※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています
1997年に発表されたエアロスミスの楽曲に『Pink』という曲がある。
「ピンクは俺の気持ちを凧のようにアゲてくれるそれで俺はすべて大丈夫になるって気がしてくるんだ」
和訳すればこんな感じの歌だ。『Pink』は私が小学生だったころから好きな曲だが、まさか現代に同じような思いを歌う人物が現れるとは思っていなかった。
でもこの作品ならば納得できる。『バービー』だ。
『バービー』
『バービー』は2023年に公開されたグレタ・ガーウィグ監督、マーゴット・ロビー主演のコメディ映画。
マーゴット・ロビー演じるバービーたちの住む「バービーランド」はあらゆるものが(建造物はもちろん砂浜に至るまで)ピンクで彩られている。ピンクはバービーにとって自分たちを盛り上げる色であり、可能性の象徴でもある色なのだ。
『バーベンハイマー』
『バービー』は公開直前にして映画の内容とは全く関係のない部分で大炎上した。『バーベンハイマー』という言葉を聞いたことはあるだろう。元々はアメリカで『バービー』と同時に公開された『オッペンハイマー』の二作を総称するための呼び名だ。『バービー』と『オッペンハイマー』という全く方向性もジャンルも異なる作品が共に大ヒットを記録するという異例の現象が起きた。そこで、この二作を総称して『バーベンハイマー』という名前がついたのだ。
だが、『バーベンハイマー』はバービーと原爆画像のコラージュを指す言葉に変容していく。さらに、『バービー』の公式SNSアカウントまでもが『バーベンハイマー』の画像に肯定的なコメントを寄せたものだから、日本国内では『バービー』へ批判が殺到、「『バービー』を上映中止に」という声も上がった(個人的な『バーベンハイマー』への思いはこちらの「『バーベンハイマー』に見る日米の原爆観の違い」を参照してほしい)。
だが、個人的にはこの炎上騒ぎで『バービー』を観たくなった。『バービー』が原爆を描いているはずはない。上映中止まではしなくていい。
『バービー』はなぜここまでヒットしたのか
それよりも『バービー』の中身が気になる。なぜここまでヒットしたのか。
日本での予告編はいかにも頭の軽そうなバービーがピンクに囲まれた町で挨拶を交わすシーンが主で、サクッと軽い気持ちで観れるエンターテインメント作品なのかと思っていた。
だが、それだけではここまでのヒットにはなるまい。そんな時に監督が『レディ・バード』のグレタ・ガーウィグであることを知った。
グレタ・ガーウィグならただのエンターテインメントになるはずがない。ガーウィグは『レディ・バード』で思春期の人が女の子の心情と成長を丁寧かつ鮮やかに瑞々しく描いてみせた。
ガーウィグがバービー人形というテーマをどう扱っているのか、どうしても観てみたいと思ったのだ。
ちなみにマーゴット・ロビーは『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY』『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』『バビロン』など、どちらかというと頭の軽そうな役を演じることが多いが、それでも嫌みに見えないのは同時に無邪気さも感じさせる才能があるからだと思う。
『2001年宇宙の旅』
『バービー』は一言で言うとフェミニズムについての映画だ。とはいえ、随所にパロディや言及が散りばめられていて楽しい。特に映画冒頭では『2001年宇宙の旅』のパロディになっている。それはモノリスの代わりにバービーが登場するもので、バービーが当時の女の子の人形遊びの中でいかに革新的なアイテムだったかということを表している。
さて、そんなバービー人形は様々なバリエーションが発売され、またバービーの恋人役としてケンも多くの種類が発売されている。「バービーランド」はそんな多くのバービーや多くのケンらが暮らす町だ。ケンがバービーあってこそのキャラクターであるように、バービーランドはバービーを中心に生活が回っている。
そんなある日、バービーは頭から死が離れなくなる。足は変形し、気分は晴れない。
バービーランドの外れに住む「変てこバービー」から、その原因が人間界でのバービーの持ち主の抱える問題に影響されたのかもしれないと教えられたバービーは持ち主の悩みを解決するべく、ケンとともに人間界へ向かう。
この場面では『マトリックス』のオマージュが見られる。この他にも『バービー』では『シャイニング』やザック・スナイダー版『ジャスティス・リーグ』、『ゴッドファーザー』への言及も見られる。
ちなみにこの変てこバービーは『マトリックス』で言うなら赤と青、どちらの薬を飲むか迫るモーフィアスの役割だ。
監督のグレタ・ガーウィグにとってもこの変てこバービーは思い入れのあるキャラクターだという。
