
突然ですが、皆さんは部屋着でどこまで外出できますか?
コンビニ?スーパー?ファミレス?まさか地球上どこでも部屋着で行けるよ!って人はいないだろう。
なぜこのような質問をしたのかと言うと、ネットの世界では、現実とは異なり、どこまでも部屋着で行動する人も少なくないからだ。
本音と建前という言葉があるが、誰かに見られていることを意識した言動が建前、いわゆる「よそ行きの服」だとしたら、誰にも見られることのない本音は「部屋着」と呼べるのではないか。
良いか悪いかはまた別として、公共の場であるはずのSNSには綺麗事ではない本音が溢れている事は事実だろう。
今回はこのことを前提に『果てしなきスカーレット』がなぜここまで酷評されているのかを考えてみたい。
『果てしなきスカーレット』は2025年に公開された細田守監督のアニメ映画だ。声の出演は、芦田愛菜、岡田将生らが務めている。
映像は感心を超えて、感動するほどに美しい。私自身、アニメの映像にここまで心を掴まれたことは今までなかった。また、芦田愛菜の演技も賛否両論あるようだが、私にはその不安定さがかえってスカーレットのキャラクターを引き立てているようで好印象でもあった。
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『果てしなきスカーレット』はなぜ酷評されたのか?
だが肝心の物語に目を向けると、やや粗さや甘さの目立つストーリーであることも否めない。
ジャンルとしてはファンタジーだが、ストーリーは王道の復讐ものだ。細田守監督はシェイクスピアの『ハムレット』をモチーフにしたと述べている。
ただ、『果てしなきスカーレット』の作品解説でも述べたのだが、『ハムレット』なのは序盤までで、物語は細田守のオリジナルなものへと進んでいく。
そのメッセージとは、「復讐の否定」であり、相手を許すことの大切さだ。
しかし、そのメッセージは多くの人々には白々しく映ったのかもしれない。確かに憎しみの連鎖を断ち切ることは美しい。だが、自身がもし愛する者を理不尽にも奪われたら、と考えてしまう。
本音で言えば、そうなったときに相手を許すことは何の意味があるのかと思う。復讐は何も残らないと言う人がいる。それは確かにそうかもしれない。だが許したところで何が得られるのか?そういう思いに立てば、わずか一瞬でも充足感を味わえる復讐の方がマシではないか?
復讐という「エンターテインメント」
そもそもである。「復讐の否定」、「相手を許す」と言いながら、私たちの周りは復讐をテーマにしたエンターテインメントで溢れている。このサイトでも 『REVENGE リベンジ』『レヴェナント』『Vフォー・ヴェンデッタ』『武士の一分』を紹介している。エンターテインメントとしてそれらを楽しみながら、かたや「復讐の否定」は矛盾してはいないか?暴力を否定しながら、あらゆる作品で暴力が映画の一番の「見せ場」になっているのはなぜか?
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SNSには、日夜「本音」が大量に吐き出されている。その中には炎上するようなものも少なくない。多くの人がそうしたSNSに「日常」の一部として接している。
そう思うと『果てしなきスカーレット』で描かれる「復讐の否定」は、余計に現実離れした「いい子ちゃん」のメッセージだと受け止められたのではないかと思う。
こうした細田守監督の現実離れしたメッセージや行動は『果てしなきスカーレット』に始まったことではない。
『竜とそばかすの姫』では、主人公の鈴が、単身虐待が行われているであろう恵とトモの家へ向かう。
常識的に考えて、虐待が行なわれている家に女子高生一人を向かわせるというのは危険過ぎる。
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細田守作品については、細田守自身が脚本を務めるようになってストーリーに矛盾が多くなり、質が下がったと言われている。
黒澤明の脚本を数多く務めた橋本忍は、著書『複眼の思考』の中でこう述べている。
「登場人物の主観のみにより書かれた脚本、客観性が一切欠落した脚本、それは第三者には傲岸不遜で、ひどく押しつけがましいものでもある」
また、橋本忍は黒澤映画について、黒澤明が共同脚本の体制を取らなくなり『乱』『影武者』はつまらなくなったと評している。
「共同脚本は傑作や名作は難しいが、駄作や失敗作がないのが特徴である。複数の人間の複眼の目があるだけに見落としの穴がないのだ。これまでの黒澤組の脚本にも出来不出来はあったが、明らかな駄作や失敗作は一本もない」
やはり、細田守もプロの脚本家を使うか、共同脚本体制にすべきではなかったか。『果てしなきスカーレット』もそうだが、初見で観客からツッコまれてしまう脚本では、物語に観客を引き込むことは難しいのではないか。なぜ過去と未来が交差する世界なのに、未来人も今の技術の武器も出てこないのか?なぜ現代人が聖だけなのか?
戦う理由
さて、復讐へと話を戻そう。細田守監督は『果てしなきスカーレット』の着想のきっかけとして、ウクライナ戦争やイスラエルの紛争などのニュースから得たという。確かにそれらは悲劇であり、憎しみの歴史は続いていくだろう。
そんな未来よりも、互いに手をつないで笑いあえる未来の方が素晴らしいのは言うまでもない。
70年以上も平和憲法に縛られた平和ボケの国に言われずとも、皆それは分かっている。
例えばこれを国家の話として考えてみよう。今このタイミングでウクライナが「憎しみをここで終わらせる、もう戦わない」と宣言したとしよう。その瞬間、ロシアはウクライナのすべてを奪うだろう。土地も財産も、文化も人間も。だから戦うのだ。
ウクライナ戦争が勃発した当時、「できるだけ早く降伏したほうがいい」と述べたワイドショーのコメンテーターがいたが、「降伏」の意味を本当にわかっているのか、甚だ疑問だ。
復讐を諦めることで、失うものがある
対立する国家間で和平合意が破られたという話も珍しくない。復讐を諦めることで、なにか失うものがあることの好例だろう。
そして、『果てしなきスカーレット』の過ちの一つが、スカーレットの行動を作品のメッセージとして描いたことだ。
確かに、個人の物語であれば、被害者側が加害者を許したという物語は美談になる。実際、そうした実話が美談として取り上げられることもある。
なぜ『果てしなきスカーレット』と同じ物語なのに、美談になるのか。それは、その物語はあくまでたくさんの事例の一つであって、絶対的な正義ではないからだ。中にはなぜそんな生ぬるいことができるのか?と思う人もいるだろう。
だが、『果てしなきスカーレット』は復讐の否定がメッセージになっている。観客にとっては「どんな相手も許すべきだ」と押し付けられたようにも感じるだろう。