ジブリ飯
ジブリ飯という言葉がある。ジブリ映画(正確には宮崎駿監督作品)に登場する、印象的な食べ物のことだ。
例えば以下のようなものが挙げられる。
『ルパン三世 カリオストロの城』のミートボールパスタ

『ルパン三世 カリオストロの城』のミートボールパスタ
厳密には宮崎駿作品というだけでジブリ作品ではないものの『ルパン三世 カリオストロの城』もまたジブリ飯の筆頭と呼べる。ここでルパンと次元が食べるミートボールパスタはそのボリュームと二人の食べっぷりによってめちゃくちゃ美味しそうに見える。二人が互いに気の置けない仲間であるからこそのシーンだと思う。
『天空の城 ラピュタ』のパン

『天空の城 ラピュタ』のパン
『天空の城 ラピュタ』に登場する、通称ラピュタパンと呼ばれる、トーストの目玉焼き乗せ。確かに美味しそうではあるが、パズーのカバンの中からそのま取り出されたラピュタパン。包装と何もしてないようだが、大丈夫なのだろうか。
『もののけ姫』の雑炊

『もののけ姫』の雑炊
アシタカに助けられたジコ坊が、アシタカとともに雑炊を食べる。ここでジコ坊はアシタカから見せられた礫に対して、シシ神の情報を教える。ここでの料理はアシタカとジコ坊の間に他人を超えた関係性が築かれたことの証でもある。
『となりのトトロ』の野菜たち

『となりのトトロ』の野菜たち
個人的にはこれがイチオシ。私自身、キュウリもスイカもあまり好きではない(瓜系が苦手なのだ)のに、『となりのトトロ』の野菜たちはどれも瑞々しく、魔法のように今にもかぶりついて食べたくなるほど。これは、田舎の暮らしの純粋な一面を象徴しているように思う。
[itemlink post_id="4266" size="L"] [sc name="review" ][/sc] 『となりのトトロ』には少し不気味な都市伝説がある。改めて紹介する必要もないと思うが、有名なものでいうと、 […]
このように、食事しているキャラクターの様子とも相まって、アニメではあるもののめちゃくちゃ美味しそうに見えてしまう。アニメーションでこの魔法を使える映画監督はそう多くはない。
なぜジブリ飯はこれほど美味しそうなのか
なぜジブリ飯はこれほど美味しそうに見えるのだろう?
映画監督の押井守は、宮崎駿の描く食事(ここでは『千と千尋の神隠し』で千尋がおにぎりを食べて泣く場面)について以下のように述べている。
「少なくとも宮さんは、僕の知る限り、ものを食べるという芝居に関しては第一人者ですよ。 僕はね、自作に食べるシーンを入れるという意味でも、とても宮さんに共感していた。『コナン』の頃から、食事シーンは本当に素晴らしい。僕も実写、アニメ問わず、食べるシーンは必ず入れるんだけど、そう簡単じゃないんだよ。とりわけアニメーションになると難易度が上がり、ほとんどは失敗してしまう。そもそも僕と宮さんが意気投合したきっかけも、その食事シーンのことがあったからだからね。宮さんにとって食べることは、走ったり飛んだりすることと同じ。おにぎりを食べながら泣くなんていうのは、まさに美味しそうに食べるという行為の究極的表現でしょ」(著著『誰も語らなかったジブリを語ろう』より)
ではなぜ宮崎駿は「食べる」という行為にこだわるのか。それは生命が生きる上での最も根源的な行為だからだ。寝て、食べて、排泄する。
それが生命の最も原始的な働きなのである。
それを描かずに、文明を描くことは、人間もまた一つの動物であるという事実に目を背け、もっと言えば、あらゆる生命の中で「人間」だけを特別視することに繋がるのではないか。
押井守は宮崎駿の意見に同調した上で以下のようにも述べている。
「いまどきの若いアニメーターは、要するに紙の上でしか仕事をしていない。そして、アニメーションしか観て育ってない。しかも、ロボットもののような作品しか観ていないので、人間がものを食べて排泄するという、もっとも〝生〟の実感を得られるところから一番遠い場所で仕事をしている」
加えて、個人的には宮崎駿の描く料理にはノスタルジーや憧れが反映されてるように思う。
どういうこと?と思われた方もいるだろう。
わかりやすく説明するために、ここではもう一人の人気アニメーター、新海誠の作品を取り上げてみたい。個人的には宮崎駿の食べ物の描き方とある意味で対称的だと思うのが新海誠だ。
ジブリ飯と新海飯
新海監督は食事シーンを描くことについて、以下のように述べている。
「物語のなかで、食事のシーンというものはとても大切であり、いろいろな意味が重なる。誰かと食事をするとき、お互いの口のなかを見せ合うという意味ではとても無防備な瞬間であり、関係性を投影できるんです」
ただ、そこに登場する料理は、宮崎駿の描く料理と決定的な違いがある。
『天気の子』
例えば『天気の子』ではヒロインの陽菜が家出してきた帆高のために育てている豆苗やねぎを切って、そこにポテトチップスなどを加えたチャーハンを作ってもてなす。

