※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています
『容疑者xの献身』の原作小説を手掛けた東野圭吾は『容疑者xの献身』を書いたきっかけとして、自分なりの『シラノ・ド・ベルジュラック』を書いてみたかったとインタビューで明かしている。
『シラノ・ド・ベルジュラック』
『シラノ・ド・ベルジュラック』はエドモン・ロスタンが書いた戯曲で1897年に初めて上演された。
多才で剣はもちろん詩作や哲学に至るまでも多くの才能を持ち合わせてはいるものの、自分が醜男であるというコンプレックスを抱えたシラノ。彼は幼馴染みのロクサーヌに想いを寄せていたが、そのコンプレックスゆえに告白できずにいた。
そんな中シラノはロクサーヌからある相談を受ける。それはなんとロクサーヌの恋の成就に力を貸してほしいとのことだった。彼女が彼が想いを寄せるのは美青年の兵士であるクリスチャン。クリスチャンもロクサーヌへ向ける想いは同じだったが、その心を言葉にして打ち明けるための表現力がなかった。シラノはロクサーヌの幸せを想い、クリスチャンの恋文の代筆を行うようになる。
『シラノ』
この『シラノ・ド・ベルジュラック』は現在までに幾度となく舞台上演され、何度も実写映画となった作品だ。
今回紹介する『シラノ』はそんな作品たちの中でも2018年に舞台ミュージカルとして上演されたものが原作になっている。
監督はジョー・ライト、主演はピーター・ディンクレイジが務めている。シラノを演じたピーター・ディンクレイジとロクサーヌを演じたへイリー・べネットは舞台版からの続投になる。ちなみに舞台版の監督を務め、今作で脚本を担ったエリカ・シュミットとピーター・ディンクレイジは実の夫婦であり、監督のジョー・ライトとへイリー・べネットの間には子供もいる。
今回『シラノ』の映画化のきっかけはへイリー・べネットがパートナーのジョー・ライトを『シラノ』の舞台を観に来るように誘ったのがきっかけだった。ジョー・ライトは10代の頃から『シラノ・ド・ベルジュラック』のファンだった。
ジョー・ライトはアウトサイダーとしてのシラノに惹かれたと言う。彼は初回の公演を観劇し、この戯曲の映画化についてエリカ・シュミットと話したくて、へイリー・べネットに事前に許可をもらったという逸話もある。
『シラノ・ド・ベルジュラック』と『シラノ』
『シラノ・ド・ベルジュラック』はシラノは鼻が大きく、そのことをコンプレックスに感じているキャラクターという設定だ。しかし、舞台版のシラノは小人であり、そのことでコンプレックスを抱えている(ピーター・ディンクレイジも小人症である)。
シラノのキャラクターから大きな鼻を無くすというアイデアはディンクレイジがキャスティングされる以前に、最初のアイデアとしてエリカ・シュミットが考えたものだ。ディンクレイジはそれについて「舞台を降りればつけ鼻を外して日常生活を送れると思うと俳優としても人間としても多くの疑問が生まれた」と語っている。
映画の中でシラノは「私は怪物 バケモノ 突然変異体 おぞましい呼び名が山ほど。その数たるや想像を超えるほど ひどい言葉で何度も呼ばれた」と歌うが、これは演じるディンクレイジ自身の実体験でもあるのだろう。
シラノの大きな鼻が無くなったように、『シラノ』のストーリーは概ね原作に沿っているが、設定やキャラクターにおいて所々で現代的な変更が加えられている。