ガーウィグは、自身の母親についてフェミニストで、バービー人形には否定的だったと述べている。ガーウィグ自身も幼い頃人形遊びをしていたが、母親はガーウィグにバービー人形を買い与えなかったため、ガーウィグが手にしたバービーは近所の女の子のお下がりだったという。そんなバービーは髪を切られていたり、乱雑に扱われてきたバービー人形だったようで、そんなバービーとの思い出が変てこバービーには詰め込まれている。
バービー人形がフェミニズムを50年後退させた
こうして人間界へたどり着いたバービーとケンだが、そこに待ち受けていたのはバービーランドとは真逆な男性優位の社会だった。
バービーランドでは普通のファッションも、人間の世界では浮きまくってしまう。バービーには世間の好奇の目と男性からの性的な視線が注がれる。
ここでバービーは「恥ずかしい」という感情を覚える。まるで創世記において楽園を追放されたアダムとイブにケンとバービーは重ねられる(ガーウィグも『バービー』に神学的なモチーフを忍ばせていることを肯定している)。
さらに持ち主と思われる少女のサーシャからはバービー人形がフェミニズムを50年後退させたファシストとまで非難されてしまう始末だ。サーシャのキャラクターにガーウィグの母親が投影されているのだろう。
確かにサーシャの言うことも一理ある。バービーの浮世離れしたスタイルは確かに少女たちに絶対的な美の基準を押し付けた一面はあるだろう。その後、様々なバリエーションに富んだバービーが発売されたものの、1992年に発売されたティーン・トーク・バービーは「数学の授業って大変」という台詞が女性は数学が苦手というイメージを助長するとして批判された。
バービーは人間界はバービーランドと同じく、バービーのおかげで女性は自由に輝いていると思っていただけにサーシャの言葉にショックを受ける。だが、バービーに本当に影響を与えていたのはサーシャではなく、サーシャの母親のグロリアだった。彼女もまた悩みを抱えており、「死を考えるバービー」などのバリエーションを考案していたのだった。
一方、ケンは人間界の男性的な価値観に感化され、バービーランドを男性中心のケンダムに再建しようとしていた。ガーウィグはバービーランドをケンの視点から見ると、ケンにとっては悲劇でしかないと言う。ケンを演じたライアン・ゴズリングは、当初はケン役のオファーを断っていたというが、自身の娘がバービーを大切にする一方でケンの人形は庭に置き去りにされているなどの不遇ぶりを聞かされ、ケンを演じることを決めたと述べている。
ケンダムのバービーたちも、ウエイターやアシスタントなどの職に転じて男性を支える立場へと生き方を変更していた。
バービーランドへ戻ってきたバービーとサーシャ、グロリアはバービー達にかけられたケンからの洗脳を解き、ケンダムをバービーランドに戻す。だが、そこは元のバービーランドではない。多くのケンもバービーのおまけでなく、一人の存在として扱われるようになった。
本当のフェミニズム
マーゴット・ロビーが主演を務めた『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY』は今思うとフェミニズム映画だった。男は敵か役立たずしかおらず、女性が男性を叩きのめす映画だった。それもまた時代の空気を汲んだ作品であったことは確かだろう。
『バービー』はそうではない。女性が素晴らしい、男性が素晴らしいという映画ではないからだ。
一人一人を認めようという、ベタだが大切なメッセージが込められている。そういった意味では女尊男卑的な意味でのフェミニズムではなく、本来の意味でのフェミニズム映画と呼べるだろう。やはり、グレタ・ガーウィグの作品がエンターテインメントのみに留まることはなかった。
なぜバービーは性器がないことを繰り返すのか
そして、バービーは一つの決断をする。それは人間界へ行き、人間として暮らすこと。
バービーの産みの親であるルース・ハンドラーと話したバービーは、人間として暮らしたいと伝える。ルースは「親の許可はいらない」と言う。
『リトル・マーメイド』では王子様のキスか国王の魔法でしか、アリエルは人間になれなかった。だが、自分らしい生き方を選ぶことに誰かの許しが必要なのだろうか?
『バービー』の劇中で何度か性器について触れられる。バービーもケンも人形であるために性器を持たない。彼は生命を産み出すことができない。だから死ぬこともない。始まりがないから、終わりもない。だが、人間になったバービーはそうではない。
『バービー』はバービーが人間として(彼女は「バーバラ・ハンドラー」という名前を名乗っている)、婦人科を受診するシーンで終わる。
ガーウィグは「バービーが大統領やCEOになるという結末は避けたかった。普通であることが素敵だと思った」と語っている。
バービーランドがケンにとってユートピアでなかったように、誰にとってもユートピアは存在しない。また誰も完璧ではない。誰も傷つき、時に病んだりもする。老いもするし、体型も変わっていく。セルライトもできるだろう。
バービーのような完璧さは誰も持っていない。だが、それこそが本当に素晴らしいことではないか。完璧ではない自分を愛し、ともに認め合う。バービーが生きると決めた私たちの世界をもっと素敵にするのはピンクではない。様々な色をもった私たち自身なのだ。