『天気の子』のチャーハン
この場面について新海誠監督はこう語っている。
「誰によって食事をもたらされるのか、誰と一緒に食べるのかという流れを組み立てるのは、すごく重要でした」
食事の場面は、その人物と、共に食事をする相手との関係性まで象徴する重要な場面であるという意味では、宮崎駿の描く食事と同じだろう。しかし、宮崎駿はそこに「相手との親しみ」や「楽しい記憶」を投影させるのに対して、『天気の子』で新海誠の描く食事はそれ以上に「貧しさ」や生きづらさを示す記号になっている。
だからだろう、その場面を見直しても、あまり食べたいとはならないのだ。
ちなみに映画の公開当時、コンビニで陽菜の料理を再現しかチャーハンも販売されていた。おそらくこのようなタイアップも宮崎駿ならば許可しないだろう。食事とは単に料理を摂取するだけではない。お金で買えないものの象徴でもあるからだ。
[itemlink post_id="4102" size="L"] [sc name="review"][/sc] 『天気の子』 2016年に公開された『君の名は。』は新海誠監督のブレイク作にして、251億円もの興行収入を記録し[…]
『君の名は。』
もう一つ、『君の名は。』で三葉(この時、瀧と入れ替わっているので、外見は瀧だが)の食べる東京のオシャレカフェのスイーツも同じようにジブリ飯と比べると、そう美味しそうには見えない。

『君の名は。』のカフェのスイーツ
これも食事というよりも田舎の人間が都会の生活に憧れる場合の一種のステータスとして機能してしまっているからだろう。
[itemlink post_id="4108" size="L"] [sc name="review" ][/sc] 『夢と知りせば ー男女取りえばや物語』2016年に公開された新海誠監督の『君の名は。』は元々の企画の段階ではこの[…]
分かってほしいのは、新海誠を非難したいわけではない。
新海誠自身、食事について並のアニメーター以上にこだわりがあるのは今までの発言からも分かるだろう。そして事実そう描いているのもよく分かる。
ただ、宮崎駿が常に未来であったり、中世や近代などの過去を作品の舞台にしてきたのとは対照的に、新海誠は常に現在を描いてきたということだ。現代を正直に描くならば、食事一つにしても、その家庭を取り巻く様々な事情が反映されているはずだ。その意味で『天気の子』はこの上なくリアルなのだ。それ故に食事はそれ以上の意味を持ってしまう(劇中の食べ物もただのハンバーガーではなく、マクドナルドであったり、アサヒビールであったりと、限りなく匿名性が薄いのは確信犯だろう)。
ちなみに、宮崎駿の作品でも『千と千尋の神隠し』で豚になった両親が食事(この場合は餌を食うと言ったほうが正しいだろうか)しているシーンだけは不味そうに描かれている。
これは現代が飽食の時代でもあることの現れだろう。まぁ『千と千尋の神隠し』公開当時には子供の貧困など今のようにほとんどクローズアップされることはなかったと思うが。
ジブリ飯が象徴する「生の実感」
ジブリ飯については、ジブリ作品に登場する「食べ物」のみをテーマにした展覧会が開催されたほどで、いかにジブリ飯が魅力的かがこれだけでもわかる。
科学技術は発展し、社会はすでに我々が望んですらいない便利さを一方的に与えられるようになった感覚さえある。そんな中でジブリ飯は一貫して「生の実感」を食事を通して描いてきたからこそ、ジブリ飯は魅力的に映るのではないか。
宮崎駿はあらゆる時代を作品の中で描いてきた。そこで登場する食べ物は、ある人にとっては新鮮で、ある人にとっては懐かしくもあるだろう。親しい人と囲む食事は現代を覆う困難をしばし忘れさせる温かさがあるのかもしれない。