それは誰の心にもある人間の弱さ・愚かさを抉り出すナイフだ。

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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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