ひとつはロクサーヌのキャラクターだ。2019年に公開された実写版『アラジン』のように、昔から親しまれた物語でも今の時代に再構築するにあたって女性キャラクターには自立性を強調したものが少なくない。『シラノ』のロクサーヌも同様で、社会のなかで自分の意思で人生を切り拓いていく意志と行動力がある。
もうひとつはロクサーヌの想い人であるクリスチャンが黒人であるということだ。おそらく昨今のポリコレ事情もあるのだろうが、シラノ・ド・ベルジュラックの生きた世紀は17世紀。当時のフランスではまだ奴隷制が敷かれていたはずだ。フランスで奴隷制がなくなるのは1789年のフランス革命を待たねばならない。
本来であればクリスチャンもまたシラノと同じように外見的にはマイノリティであり、被差別側の人間であるが、『シラノ』には一切そうした描写は出てこないのにはいささか疑問を感じざるを得ない。
『シラノ』には力強いストーリーがある。何世紀も人々に愛されてきた物語だ。だからこそ、マイノリティの人間を描くのであれば、当時の歴史的な背景も同時に盛り込むべきだと思う。
ちなみにクリスチャンのモデルとされているのはヌーヴィレット伯爵のクリストフ・ド・シャンパーニュという人物だ。
シラノもクリスチャンも青年隊という地方貴族の次男からなる親衛隊に所属している。18世紀になるとフランス革命もあり黒人貴族も少数ながら存在したが、『シラノ』の舞台である17世紀には黒人貴族はほとんど存在し得なかっただろう。
とはいえ、全体的には『シラノ』は秀作だと感じる。
芸術の価値とその受容
中でも詩に関しては個人的に興味深いところだ。中世のヨーロッパでは詩がとしてされていた。『シラノ』より100年ほど前の時代を描いた『恋に落ちたシェイクスピア』でも、ヴァイオラに恋した若き日のシェイクスピアが彼女に詩でもって語りかける場面がある。そしてヴァイオラはその言葉にたまらずシェイクスピアと口づけを交わす。
『シラノ』もロクサーヌがクリスチャンの口下手に幻滅しかけ、シラノの詩に心惹かれるという場面がある(ロクサーヌはそれもクリスチャン作の詩だと信じているわけだが)。
日本にも詩の文化は古くから存在していた。『万葉集』や『古今和歌集』がそれを証明している。
今でも海外の映画では時折の詩の引用を見かけることがある。
1965年のフランス映画『気狂いピエロ』ではラストシーンにアルチュール・ランボーの詩が挿入されている。1996年の『インデベンデンス・デイ』では大統領がパイロットを鼓舞するシーンでディラン・トマスの詩(『Do Not Go Gentle Into That Good Night』)を引用する。この詩はクリストファー・ノーラン監督の『インター・ステラー』でも使用されていた。
だが、日本ではほとんど見かけることはない。コロナ渦でエンターテイメントが真っ先に不要品扱いされたことや、2022年3月に鳥取県の美術館が公費でアンディ・ウォーホルの作品を購入したことに批判の声が上がるなどの例を思うと、芸術へ向ける価値が日本では著しく下がってしまったのだろうと感じる。
呪われた詩人
ちなみにシラノ・ド・ベルジュラックは実在の人物だ。
シラノ・ド・ベルジュラックは1619年にフランスのパリで生まれる。エドモン・ロスタンによって書かれた戯曲の通りに剣や詩作はもちろん、哲学や物理などに至るまで多くの才能があった。
ただ、戯曲で描かれるシラノが天狗のような大きな鼻で描かれているのに対して、史実のシラノは大きな鼻ではあったものの、いわゆる「鷲鼻」と言われるタイプの鼻だったという。それはそこまでコンプレックスに感じるものなのだろうか?
実はこのシラノの「鼻」は性器のメタファーであるとも言われている。史実のシラノは同性愛者だったからだ。
それゆえに自分のセクシャリティをひた隠しにし、だからこそ詩人としての才能を開花させることもできたのだろう。
クリスチャンの魂
『シラノ』で描かれるフランスは三十年戦争の時代でもある。青年隊の隊員であるシラノ、クリスチャンの両名へも戦地への召集命令がかかる。
シラノはクリスチャンに内緒で毎日ロクサーヌへの手紙を出し続けていた。ロクサーヌは既にハンサムなクリスチャンの外見ではなく、内面こそを愛するようになっていた。
「例えあなたの姿が変わってしまってもあなたの魂を愛している」
その言葉にクリスチャンは絶望する。そして同時にシラノもまたロクサーヌに強い想いを寄せる一人であったことにはっきりと気づく。
青年隊には突撃命令が出され、誰もが死を覚悟していた。シラノがしたためた手紙にはシラノ自身の涙の跡があったからだ。
「僕は愛されていない。僕の魂は君だ。」
「彼女に想いを打ち明けろ。彼女は君を選ぶはずだ」
シラノはそんなことはないと否定するが、クリスチャンはシラノの制止も聞かずに敵陣の中へ一人突撃し、戦死する。
原作ではロクサーヌは戦地を慰問し、直接クリスチャンに言葉を伝えるが、映画では手紙を通してに変更されている。クリスチャンのモデルであるクリフトフ・ド・シャンパーニュもやはりこの三十年戦争のアラム包囲戦にて戦死している。
手紙の真実
3年後(原作では15年後)、シラノは生還したものの、戦争で負った傷が原因で青年隊を辞め、貧しい生活を送っていた。未亡人となったロクサーヌは修道女となり、シラノは彼女のもとへ毎週土曜にその集の出来事を報告しに通っていた。
だが、ある日ロクサーヌの元へ向かうシラノの頭に木材が落ちてくる。シラノを憎む誰かの仕業なのか、事故なのかはっきりしないが、シラノは倒れ込み、瀕死の状態になる。それでも遅れながらもロクサーヌの元へたどり着く。
その日、シラノはロクサーヌにクリスチャンからの最後の手紙を見せてほしいと頼む。初めて見る手紙のはずなのにシラノは手紙から目を離してもその内容を声に出し続けていた。ロクサーヌは手紙の本当の主がシラノであることに気づく。いままでクリスチャンが文字にし、口にしてきた愛の言葉は全てシラノの言葉だったことに気づいたのだ。だが、それでもシラノは頑なにロクサーヌへの自身の愛を認めようとしない。そしてとうとうシラノに死が近寄ってくる。
死の間際、ようやくロクサーヌとシラノは口づけを交わす。
「愛している。私が愛した人はシラノ!」
そう言うロクサーヌだが、それでもシラノは「僕が愛したものは誇りだ」そう言って果てる。
ここはエドモン・ロスタンの創作で、史実のシラノ・ド・ベルジュラックとシラノの最期は異なる。
シラノ・ド・ベルジュラックの最期
2005年に公開された『リバティーン』という映画がある。こちらは同時代のイギリスを舞台に放浪詩人として生きた第2代ロチェスター伯爵、ジョン・ウィルモットの人生を描いている。奔放に生きたウィルモットは最後は梅毒にかかって命を落とす。梅毒によって鼻が欠け、つけ鼻をつけたウィルモットをジョニー・デップが演じている。
リバティーンの舞台はイギリスだが、シラノ・ド・ベルジュラックの生きた時代と同時代だ。
梅毒は15世紀の終わりにコロンブスからヨーロッパに持ち込まれたとされている。その後17世紀になると日本にも梅毒患者が現れるなど、世界中で流行した性感染症だった。
『シラノ・ド・ベルジュラック』ではシラノは頭に落ちてきた木材による傷が原因で亡くなるが、史実のシラノ・ド・ベルジュラックは木材による傷ではなく、梅毒によって命を落とす。
自身もその破滅的な人生で知られるポール・ヴェルレーヌは評論集『呪われた詩人たち』の中でシラノをその一人として紹介している。
シラノの人生
『シラノ・ド・ベルジュラック』が今の時代に『シラノ』として再び製作されたのは何故だろうか。監督や俳優たちがインタビューにおいて口々に発言していたのはSNSが全盛の今において、ありのままの自分を伝える大切さだ。へイリー・べネットは冗談めかして、「ロクサーヌは『なりすまし』の被害者かも」と共演者と話していたそうだ。
ピーター・ディンクレイジは「少なくともシラノを真似すべきではないね」とインタビューで述べている。シラノが隠さずに勇気をもって想いを伝えていれば、愛が芽生えただろうとピーターは語る。
だが、シラノの生き方も一つの格好よさがある。シラノの生き方をどう捉えるかはその国によって微妙に異なるのかもしれない。冒頭でも述べたように、『シラノ・ド・ベルジュラック』に影響を受けた『容疑者xの献身』では主人公は愛する人に「私のことは忘れて幸せになってほしい」と願い続ける。確かに哀しい人生だが、ある意味では純粋な想いに満ちた人生だとも思う。そして、それは一つの価値ある美しい生き方と呼べるのではないか。
『シラノ・ド・ベルジュラック』は常に形を変えながら作品に触れた人達に問い続けている。